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涙は拭くな凍るまで Ⅴ

「だって俺は明日香のこと好きじゃないから」 理由はあまりにも簡素だった。 「あすかはなんで今泣いてるの?それって俺のこと好きだからでしょ?泣くほど好きってどういう気持ち?俺にはよく分からないから」 「今まで誰のことも好きだって思ったことないの」 「俺が誰とも付き合わないようにしてるのは、誰のことも好きにならないから。そういう中途半端な気持ちで、彼女にしたらこうやってきっと泣かせちゃうから」 言いながら織部は舟橋の頬に滑る涙を指ですくって、それをぱくりと口に含んだ。ぼんやりとただ、舟橋はそれを見ていた。自分がここで暗闇に目を細めて、ずっと織部に聞きたいと思っていたのはそのことだったのだろうか。内容の酷さの割りに、織部がやけに真剣な顔をしているので、きっと茶化しているわけではないのだろうということは分かったけれど、他のことは考えたくないのか言葉だけが上滑りしていくようで、実体がない不確かなものでしかなかった。そんなことで納得できるわけないと思ったけれど、舟橋の乾いた喉に言葉は張り付いて、震える唇からは残念なことにひとつも出てこなかった。 「あすかはかわいくてやさしくていい女だからさ、俺なんかよりきっとすぐいい奴見つかるよ」 また織部がぽんぽんと頭を撫でて、それからにこりと笑った。すっと頭の上から重みが取れる。それから織部は部屋の中に脱ぎ散らかした自分の服を見つけて、まるで舟橋がそれを止めないことを知っているみたいに、悠長に服を着始めた。なんとなくぼんやりした熱い頭で、織部はこの部屋から今度こそ出て行ってしまうのだろうと思った。思ったけれど舟橋にはもう織部を止めることはできなかったし、多分もう止める必要もなかった。そうして織部は身支度を整えると、何が入っているのか不明な重たい鞄を肩にかけると、部屋を出る一瞬、舟橋のことを振り返った。キャミソール一枚で、開けっ放しの窓の前に無様に座っている自分が、その時の織部の目にどう映っていたのだろうと、舟橋は今でも思うことがある。 「じゃあね、あすか」 それが織部と交わした最後の言葉だった。 「舟橋さん、じゃあ俺もう、行くから」 「・・・あ」 須賀原の声にふっと現実に引き戻されて、舟橋は慌てて目の前の須賀原に向かって笑顔を作った。それは呆れるほどもう昔の話だった。今更思い出して胸を痛める必要なんて、多分今の舟橋にはないはずだった。学生時代の若い恋なんて、大人になったら笑い話にできると、ずっと思っていた。現に舟橋は今日織部の横顔を見るまで、織部のことをこんなにも鮮明に思い出すことはなかった。舟橋の隣で笑う彼氏が、例えば織部とは違う笑い方をするなとか、お酒を飲むときに違う飲み方をするなとか、断片的にぼんやりと織部の輪郭を思い出すことはあっても、こんな風に織部の彼女としての最後の光景を、こんなにも鮮明に思い出すことはなかった。舟橋は空調の利いたオフィスのなかで、あの1Kに引き戻されたみたいに、体中の熱が籠ったように頭の中がひどく熱くなっていることを無視して、須賀原の前で笑顔を作ったのだ。 「そうだ、舟橋さん、また同期で飲み会しようよ、他の人も誘って、織部も誘うからさ」 「・・・え、あ、・・・うん」 言いながらそんな会は絶対に開かれないし、開かれても自分は行くことがないだろうと思いながら、舟橋はもう一度注意深く笑顔を作った。 「・・・織部、くん、も元気にしてるの」 「あぁうん、元気だよ、あいつは相変わらずだな、学生時代と変わってない」 言いながら須賀原は多分、他意なんてなく無邪気に微笑んで、簡単に舟橋の心の柔らかい部分を突き挿した。変わっていないのだろうか、本当に?あの日、無情にも織部は部屋の中に舟橋だけを取り残して、実にスマートに去っていった。あれから校内ですれ違っても、サークルで集まる場所でも、織部は何にも変わらなかった。それはもう不自然なほど。舟橋と付き合っていたこともセックスをしたことも、あの夜舟橋が涙を流して織部の前で一番醜い自分の心を吐露した時、まるでそんなものとは無関係を装って清潔そうに、誰のことも好きにならないと嘘みたいに言ったことも、まるで全部自分の妄想みたいだったと思った。妄想ならこんなに傷は痛まないはずだから、そのたびに現実を思い知らされてまた傷口が痛んだ。そんなことを繰り返した末に、織部のことはもう忘れたはずだった。時々思い出したように、目の前の男にふっと重ねて思い出すことがあっても、忘れたはずだと舟橋は今日の今日までずっと思っていた。思っていたはずだった。 「そう・・・今、付き合ってる人とか、いるの」 「え?」 それを聞いた須賀原の驚いた顔を見て、自分は本当はこんなことが聞きたいわけじゃないのにと思ったけれど、舟橋が聞きたかったことは初めからそれひとつだったかもしれない。驚いた顔をした須賀原に向かって、また同じように笑顔を作ろうと思ったけれど、もうそれのやり方も思い出せなかった。 「あー、うん、いるよ、一応」 「・・・―――」 誰のことも好きにならないから、付き合わないと言っていたのに?とその時須賀原に聞いてしまいそうになって、舟橋は少しだけ焦った。須賀原は知らないはずだった、だから須賀原に尋ねても無意味だと分かっているのに。舟橋はまたいつの間にか、あの学生時代に住んでいた1Kに戻っていて、東京のど真ん中で息もできないくらい苦しい気持ちを、窓を開けて脱出させようとしていたことを思い出していた。あの頃は目に映るものが何でも妬ましくて、羨ましくて、それでいて苦しかった。 「まぁ、ちょっと訳ありだけどね」 須賀原は何か言い辛そうにそう付け足して、それから少し力なく微笑んで見せた。舟橋はそれを聞きながら、あんな風に自分たちの純粋な気持ちを、中にはそうじゃなかった女の子もいるかもしれないけれど、そんなことは舟橋の主観の前では無意味だった、自分たちの気持ちを、ただの快楽に任せて端から手折った男が、誰かと一緒に幸せになるような未来があるわけがないと思った。あれから時間が経って、自分も目の前の男のことだけを考えるのを止めて、不必要な妄想に振り回されるのをやめて、もっともっと現実的なところで、未来じゃなくて明日を生きていくための手腕を身に着けて、舟橋は自分はこれでも沢山の努力をして大人になったと思っていた。今の織部がどんな風に生きているのか知らない。見た目が簡単に変わってしまうみたいに、織部も大人になったのかもしれないし、須賀原の言うように学生時代と何も変わらないでいるのかもしれない。 (誰かのことを好きになるって、どういうことか、分かったのかな) 狭い1Kでまだ若かった恋に身を焦がして、泣いていた自分の頬を、確かに織部は拭ってくれた。あれから何年も経って、織部も誰かを思って涙を零したり、苦しい思いをしたりするのだろうか、あの頃の自分がそうだったみたいに。あの頃、無邪気に自分の気持ちを踏みにじった男が、誰かと幸せになることなんて、舟橋にはとても想像できなかったけれど。 (幸せになるな、なんて、私には言えそうもない、けど) その織部がもしも誰かを思って泣くことがあるのだとしたら、その涙を拭ってくれる優しい人なんて、現れなければいいのに。 Fin.

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