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涙は拭くな凍るまで Ⅳ
それから、織部からは特に連絡もなく、大学ですれ違えば挨拶はするし、立ち話もしたような気がするけれど、それらしいことは何もなく、穏やかに日々は過ぎていった。尤も穏やかなのは表面的な話であり、勿論舟橋は織部が違う女の子を連れて歩いている姿を見るたびに、胸が焼かれて涙が出そうだった。そんな風に、そんな風に涙を流してしまうほど、織部のどこが好きなのか舟橋は自分でもよく分からなかった。織部はあの日の前も後も何にも変わらず、相変わらず女の子には「最低」と後ろ指を指されていることも知らないで、呑気に友達と下品な話で盛り上がっていた。織部は多分ずっとこのままだし、きっと期待をしてもこれからも変わらないし、こちら側が諦めたほうがずっと良かった。けれど舟橋は織部が笑って「明日香ちゃん」と呼ぶ度に、他のことを考えられなくなって、それに優しい顔をしてしまう自分のことを後で心底嫌いになっても、その時だけは幸せだった。それが織部の前で目をキラキラさせる彼女たちの正体なのだと、気づくまではさらにそれから随分時間がかかった。
その日は学校から帰ってきた後、バイトもなく、急ぎの課題もなかったので、部屋を適当にきれいに片づけた後は、ゴロゴロしながらテレビを見ていた。何にも考えなくていいから、色彩の強いバラエティー番組が好きだった。安いポテトチップスを齧りながら、舟橋が夜の時間をだらだらと過ごしていると、不意にインターフォンが鳴った。こんな時間に尋ねてくるような友人に心当たりがなかったので、きっと宅急便か何かだと思って、舟橋は完全に油断して扉を開けた。
「明日香ちゃん」
「・・・おり、べ?」
開けた扉の向こうに織部が立っていて、思わず舟橋は扉を閉めそうになった。危険信号がちかちかと頭の中でけたたましく点滅している。織部は閉じかかる扉に手をかけて、それを力づくで開かせると、玄関に踏み入って、踏み入った割には足元が覚束なく、ふらついて壁に凭れた。顔は赤くて、酒の匂いが側に立っている舟橋のところまで香ってくるのに、そんなに時間はかからなかった。酔っぱらっているのだと、舟橋は目の前のことを処理しきれないまま、現実をわずかに切り取って名前を付けた。そういえば織部は、酔っぱらった時に泊めてほしいと言っていたような気がする。もうずっと前に。
「どうしたの、織部、酔ってんの・・・?」
「うーん、今日合コンだったんだけどさぁ」
言いながら織部が少し俯いて、まるでそうするのが当然みたいに、汚れたスニーカーを脱いだ。何となくその光景は見たことがあるような気がした。
「外れだったなぁ、羽村が可愛い子っていう子はたいがいブス」
言いながら織部が笑う。肩から鞄が腕を伝って降りて行って、廊下にどすんと音を立てて落ちた。舟橋はそれが見た目以上に重量があるのだと思いながら、ぼんやりして他のことを考えることを放棄していた。織部は知った風に舟橋の部屋の扉を開けて、ふらふらと中に入っていく。舟橋はそれを止めたらいいのか、何か声をかけるべきなのか、考えながら何も実行できないで、部屋の真ん中に倒れるみたいに寝転ぶ織部のことを、戸口に立ってじっと見ていた。さっきまでそこで寝転んでいたのは自分だったはずなのに、一瞬で部屋の中は他人行儀になっている。コンタクトを取った眼をぱちぱちと瞬かせても、それはやっぱり織部だった。
「・・・明日香がいちばんかわいい」
織部は部屋の真ん中に寝ころんだまま、そう言って立ったまま呆然としている舟橋に向かって手を伸ばした。この光景も知っていると思ったけれど、舟橋は頭の中の冷静さの声を無視した。ふらりと足が自動的に動いてその日に焼けた手に絡めとられる。何でもよかった。嘘でもよかったし、他の何でもいいと思った。織部の体は酒のせいなのか何なのかずっとずっと熱くて、熱くて熱くて、クーラーが利いているはずの部屋の中で、舟橋は熱中症になるかと思った。こんな時に人は水分を根こそぎ失って、部屋の中で熱中症になったりするのだろうとぼんやり考えていた。それなのに、織部はやけに確信的に呟く。
「寒いから、温めて」
その言葉もいつか聞いたことがある。
真夜中、目が覚めた舟橋はベッドの上に起き上がって、じっと足元に広がる暗闇を眺めていた。狭いベッドの上には、織部がまたほとんど裸同然の格好で丸くなって眠っている。その背骨の形を目でなぞりながら、舟橋は鼻の奥がつんとするのに慌てて目を反らした。夜は無駄な感傷に満ち満ちている。やっぱり織部はセックスが終わると電源が切れる電子機器みたいに途端に眠ってしまって、全く起きる気配がない。自分が外でどんな風に囁かれているか知らないから、こんな風に女の部屋の中で無防備に眠ったりすることができるのだろうなと、嫌みを言いたい唇を結んで、舟橋は小さく溜め息を吐いた。嫌みをいくら言いたくても、織部は眠ったままぴくりとも動かない。
(・・・つかれた)
舟橋はベッドからそっと降りて、キッチンに行ってコップに水道水を注ぐと、それを一気に飲み干した。ぬるい水だった。頭の中も体の節々も、熱くて仕方がないというのに、どこか冷めているのはどうしてなのだろうか。部屋に戻って織部がここに来たときみたいに扉の前に立ったまま、布団が中途半端に捲れたシングルベッドで、織部が壁を向いて眠っているその背中を見つめた。いくら見つめてもどうしようもないことは分かっていたけれど、それでも見つめないわけにはいかなかった。
(あつい)
考えながら舟橋は部屋を過って、窓を開けた。窓の向こうは隣のマンションの壁が見えるだけで、全く外へは脱出できない。東京の狭い土地に、そこら中に似たような建物が建てられているその一角のアパートの中で、真夜中だと分かっているのに舟橋はそこから身を乗り出して、大声で叫び散らしたい衝動を、唇を噛んで何とか凌いでいた。苦しかった。その苦しみを誰にも吐露できないことも、誰にも分かってもらえないことも全部、全部全部苦しくて叫んでしまいたかった。
「・・・あすか?」
ふっと後ろからそう呼ばれて、舟橋は慌てて振り返った。薄暗い部屋の中、さっきまで死んだように眠っていた織部の形がわずかに動いて、その眠そうな目を擦っている。舟橋は開けっぱなしの窓の前に立ったまま、それを眺めていた。涙が出るかと思った。
「何やってんの」
「おり、べ」
「・・・寒いから閉めろって」
キャミソールだけの舟橋より、ほとんど裸だったけれど布団の中にいる織部のほうがずっと温かそうだったけれど、織部はまた寒いと呟いて、どうしてなのだろうと舟橋はぼんやり考えていた。分からなかった、織部のことも分からなかったし、彼の腕を我が物顔で掴んでしまえる後輩のことも分からなかった。自分がたったひとりの特別にしてもらえないことが分かった瞬間に、手を翻して後ろ指を指して「最低」と囁いてしまえる彼女たちのことも、それなのにどうしてなのか織部の前に立つと今度こそ自分は、他の数多の女の子とは違うのだと思ってしまう自分のことも、全然分からなかった。織部の声が聞こえているはずなのに、舟橋は一歩も窓の側を動かなかったし、その窓を閉めることもしなかった。ただじっと織部のことを見つめていた。彼女がそうやって動かないでいることを、織部が変だなと感じたのは、それから暫く経ってからだった。
「あすか?」
「・・・いやなの」
「え?」
小さい声が唇から洩れた。掠れた織部の声が疑問符の形になって闇に溶ける。
「い、嫌なの、わたし、織部の、都合のいい女でいるなんて」
「他の女と、しゃべらない、で、合コンなんか、行かないで、手をつながないで、キスしないで、セックスしないで」
「い、いや、なの、だって、わたし、彼女でしょ・・・?」
はぁと口から洩れた息が随分熱くて、熱くて熱くて、寒いなんて嘘だと思った。思った瞬間目からぽろりと涙が零れて、舟橋はそこにぺたんと座り込んで、しゃくりあげて泣き出してしまった。織部はそれを布団の中でしばらく眺めていたけれど、ややあってゆっくりとベッドから降りてきて、泣いている舟橋の側までやってきて、目の前ですっとしゃがみこんで、舟橋のことを覗き込んだ。あんまりにも近くて、泣いていることがまるで恥ずかしいことみたいに思えて、舟橋は慌てて顔を覆って織部から視線を外した。
「ごめんな、あすか」
ややあって織部はひどく穏やかにそう言うと、舟橋の俯いた頭をぽんぽんと撫でた。
「そっか、俺、付き合ってって言ったっけ?たまにやっちゃうんだよな、酔ってると気持ちくなっちゃって」
「彼女は作らないようにしてるんだけど」
そしてまだ涙の止まらない舟橋の前で、織部はいつか居酒屋で見たときみたいに首を傾げながら、平然とそう言って見せた。舟橋はそれを見ながら、不思議と怒りは沸いてこずに、何故だかすとんと織部の言葉が体の深いところまで入ってきて、気持ちはざわざわして落ち着かなかったけれど、頭の冷めたところでは自分でも認めたくないくらいには腑に落ちていた。そういえば不思議なくらい、織部に彼女がいるという話は聞いたことがなかった。あんなに学内ですれ違う度に違う女の子を連れて歩いていても、それを遠巻きに見つめる女の子たちは、決して新しい彼女ができたのだと言わなかった。彼女たちも下唇を噛みながら、多分知っていたのだろうと思う。織部の隣を楽しそうに歩いているのはその一瞬だけで、一日たてば彼女も自分たちと同じ観客に成り下がるだろうことを、多分知っていたのだろうと思う。だから織部の隣を歩く女の子に、特定の名前はいらなかった。
「でも、付き合ってって言ったの多分俺のほうだよね、ごめんな、あすか」
「・・・まって」
どうしてか、その時織部が今すぐにでも背を翻して、この部屋を出て行ってしまうのではないかと、舟橋は織部の話を聞きながら思った。セックスした後、すぐに眠ってしまう織部の背中を見ながら、舟橋は自分はずっとこの話がしたかったのだろうと思ったけれど、多分この話と別れ話が表裏一体であることは分かっていた。織部は自分のことを特別な女の子にはしてくれないし、そんなことに期待をしても無駄であることは分かっていた。都合のいい女でいれば織部は時々家に来て、セックスをしてくれるかもしれないけれど、そんなことに意味があるのかないのか分からなかった。そのたびに湾曲する背骨の数を数えながら、暗闇に涙を我慢するのは途方もないただの徒労だった。そんなことをしても織部は振り向いて笑ってはくれないし、時々寒いと言っては舟橋を温めるストーブにはなっても、それが一時的な熱であることは分かり切っていた。
「な、なんで、なんで私じゃダメなの」
「・・・んー・・・」
世界一愚かな質問だと思いながら、舟橋はその時織部の剥き出しの腕にすがって、そう言うことしかできなかった。分かっていたけれど。誰も織部の特別な女の子になれないことを、たぶん皆分かっていたけれど、その理由を知っているのは織部だけだった。きっと本命がどこかにいるのだろうと、噂程度に聞いたことがあるけれど、確信的なことは誰も知らなかった。そのことに関して言えば。織部は少しだけ考えるふりをして、また舟橋の俯いた頭をぽんぽんと優しく撫でた。
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