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涙は拭くな凍るまで Ⅱ
舟橋がまだ大学生だった頃、織部とは同じ旅行サークルに所属していた。名前こそ旅行サークルだったけれど、皆で連れ立って旅行に行ったことなど一度もなく、学校の近くで飲み会をするのが精々だった。織部はそこそこ顔が整っていて、それでいて明るくて、何となくいつも周りに人だかりができているような、そういう元々輪の中心にいるような人で、それが別に特別であるとか、自分の能力であるとか、そんな風にも思っていなくて、多分それは彼が生きてきた中でそんな風にしていることが普通で、何でもないことだったのだろう。そういう男だったから、織部の周りには異性も沢山いたけれど、不思議と誰と付き合っているみたいな噂話を、舟橋は大学に行っている4年間の間一度も聞いたことはない。代わりにあの子とはもうセックスをした、あの子とはまだしていない、みたいに、名簿の上から丸やバツをつけるみたいな要領の噂はいつも溢れかえっていた。織部は誰とも付き合わないけれど、頼めば深夜でもやって来てくれて、抱き締めてくれるらしい。そんな頭の悪い悪口で溢れる織部のことを、女の子たちは軽蔑しながらどこか求めていた。
織部はお金と時間を持て余した大学生というモラトリアムを生きる女の子たちの、それでもどこか寂しい心を温めるストーブだった。
サークルでかわいい女の子は大体一年生の間に、織部の手垢がついていて、それでもそんなことまるで一度もなかったみたいに、飲み会になると皆集まって、お酒の力で馬鹿みたいに騒いだりして、そこの中に確かにいたのに、彼女たちは舟橋には到底理解できない不思議な生き物たちだった。織部がいないところでは、皆眉を顰めて右から左に同じように「最低」と囁く癖に、織部がいれば優しい顔をして、露出の高い服を着て、軽率に織部の腕を引っ張って、甘ったるい声を出したりする。だから彼女たちも織部と同罪なのだ。織部だけが悪いわけではないことを、それを俯瞰で眺めている舟橋のような中途半端な女の子たちは理解していた。理解していたし、それを織部と同じ尺度で軽蔑していたけれど、そういう風に振舞うことができない、自分たちにそうして言い訳しているみたいだと舟橋はひとりで思っていた。皆、織部のことが嫌いだったけれど、織部には嫌われたくはなかったのだ。その矛盾の中にこそ、真実があるような気がしていた。
「隣、空いてる?」
ふっと顔を上げると、それには返事をしていないのに、隣に織部がすとんと座ってきた。そして持ってきたビールのグラスを中途半端に食べ物が残っているせいで、店員が片付けてくれない皿で溢れかえっているテーブルに適当に置く。隣は友達が座っていて、トイレに行っているだけだから、きっと彼女はすぐに帰ってくるだろうと思ったけれど、舟橋はそれを言うことができずに飲み込んだ。何となく自分の番も来るのだろうなと、それこそ名簿の上からチェックをつけるみたいに思うことがあった。友達みたいに露骨に織部のことを嫌っていなくても、それでいて自分だけは他の女の子とは違うから、ただひとりに選んでもらえるみたいな幻想を抱いていなくても、織部はいずれ自分の目の前にやってくるのだろうなとぼんやり思うことはあった。それを自意識過剰だと思う余分を与えないくらい、織部が外聞とまるで一緒だったから、舟橋はそれを見るたびに多分安心していた。けれど思ったより早かったなと、考えながら舟橋はジンジャーエールを飲んだ。
「明日香ちゃん何飲んでんの?」
「え・・・ジンジャーエール」
「なにそれ、酒飲んでないの?」
「・・・さっきまで飲んでたけど、ちょっと回って来たから、熱いし」
俯いてぼそぼそとそう言うと、織部はあははと快活に笑って、自分は旨そうにビールを飲んだ。そんなことを言っている織部だって目の周りは赤く染まっていて、酔っていることは明白だった。織部は酒の席は好きで、よく飲み会には来ていたけれど、その割にあまりお酒が強くないみたいで、皆が二次会に行く頃には、丈の短いワンピースを着た女の子の膝の上で、丸くなって目を閉じていることが多かった。そういう意味で考えると今日の織部は、確かに酔っぱらっていたけれど、まだ少し元気そうではっきりと意識があるようだった。じっと織部のことを見ながら、舟橋が水面下でそんな風に状況を分析しているのを、まるで分っているみたいな顔をして織部はまるで害悪など知らない子供の無邪気さでにっこり笑い、そして目の前で運ばれてきたままの状態で誰も手を付けていなかったピザを手で引っ張って、それをそのまま口に入れた。
「うまいよ、これ、明日香ちゃんも食べれば?」
「あー・・・でも、ピザとか、太りそうでヤダ」
「何言ってんの?ちょっとくらい太ったっていいじゃん、痩せてんだしさ」
言いながら織部はまた笑って、ピザを引っ張ってちぎると、舟橋の目の前に突き出した。溶けたチーズがピザ本体から零れ落ちる。
「え、なになに・・・?」
「口開けて、あーんして」
「・・・えー・・・?」
眉間に皺を寄せてせめても嫌がっているふりの表情を作っては見たけれど、それが無駄になることを多分舟橋も織部も双方ともよく分かっていた。だとすればそんなことは時間の無駄だった。にやにや顔で笑って、織部は一層それを舟橋の鼻先に押し付けてくる。仕方なく口をおずおずと開けると、思ったより乱暴に口にピザを押し込まれて、舟橋はそれをもごもご言いながら咀嚼するので精一杯だった。それなのに織部はにこにこ笑って、そんな風にむせる寸前の舟橋のことを見ていた。
「・・・ね、うまいっしょ?」
「ぜ、んぶ、いれないでよ、苦しか、った」
「あはは、涙目」
言いながら笑う織部の奥の背景が、ぼんやりと溶けて見えた。隣に座る織部以外のものがすべて、歪んで見えて舟橋はおかしいと思ったけれど、頭の中の冷静はもう返事をしてくれなかった。隣に座っていたはずの友達はトイレから一向に帰って来ないし、さっきまで正面に座っていた後輩もいつの間にかどこかに消えてしまっていた。おまけに舟橋の座っているところは、長テーブルの一番端で、誰にも助けを求めることができないのが、はじめから予定されているみたいだった。
「ねー、明日香ちゃんってどこに住んでんの」
「え?あー・・・学校の近くだけど」
なんでそんなことをいきなり聞くのだろうと、舟橋は随分遠くで考えた。それを織部に聞くことをしなかったのは、多分この先の展開が読めていたからだ。
「あー、そうなんだ、じゃあここの近くだ」
「うん、まぁ、近いけど」
「じゃあ、酔っぱらった時に泊めてよ、今度。俺、酒あんまり強くないから、飲み会するといっつも飲みすぎんだよねぇ」
強くないことが分かっているのなら、多分潰れるほど飲まないでいる方法だって、きっとあるはずだった。舟橋は喉まで出かかったそれを無意識で飲み込んで、さらに間を埋めるみたいにジンジャーエールを飲んだ。織部のほうは見なかった。
「悪いけど私、彼氏でもない男の人を家に泊めるほどすれてないから」
そう言って、舟橋はもう一度ジンジャーエールを飲んだ。織部は暫く何も言わなかった。沈黙が怖くて舟橋はグラスに唇をつけたまま、ちらりと隣の織部のことを見やった。織部はそこでテーブルの僅かな余白に肘をついて、舟橋のことをさっきより随分酔いが回ったようなとろんとした瞳で見ていた。目の表面が濡れて光っている。頭の中でチカチカと、黄色い信号が瞬いているのが、その時舟橋にははっきり見えていた。
「ふーん」
「・・・な、なに・・・?」
「明日香ちゃん面白いなぁ、なんで今まであんまり喋ったりしなかったんだろ?俺、明日香ちゃんのそういうところ超好きだわ」
「・・・―――」
喉がごくりとなる音が、耳元で聞こえてそこが随分と熱を帯びているのが分かった。織部はテーブルについていた肘を降ろすと、まるで女の子が自分の可愛さを主張するみたいな方法でかくんと首を傾げてみせた。
「じゃあ付き合おう、それならいいでしょ」
「・・・え?」
反射的に聞き返した舟橋に向かって、織部はもう一度にっこり笑った。
「おーい、織部、二次会行くってー」
その時、静かでまるで予定調和に自分たち二人しかいなかった空間に、沢木の声が響いて、織部の視線はふっとそっちに逸れた。一瞬間があって、呼ばれてはいなかったけれど、舟橋もそっちを見やった。いつの間にか煩かったサークルの仲間たちは半分くらい店の外に出てしまっていて、いなくなっていた。そこで織部と向かい合っていた時間は、体感としてはすごく短かったけれど、とてつもなく長い時間が外では流れていて、まるで自分たちだけがそれに取り残されているみたいだった。
「あー・・・悪い、俺、二次会行かなーい、酔ったし帰るわ」
「マジかよ、女子皆お前待ってんぞ」
「あははー、ごめーんって言っといて」
沢木はやれやれと首を振ってから、ちらりと側に座っている舟橋のほうを見た。そうして何かを言いたそうに唇を割ったけれど、結局何も言わずにひらりとこちらに背を向けて行ってしまった。きっと今日のカモだと言いたかったのだろうと、舟橋はそれを見ながら思った。それを織部は呑気に手を振って見送っている。その眼の周りは少し赤いけれど、そんなに酔っているように見えないとさっき思ったけれど、それは自分の思い過ごしだったのかもしれない。織部はいつも飢えた目をした女の子に囲まれていたけれど、それでいて同性にも少しも疎まれることなく、友達の多い人だった。けれど同性が織部のことを少しも目の敵にしなかったのは、女の子たちがキラキラな目で見つめるその人が、裏ではひどい言葉で詰られていたせいなのかもしれない。
「よし、じゃあ帰ろっか」
「・・・え?」
「近いってどんくらい?歩いて何分くらい?」
言いながら織部は立ち上がって、すたすたと店の中を過って、初めに自分が座っていたらしい場所に取り残されていた自分の鞄を取り上げてひょいと肩にかけた。慌てて舟橋も鞄を持って立ち上がった。確か店に到着した時に隣に友達の鞄も置いてあったはずだったけれど、すでにそこには舟橋の鞄しかなくなっていて、彼女がそれを取りに来たらいくらなんでも分かりそうなものなのに可笑しいと思ったけれど、耳が熱くてそれ以上のことは何も考えられなかった。店の中にサークルの仲間は残っていない。皆、連れ立って二次会に行ってしまったのだろう。今頃夜道をフラフラの足取りで歩いているはずだった。店の外には織部がぼんやりとした目をして立っていて、舟橋はそれを何時間でも眺めていられると思った。
(私って織部のこと好きだった・・・?)
目の前の織部が振り返って、とろんとした目のままにっこり笑った。
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