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第2話

 ◇  ざわざわと賑やかな教室にいることが苦手で、俺は図書委員であることを理由に、いつも図書室へ詰めていた。  暑い季節とはいえ、それぞれの教室にクーラーがある今の時代に、わざわざ窓を開け放たれた図書室へと来る者はほとんどいない。だからこそ、俺はここが好きだった。  手元でページをめくっているのは、カラフルな色が楽しげに使われている、幼い子供向けの絵本だ。  昔から本はよく読む方だったけど、その中でも特別好きなのが絵本だった。  小説のように、文字から自分で色を起こして想像できる世界も好きだけど、一目見て分かる、絵本の鮮やかな世界が一等好きだった。自分に足りない色が、補える気がするのかもしれない。  だけど、立派な高校生男子がいつも絵本を見ていることが一般的でないことは十分分かっている。だからこそ、こうしてひと気のない放課後の図書室で眺めているのだ。 「それ、絵本?」  ハッとして声のした方を見上げると、そこには双子の片割れが立っていた。目元にあるホクロで、それが藍であると分かる。その隣に、俺の苦手な紺はいない。 「あ、藍く……、わっ」  恥ずかしくて慌てて絵本を閉じて、カバンにしまおうとする。すると藍は少しも笑ったりせず、俺の腕を引き止めた。 「なんで隠す?」 「えっ、だ、だって」 「それ、僕にも見せて」  失礼だと分かっていても、思わずジッとその顔をみてしまう。何度見ても美しいとしか言いようのない、完璧な容姿が俺を見下ろしている。 「隣に座ってもいい?」 「……馬鹿にしないの?」 「なんで?」  藍は、勝手に俺の隣へと座った。 「だって、これ……絵本」 「絵本だと、何か悪い?」  いつものふんわりとした笑みは向けられていないのに、その言葉に妙に安心した。  おずおずとカバンから絵本を取り出し、もう一度机の上に置く。 「ラベルが付いてないけど、個人的な本?」  絵本を手にとった藍が、首を傾げた。俺は静かに首を縦に振る。 「昔から、絵本が好きで……見てると心が落ち着くんだ」 「へぇ」  馬鹿にした風でもなく、だからと言って特に興味もなさそうに藍が相槌を打つ。そのまま、長く綺麗な指でゆっくりとページをめくっていく。 「いつも持ち歩いてるの?」 「うん……」 「今日持ってるのはこの本だけ?」 「そう、今日はこれだけ」  そこまで言ったところで、藍が絵本を閉じた。 「他のも見せてよ。また、明日来るからさ」  今日ここで会ってから、初めて藍がふっと口元だけで笑った。その微かな笑みに、どうしてか今までで一番、目を奪われた。  あの日を堺に、毎日放課後に絵本を一緒に見るという日課ができた。 「この作家さんは、全部指で色を塗ってるらしくて」 「へぇ?」 「色が、筆とは違う独特の混ざり方をするのが気に入ってて」  大好きな絵本を語るときだけは、隣にいるのが芸術品みたいな相手だということを忘れてしまう。いかにその本が素晴らしいかを語っていると、漸く隣の視線が本ではなく俺に向けられているのに気付いた。  案の定、隣を見るとバチッと音を立てるほどにしっかりと目が合う。 「あ……ごめん、こんな話しても面白くないよな」  勝手に一人で舞い上がっていたと思うと、カァと血が顔に集まる。 「いや、面白いよ。学の一番好きな絵本はどれ」  長机に肘をついて、その手の甲に顔を乗せた藍が俺に問う。  藍が俺のことを学と呼ぶようになったのは、二度目の絵本鑑賞会の時だった。  本当にまた来てくれるとは思わなくて、姿を確認した途端立ち上がってしまった俺を見て、藍はくすりと笑う。 『学、って呼んでいい?』  楽器の音が響くような声に、誘われるように首を縦に振る。その日から一週間、毎日藍は俺から絵本の説明を受けている。 「一番好きな本?」 「そう、一番」  少しだけ悩んでから、俺は口を開く。 「昔……本当に小さい頃、一度だけ図書館で読んだ本が忘れられないんだ」 「どんな本?」  俺の顔を覗き込むように傾いた、藍の顔。その視線に頬がほてる。 「タイトルは忘れちゃったんだけど……広い海の中で泳ぐ、たくさんの魚の中の一匹が主役のやつ。全然美しくもない、特徴のない色をした魚で……仲間の中でも、個として認識してもらえないのが悩みなんだけど」  海の中で生きる魚には、美しい色の体を持つものがいる。だけどその魚の体は地味な色で、周りには同じ色の魚が溢れるほど泳いでいる。  それは安心を与えてくれたけど、寂しさもまた与えた。  この中で、自分がいま突然消えたとしても……きっと、誰も気付かない。そう悩む地味な色の魚。  まるで自分のことを描かれているようで、驚いたのだ。 「何件か本屋を回って探したんだけど、タイトルも覚えてないし、凄く古いものだから見つからなくて……俺、パソコンもスマホも持ってないから行き詰っちゃって」 「その魚、最後どうなるの」  俺は僅かに俯いた。 「群れを飛び出して、カラフルな色を持つ魚の群れに飛び込むんだ。だけど結局馴染めなくて、逆に目立ったりして危険な目にあって、最後は元の群れに……戻る」  あまりスッキリとしない、気分のいい話ではない。 「それでも、俺はあれが一番好き」  下げた視線を戻すと、藍は俺を見たままゆっくりと瞬いた。何を言われたわけでもない。微笑まれたわけでも、何か表情を変えられたわけでもないのに、ぎゅっと胸が掴まれる気がした。  その地味な魚に自分を重ねていることに、気付かれているかもしれない。 「それ、俺も読んでみたい」  俺の頬を、冷たい何かがスルリと滑った。驚いて顔を跳ね上げたときには、既に藍はさっきと同じ体制に戻っていて、俺の頬に何が触れたのかは分からなかった。  藍は放課後、いつも本を借りに来るときとは全然違う顔を見せる。いつも浮かべている穏やかで当たりの柔らかい笑みも素敵だけど、こうしてふたりきりで会う時だけ見られる、少し表情の乏しい雰囲気も好きだった。  こちらの方が、本物の気がするからだ。  藍への恋心は、前と比べて随分と変化を遂げた。 まるで子供が絵本に向けるような幼稚な形をしていたそれは、こうして放課後会うごとに成長して、ただきらきらしていた世界は俺に痛みを教え込む。  息をするのも苦しくて、ふと目があった後に細められるその瞳を思い出すと、なんだか涙が出そうになるのだ。  味気ない高校生活の最後に、嬉しい思い出を作ることができたと……静かな終わりを覚悟した俺に大きな事件が起きたのは、藍に絵本を十五冊ほど紹介し終えた頃だった。  教師たちは研修があるらしく、その日は午前のみで授業が終わった。図書委員の仕事を少し片付け、時計を見ると下校時間から二十分が過ぎていた。  今日はいつもと違うから、流石に藍も来ないのかもしれない。少しだけがっかりした気持ちで、図書室を後にしようとしたその時だった。ガラ、と音を立てて図書室に人が入って来た。目元に、ホクロがある。 「藍くん! 俺、てっきり今日は来ないかと思って」  肩掛けカバンからおすすめの絵本を取り出そうとすると、強い力で腕を取られた。 「これから、僕の家に来ない?」 「え……?」 「ほら、今日はもう下校しないといけないでしょ? いつもみたいにゆっくり話したりできないし、僕の部屋でどうかなって」  好きな人からのお誘いなのだ、とても嬉しい。だけど、こうしてゆっくり話せるのはひと気の無い図書室だからだ。彼の家にいけば、彼の兄弟である紺もきっといる。……俺の、苦手な人。 「大丈夫、紺なら今日は帰りが遅いから」 「えっ、いや……あの、」 「ね? 時間がもったいないし、早く行こう?」  少し焦るように腕を引く藍に、戸惑いながらも喜びが勝り、そのまま飛び出すように学校を後にした。  たどり着いたのは、想像通りの巨大な洋風の家。藍と紺の容姿にぴったりの外観だ。 「本当に来ちゃって良かったの?」 「大丈夫だって」  通された家にはひと気がなく、聞けば今日は紺だけでなく、ご両親も家には居ないのだという。  初めて訪れた好きな人の家に、お互いだけの気配しかないというのは妙に緊張してしまう。また、背中を預けているのが藍のベッドだというのも緊張する理由の一つだった。まあ、何かがある訳はないのだけれど。 「どうぞ」 「ありがとう」  飲み物を用意してくれた藍にお礼を言えば、口元と目元を僅かに緩める不器用な笑みを見せてくれる。その笑顔に見惚れていると、藍が俺の隣にゆっくりと腰を下ろした。緊張で体がびくりと跳ねる。  隣に座った藍を直視できなくて、思わず無遠慮に部屋の中を見回す。あまり物が置かれていない、シンプルな部屋。その中にある本棚に目が留まった。たくさんの本が犇めくそこに、見覚えのある背表紙を見つけた。  思わず声をあげかけたその時、俺の肩に藍の体がトン、と触れる。 「実は今日、学に渡したいものがあって呼んだんだ」 「渡したいもの?」  藍は徐に、ごそごそとベッドの下を探った。 「はい、どうぞ」 「え?」 「開けてみて」  渡されたのは、一つの平たい箱。箱には何も描かれていなくて、何が入っているのかサッパリ分からない。  そうして恐る恐る封を切り、箱を開いてみる……。 「え……う、嘘だ……!」  弾かれるように藍を見ると、その瞳が優しく細められる。 「だって、どうして……」 「俺にはスマホもパソコンもあるからね。内容聞いてたし、直ぐ見つかった……と言っても、綺麗だけど残念ながら中古品。新品はもう存在しなくて……」 「いいっ!」  藍の言葉に被せるように叫び、渡された箱ごと抱きしめる。  あれだけ欲しくて、でも、手に入れられなかったモノ。本屋に聞いてもダメだったから、もうきっと手に入らないと諦めていた、欲しくて欲しくてたまらなかったモノ。 「嬉しい……嘘みたいだ……ほんとに、ほんとにありがとう、あ……」  藍くん。そう呼ぼうとした言葉は、柔らかな何かに奪われた。 「んっ、んぅ」  唇には、藍の唇が重なっていて、驚いた声さえ呑み込まれる。何が何だか分からず瞬きを繰り返すうちに、漸く自分は藍とキスをしているのだと理解した。  だけどその時にはもう、重なるだけだった口付けは深いものへと変わっていた。 「ふぅ、んぅ! んっ、ンう!」  口の中をかき回すようなそれに、頭の中はぐちゃぐちゃに乱され、全身が発火しそうなほど熱を持った。  刺激に体はガクガクと震え、思わず藍の腕にしがみついた。驚いたのか、一瞬だけ動きを止めた藍が、俺の後頭部に片手を回し更に深く口付ける。  な、なにこれ……気持ち良い。どうしよう、堪らない……堪らなく、藍が好きだ。そう思って目頭が熱くなった時、入口でバサリと何かが落ちる音がした。 「高塚……先輩…?」 「え……?」  驚いて振り返った部屋の入口に、双子の片割れが立っている。だけど、それは紺ではなかった。目元に、ホクロがある。 「なに、してるんですか……」  いつも柔らかいはずのその声と視線が、硬質で冷たいものになっている。 「え……、え……?」  未だ自分の腕を掴んだままの相手を、見上げた。 形のいい、互いの唾液に濡れた唇の端がゆっくり、ゆっくりと、まるでスローモーションの様に吊り上がっていく。 「あ……、そ、そんな……」  震える指を持ち上げた。やがて俺の指先は、目元にあるホクロに辿り着く。  目の前の男は少しも抵抗しなかった。まるで楽しむように、俺を見下ろしている。  指先が、黒い点の上で滑る。  ホクロだと思っていた黒い点は、指先に擦れ、線に変わった。同じように左の口元を指でこすれば、今度は肌色がズルリとずれて、黒い点が現れた。   「こ、紺く……」 「あー、バレちゃった」  まだ俺の頭に手を回したままの紺を、思い切り突き飛ばした。 「なっ、なん……どうしてっ」  さっきとは違う涙が瞳に膜を張る。 「痛いなぁ……何すんだよ、さっきはあんなに熱く応えてくれたのに」  ぺろりと唇を舐めみせる紺に、思わず口元を両手で覆った。視線を紺から部屋の入口へとずらせば、俺を射殺さんばかりに睨む本物の藍が立っている。 「どうして……こんな……」  言葉を失う俺を見下ろした紺は、その綺麗な顔で笑って言った。 「一瞬でも、いい夢見れただろ?」  ───パンッ  思わず手をあげ、紺の左頬が良い音を立てた。  更に紺の肩を突き飛ばすと足元に転がしていたカバンを引っ掴み、入口に立ったままの藍を押し退けて部屋を出る。  その後どうやって家まで帰ったのか、あまり覚えていない。 「酷い……なんで、こんなこと……」  こんなに泣いたのはどれくらいぶりだろうか。  紺が、俺をあまりよく思っていないことは分かっていた。だからって、こんな仕打ちは酷すぎる。そこまで嫌われる何かをした覚えもない。  いま思えば、ホクロの位置は藍であったものの、すべてが藍らしくなく違和感は多々あった。  いつもは柔らかく笑い、言葉遣いも優しい藍が、妙に態度がぎこちなかったり、言葉が少し雑だったり。だけど、本の話を聞いてくれているときの目が真剣だったから……馬鹿にしたりしていないと感じていたから……。嬉しくて、毎日会えることが楽しくて。  ふたりで会う時、いつも周りに振りまいている笑顔をしまう藍。そんな藍がふとした瞬間に見せる、零れるような笑みが好きだった。  余分なことは何も話さないのに、俺の話をちゃんと聞いてくれるあの静かな時間が好きだった。もしかしたら、俺は藍の特別になれたのかもしれないと、実は期待すら抱いていた。だからこそ、いきなりのキスを拒絶することができなかった。 「いつから騙されてた? いつから紺くんだった…? もしかして、最初から……?」  いつからか、なんて。どれだけ考えたって今更遅い。  子供じみた恋から、痛みの伴う恋を知った時。相手はもう、紺だったのだ。

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