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終話
◇
無様に目を腫らした翌日。
学年が違えば、校内でもなかなかバッタリ出会うことはない。いつもの様に代わり映えのない時間が過ぎ、あっという間に放課後になった。
普段より幾分か重い足取りで図書室へと向かうと、そこにもまた、変わらない日常が広がっている。昨日あったことが、嘘か幻のようだ。
ほとんど人の居ない図書館の空気は冷たく、俺の心を更に沈ませる。
定位置であるカウンターを離れ、誰もいない読書スペースに腰を下ろす。いつも、藍……いや、紺と座っていた場所だ。
酷い仕打ちを受けたのに、どうしても俺は紺を憎み切ることができなかった。たくさんたくさん涙を流したのに、胸に広がるのは切ない想いだけ。
ここで、こうしてゆっくりふたりで絵本のページを捲る時間が、本当に好きだったのだ。
───ガラッ
ひと気の無い図書室に、誰かが入ってきた。足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。目を向けなくても、その足音が誰のものだか分かってしまうのが悔しい。
その人は俺の前に立ち止まると、繊細さの欠片もない手つきで椅子を引き、ドスンと腰を下ろした。
「……紺くん」
「藍じゃなくてガッカリした?」
「ガッカリなんてしてない」
あんな場面を目撃されたのだ。今は、藍の顔こそ見たくないかもしれない。
「諦め、ついた?」
紺が、机に肘をつく。
「なに……?」
「藍の事。ずっと物欲しげに見てただろ?」
「なッ、」
「でも、昨日の藍の顔で分かっただろ? アイツは、アンタなんて見てないよ。だってアイツが好きなのは、俺だから。アイツ、俺とセックスしたいんだって」
思わずひゅっと喉を鳴らすと、紺が馬鹿にしたように笑った。
「驚いた? 笑えるだろ? アイツ、永遠に俺以外眼中に無いんだって。だから、どれだけ藍に想いを寄せたって無駄なんだ」
「別に、どうにかなりたかった訳じゃない!」
思わず机を叩いた。紺が少しだけ目を瞠る。
「確かに藍くんを見てた。素敵だなって、思ってた」
紺が、馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らす。
「でもそれは、恋ともよべないような、憧れみたいなものだったんだ」
「見苦しい嘘をつくなよ。昨日まで、キラキラした目で俺の事見てただろ? 藍だと思って、嬉しそうに絵本の話をしてさ」
「嬉しいに決まってる! こんな俺の話を、あんなに真剣に聞いてくれたんだから! あの日、本気で興味を持って、話しかけてくれたんだろ?」
「……は?」
「最初から、紺くんだったんだろ? 絵本の事、話しかけてくれた最初の日から」
「何でそう思う? 最初は藍で、途中から俺だったかもしれないだろ」
「違う、藍くんじゃない。昨日までは思い込んでたけど、今ならわかる。最初から紺くんだった。笑った顔も、話し方も、纏ってる空気も全部、紺くんだった」
紺は苦虫を噛み潰したような顔をして、俺から視線を逸らした。
「で? なに? 今更ガッカリしたって……」
「一緒に居られて嬉しかったのは、藍くんだったからじゃない。馬鹿にしないで俺の話を聞いてくれた、昨日までの〝あの人〟だったからだ」
「あの人……」
「ねぇ、返してよ……」
あんなにも、胸が締め付けられるような時間を……キラキラしていた時間を、あの場にいた、あの人を。
「返せ! 昨日までの彼を返せよ! バカ! アホ! 酷いよ! 嬉しかったのにっ、本当に嬉しかったのに!」
「おいっ、ばか止めろ、暴れんなって!」
紺に向かって腕を振り回す。
昨日流しきったと思っていた涙は、まだまだ奥から溢れてくる。俺が泣き喚くところを見たかったなら、きっと紺は指をさして笑うだろう。でも、どうしてか紺は慌てた。
「な、なんで泣くんだよ」
「泣くに決まってんだろ!? 嬉しかったのに! 俺が欲しかった絵本だって見つけてくれて! 本当に嬉しくて……誰だって、自分を想ってくれてるんだって期待する! なのに、全部嫌がらせの為だったなんて……キス、だって……」
ひっ、としゃくり上げたところで、紺が机に乗り上げた。近づいた俺の後頭部に大きな手を回し、力いっぱい引き寄せられる。俺の顔は、ぼすんと紺の胸に埋まった。
「アンタ、藍が好きなんだろ」
「俺が好きなのは、昨日まで一緒にいてくれた人」
「だから……」
「教えてよ、昨日まで俺と一緒にいてくれた人は誰? 俺が好きになった人は、誰?」
自分を抱き寄せる紺の胸を押し、その瞳を見つめた。
「ちゃんと、教えて」
俺を見つめ返す瞳がゆらゆらと揺れ、困ったように逸らされる。いつもの様に意地悪に歪む口元が、何かを迷うように薄っすらと開いた。
「烏丸……紺。地味な図書委員に一目惚れして……でも、俺を怖がるそいつに近づく方法が分かんなくて、他のやつを見てるのが気に入らなくて…最低な手段をとった……馬鹿な男」
いつもの強気な視線はどこにもない。迷子の子供のような目をしていた。
「俺、いま思い出したんだけど」
「……」
「紺くん、途中から『僕』じゃなくて『俺』って言っちゃってたよ」
『それ、俺も読んでみたい』
『俺にはスマホもパソコンもあるからね』
俺の好きな絵本の話をしたあの時。俺の好きな本を見つけてくれたあの時。そう言った彼は、確かに藍の仮面を付け忘れていたのだ。
「最初は確かに、紺くんが怖かった。全てを見透かされていそうで、馬鹿にされてるんじゃないかって。でも、俺の話をちゃんと全部聞いてくれる優しいところとか、たまに見せてくれる不器用な笑顔、ちょっと乱暴な口調のきみを、好きになった。俺は、紺くんが好きです。……大好きです」
日当たりの悪い図書室に、珍しく光が差した。眩しくて思わず目を細めたその先に、顔を真っ赤に染めた紺がいた。
少年と呼ぶには大人っぽすぎる、美しい人。そんな人が、こんな平凡な男の言葉に感情を動かされているだなんて。
「昨日のキス……嫌がらせじゃない、って言ったら喜んでくれんの?」
伸ばした手は、簡単に紺の頬に触れた。この顔に、この男に、触れたいと願う人間はどれほどいるのだろうか。同じ美しさを持つあの彼さえ、この意地悪な男に触れられたいと願っているのだという。
俺は、こんな大それたことをする様な人間じゃなかったのになぁ……。視界いっぱいに広がった紺の顔。何かを期待した紺が瞳を閉じた。俺の唇が、芸術品の様なそれに触れた。
「ッ、」
驚きの色をありありと映し見開く瞳に、気分が良くなった。
「……意趣返しのつもり?」
眉をひそめる紺に、にやりと笑ってみせる。
好きだけど。騙されたことは、やっぱり腹が立つ。だから口ではなく、口元の黒子にしてやったのだ……キスを。
「口にされると思った? ざーんねんでしたー」
「へぇ……?」
べーと舌を出した俺に、机に乗り上げたままの紺が余裕たっぷりに口端を吊り上げた。先ほどまで、頬を朱に染めた男は何処に……。
「騙したことを、まだ怒ってるわけだ」
「当たり前だ! それとこれとは話が別なんだからな!」
「じゃあ、口にはまだしてくれないんだ?」
「そ……、そうだよ、俺が許すまでは口にしてやらない」
「分かった。じゃあ、口は我慢するからもう一回だけ、ここにちょうだい」
紺が、左の口端の点を指でつつく。
「い、いい……けど」
キスはキスなのだ、そこにするのだって本当は勇気がいる。でも、慣れている様子の紺に悔しさが滲んで、ついつい強がってしまい彼に手を伸ばした。
あ、と思った時にはすでに手は紺の綺麗な指に絡み取られ……黒い点に向かっていたはずの俺の唇は。
「う、嘘つき……!」
簡単にずらされ、形の良い柔らかいそれに捕われた。
嘘つきで、意地悪な本当の君と話がしたい。
部屋の本棚で見つけた絵本の背表紙のことや、俺が欲しがってた絵本を見つけてくれたこと。一目惚れだなんて言ってたけど、俺のどこにそんな惚れられる要素があったのか……それが、いつのことなのか。
話がしたい。
君ともっともっと、話がしたい。
END
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