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涙は拭くな凍るまで Ⅲ
居酒屋からアパートまで、織部と何を話しながら帰ったのか覚えていない。その後も、これからもきっと、何度思い出そうとしても、思い出すことはできないだろうことを、舟橋は何となく分かっている。その日は真夏で、昼間じりじりと焦がされたアスファルトが、陽が沈んでから反撃するみたいにその吸収したはずの熱を、大気中に放っているような気がするほど、あたりは真っ暗なのにひどく暑かったことだけは覚えている。けれどそれが本当に空気中の温度だったのか、その時の期待をしていた自分の体温だったのかは、もう分からない。その時下宿していたアパートに辿り着くころには、織部は半分くらい目を閉じていて、酔っているというのはどうやら本当らしかった。表面に出にくい分分かりにくいなと、その熱を持った腕を中途半端に引きながら、舟橋はできるだけ現実的なことを考えることに努めていた。アパートの鍵を開けると、確かにそこの1Kは自分が今日の朝出て行ったままの様相だった。朝ここを出て行く時に、織部を連れて帰ることになるなんて、まるで考えていなかった、当然だけれど舟橋は廊下に続く奥の部屋を見ながら、ぼんやり思わざるを得なかった。
「明日香ちゃん」
耳元で織部の声がして、はっとした。こんなところで感慨にふけっている場合ではなかった。ぼんやり立っている舟橋の肩に覆い被さるようにして、織部が体重をかけてくる。それを支えながら舟橋は足先だけでヒールを脱ぐと、首を少しだけ回して後ろを見た。織部は何やらもごもごと言いながら、舟橋がやったみたいに随分汚れたスニーカーを脱いでいる。
「織部、そんな酔っぱらってるの」
「うん、俺、後から回るタイプなの、へへー」
言いながら目じりを下げて笑って、織部がまた後ろから抱き着いてくるのに、舟橋はゆっくり足を進めてとりあえず部屋の中に入った。
「織部、ちょっと放して、ベッド使っていいから」
「・・・なんで?」
「いや、私まだすることあるし、お風呂入ったり部屋片づけたりしなきゃいけないから、織部眠いんでしょ?寝てていいから」
すると、執拗に絡みついていた腕をするりと解いて、織部はまるで何度もこの部屋に来たことがあるかのように、すとんとベッドの上に座った。やはり織部の顔は目の周りだけが赤かったけれど、そんなに酔っぱらっているようにはどうしても見えなかった。確かに目はしっとりと濡れていて、いつもよりとろんとしているような気がするけれど。考える舟橋の前に、織部はゆっくり手を差し出した。それが何の合図なのか分からないで、舟橋はゆっくり手に視線を落とした後、織部の顔を見やった。
「・・・なに?」
「俺、寒いんだけど」
「・・・寒い?」
真夏なのに?考えながら舟橋はもう一度、織部の手を見やった。するとその手が俊敏に動いて、ぼんやり立っている舟橋の腕を掴んで、思ったよりは強い力でもって引き寄せられた。一瞬のことで抵抗もできなかった。そのまま織部はベッドに後ろ向きに倒れて、舟橋はベッドの上の織部の上に、丁度乗っかるような形になる。耳が熱かったのを思い出した。
「寒いから温めて」
織部はストーブ、誰かがそう言っていたのを思い出した。
(やってしまった・・・)
時計は2時を回っているというのに、舟橋は全く眠くなくて、ベッドに腰かけたままぼんやりと散らかった部屋を見ていた。ちらりと振り返ると壁に背中をぴったりとつけて、織部はほとんど裸のような格好で目を閉じてひどく安心しきった顔で眠っている。よく知りもしない女の子の部屋の中で、よくこんな無防備に眠ることができるものだと、舟橋は少しだけ関心をする。皆が挙って陰口を叩いていることを、きっと織部は知らないのだ。そんなことはそして彼にとってはどうでもいい些末なことなのだろう。だって、彼の前では皆嘘でもキラキラした目をしているのだから。セックスした後、まるで他の用はないみたいに、織部は何も話さずそのまま眠ってしまった。体の中に残った熱は、それで急速に冷めてしまって、舟橋は勿論その隣で大人しく体を丸めることなんてできなくて、ひとり起きて部屋の暗がりを眺めている。分かっていた。今日のすべてのことに意味なんて何もないことに、舟橋は多分気づいていた。それは織部が居酒屋で予定調和のように声をかけてきたところから。舟橋にとってこんなことが非日常であるのと全く同じ意味合いで、たぶん織部にとっては日常なのだと思うと涙が出そうだった。織部にとってはこんなことは、部屋の中のベッドの位置が変わったくらいで、何の意味もないしおんなじことなのだ。彼の熱に温められてきた女の子たちと、それを軽蔑していた自分と。
(涙が出そう?好きだったから?)
振り返って織部のことを見てみると、織部はそこでただ眼を閉じて惰眠を貪っている。あれだけ眠そうだったのに、セックスをする時だけぱっちり目は開けていて、それなのに終わったらこんな風にまたすとんと眠りに落ちてしまうなんて、まるで動物だと思った。それしか知らない下等な生き物だと思った。じっと織部の眠る横顔を見ていると、ぽたりと涙が彼の頬の上に落ちて、それがすっと流れていった。涙が出るほど好きだったのだろうか。本当に?一体どこが?分かっているのに舟橋はそれに応えられない。この先には何もない。きっと自分が心血を注いだって織部は振り返って笑ってはくれないだろう。たったひとりの大切な人にはしてくれないだろう。それでもきっと彼に温められた後、女の子たちは寝顔を見ながら思うのだろう。
私だけは彼の知っている数多の女の子とは違うのだと。
翌日、起きた織部はいつものようにへらへらと笑って、用意すると言ったのに何も食べずに、そして何も残さず舟橋の部屋を出て行った。残ったのはベッドの上の僅かな熱だけだった。舟橋も織部に尋ねなかった。付き合っているということは、自分は彼女なのかと、尋ねても無駄だったし、多分返答も怖かったから何も聞かないで、せめて知らないふりをしていた。それでも織部の存在自体を無視することはできなかった。同じ学校に通っていたのだから当然、廊下ではすれ違うし、同じ講義を受けていることもあったし、サークルの中の友達だって被っていた。だから舟橋は織部のことを完全に視野から外すことはできなかったし、それは織部にとっても多分同じだったと思う。織部と顔を合わせないように、できるだけ避けているはずなのに、時々舟橋は織部が「付き合おう」と言ったことだけは思い出していた。確かめられていない真実だけが、舟橋には見えていた。
(あ・・・)
その日、舟橋が講義棟から講義棟へ移動するための2階の渡り廊下から、何気なく下を見下ろすと、そこに織部がいた。いつものように友達に囲まれて、中庭のベンチに座って何やら談笑をしているようだった。当然みたいに織部の隣には女の子が座っていて、これ見よがしに腕を組んでいた。
(みかちゃん)
同じサークルのひとつ下の後輩の名前を呼んで、舟橋はそこに立ったまま動けなくなった。すれ違う度に息ができなくなるほど苦しくなるのは、焦燥しながら安堵している証拠だった。織部はいつも友達と一緒にいたし、隣はいつも違う女の子が立っていた。舟橋を焦燥させたのは、彼女たちがいつも舟橋が持っているはずの名前を我が物顔で名乗っていることだった。そして舟橋を安堵させたのは、彼女たちが決して固定ではなかったことだった。学内ですれ違う織部はいつも違う女の子を連れていて、中には学部も学年も違う見知らぬ女の子も含まれていたし、学校の正門に付けられたスポーツカーを運転する年上の女の助手席に乗って帰っているのを見たという目撃証言まで、兎に角噂も真実も入れ混じってそこにあった。それが舟橋が知っている織部で、そしてそれ以上の織部のことを、舟橋は知らなかった。舟橋が渡り廊下からじっと階下を睨みつけるように見ていると、一緒にいた友達が舟橋が止まったことに気づいて、渡り廊下の向こうから少し小走りになって戻ってきた。
「どうしたの、明日香ちゃん」
「・・・え?あー・・・ううん、別に」
舟橋は自分が織部のことを見ていたなんて、一言も言えないで、彼女のそれに首を振って隠した。織部とセックスをしたことも、酔っぱらって「付き合おう」と言われたことを真に受けて彼女気分でいるなんて、とても友達には言えそうもなかった。
「あ、織部だ」
しかし彼女は渡り廊下の手すりから身を乗り出すようにすると、目ざとく織部を見つけて名前を呼んだ。彼女も同じサークルだったので、織部のことはよく知っていた。
「隣にいるのみかちゃんじゃん、さいあっく、また後輩に手だして」
「・・・あぁ、うん」
「馬鹿だな、みかちゃんも。遊ばれてるだけだって、なんでわかんないんだろ」
彼女が無邪気に呟くそれに、心臓を一突きにされて、舟橋は見る間に呼吸を失っていく。そんなことは分かっているつもりだったけれど、頭で分かっていることと、心で感じることは全然違うことだった。自分ならそんな危険な橋は渡らない。傷つくのが分かっているから絶対に織部と関係を持ったりしない。そんなことはずっと分かっていたし思っていたけれど、あの日居酒屋で酔っぱらった織部が「付き合おう」と言ったただそれだけのことに、あがなえなくてこんなことになっている。苦しいと舟橋は思った。苦しくてやりきれない。自分も蚊帳の外にいて、織部の隣を歩く女の子を指さして笑いたかった。笑っていたかった、無関係でいたかった、どうせ報われないのが分かっているのなら、好きなんかになりたくはなかった。
「どうしたの、明日香ちゃん」
「・・・え?」
「なんか顔、暗いけど、どうかした?」
彼女が首を傾げて尋ねるそれに、「なんでもないよ」と答える声が掠れていた。
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