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涙は拭くな凍るまで Ⅰ
昔付き合っていた男のことを、今でも思い出すことがある。
舟橋 が会議室の扉を開けて外に出ると、隣の会議室の扉も丁度同じタイミングで開いたところだった。そこから社内の人間と、それから知らない顔が何人か出てきたから、どこか別の事務所の人間が来ているようだった。会議室に社内以外の人間が、打ち合わせや何かの理由で来ていることは珍しいことではなかった。舟橋も先輩との打ち合わせが終わったところで、と言ってもその先輩は忙しそうに次の現場に出てしまっていて、舟橋一人が残って頼まれた会議室の掃除を今まで行っていたところだった。いつまでこんな雑用をしなければいけないのかと思う反面、ひとりで会議室にいるとさっきまでそこでピリピリしていたのが嘘みたいに思えるから、舟橋はその時間が嫌いではなかった。掃除も終わって出てきたところで、隣の会議室からでてきた知った人間と知らない人間が混ざった光景を何となくぼんやりと見ていると、そこに知った懐かしい顔があった。
(・・・おりべ)
グレーのスーツを着た男は、舟橋の記憶よりもずっと落ち着いた髪の毛の色をしていて、長かったそれも短く切られていて、なんだか別の人みたいだと思ったけれど、舟橋は彼を見た瞬間にそれが織部だと確信的に思えた。まるで別人のような顔をしているのに、笑った顔は無邪気で昔と少しも変わっていなかったからだろうか。舟橋はここが会社の中であることを忘れるみたいに、廊下に立ち尽くしたまま、織部から視線を反らすことができなかった。織部はというと、ぼんやりと立ち尽くす舟橋には露ほども気づく素振りがなく、社内の人間に囲まれて、何やら談笑しながら舟橋のいる方向に歩いてくる。慌てて舟橋はさっと壁際に身を寄せて、持っていた資料で少しだけ顔を隠すようにして俯き、彼らに進路を譲った。先頭を歩く社内の先輩だけが舟橋に気づいて、ありがとうの意味を込めて手を上げるのに、無言で会釈する。織部はこちらに気づくことなく、仕事をしに来ているはずなのにまるで何年来の友達と会っているみたいに何やら楽しそうな笑い声をあげて、舟橋の前を過ぎていった。一瞬のことだった。その軽薄な笑い方も低い声も笑った時に目の端による皺も全部、舟橋はよく覚えていて、今でも付き合っている彼氏を見ながら、ふと織部ならこんな風には笑わないと思ったりするのだった。すっかり織部が通り過ぎてしまってから、舟橋はゆっくりと顔を上げた。そして見つからないようにちらりと一行の背中を見やる。グレーのスーツに見覚えはない、ダークブラウンの髪にも見覚えはない、なのに一瞬で舟橋は昔の記憶が呼び戻されて、胸の奥が痛いような熱いような、嬉しいような怖いような不思議な気持ちがした。
「あ、ちょっと、織部・・・!」
すると無人になったはずの隣の会議室から、もうひとり誰かが織部の名前を呼びながら飛び出してきて、舟橋は吃驚してまた体をぴったり壁にくっつけた。まるでひっそりと織部の背中を見やっていることが、悪いことだと自分で知っているかのようだった。
「ったく、俺のことなんで置いていくんだよ、あいつ・・・」
大きな声でそうやって独り言を言う、彼がふっと視線を舟橋に向けた。黒縁眼鏡の奥の丸い目がぱちりと瞬いて、舟橋のことを正面から捉える。
「え?あれ?舟橋さん?」
「・・・あー・・・」
彼はその表情をぱっと笑顔にして、壁にピッタリ体をくっつけている舟橋に歩み寄ってきたが、舟橋は彼が誰なのか全く見当もつかなかった。知り合いだろうか。所内の人間ではないし、取引先が同業なのか、それすら区別がつかなくて、一体どういう対応をしたらいいのか戸惑う。
「あれ、もしかして忘れちゃってる感じ・・・?あー、そうか、だよね。俺あんまり舟橋さんとは喋ったことがないからなぁ・・・」
「え、っと、ごめんなさい・・・」
「あ、いいんだ。舟橋さんが謝らないで。俺、ほら同じ大学だった須賀原、はい名刺」
言いながら須賀原がスーツのポケットから名刺を取り出して、舟橋の目の前に差し出す。舟橋も慌てて、ポケットを探って名刺を取り出した。名刺には『真中デザイン事務所、須賀原博巳』と名前が書かれている。そういえば何となく、大学にそんなような名前の同期がいたような気がするが、あんまり接点がなかったのか、舟橋は名前を見ても須賀原のことはあまりよく思い出せなかった。
「こんなところで会うなんて偶然だね、そっか、舟橋さんこんな大手に勤めてるんだ」
「あぁ・・・まぁ、大手っていうと聞こえはいいけど、私なんかもうずっと雑用してるだけだし」
言いながら舟橋は須賀原に向かって笑顔を作った。そういえば、織部も真中デザインだった。就活中やる気がなくて、一番はじめに決まったところにすると、そういえばずっと言っていたような気がする。今までそんなことを思い出すこともなかったけれど、考えながら須賀原の名刺を眺める。
「そうなんだ、そっちもそっちで大変そうだね」
「あぁ、うん、まぁ」
「あ、そうだ、織部見なかった?俺のこと置いていきやがって・・・」
「・・・あー・・・織部、くん、なら、エントランスのほうに・・・」
織部の去った方向に指を指したが、そこにいたはずのスーツの一団はいつの間にかいなくなってしまっている。ここで無駄話をしている間に、既に建物から出て行ってしまったのかもしれない。須賀原は今織部と一緒に仕事をしているのかと、焦る須賀原の横顔を見ながら、舟橋は考えた。なんだか不思議な気持ちがした。羨ましいようなほっとしたような、不思議な気持ちがした。それにしても須賀原は、自分のことを舟橋が良く覚えていないことをまるで何でもないことのように言ったけれど、織部のことは忘れていないことを確認すらされなかった。その質問は、織部のことを舟橋が覚えている前提にしか出てこない種類の質問だった。それを舟橋はどう思ったらいいのかよく分からなかった。須賀原の表情には悪意はない。
「あー、そうなんだ。ごめん、俺もすぐ帰んないと」
「また来るの?」
「あぁ、うん、この仕事上がるまではちょくちょく来ると思う」
須賀原の返事を聞きながら、そうしたら織部もまた来るのかもしれないと咄嗟に思った。さっき隠れるようにしておきながら、会いたいと思っているのだろうかと、頭の中の冷静が言う。会ってどうするのだろう、どうしようもない。昔の傷が痛むだけだ。織部の横顔を見ただけで、こんな風に今まで思い出さなかったことが回帰してきて、胸がいっぱいになって辛いのに。頭の中で黄色い信号が点滅して、自分に危険を知らせてくれているのは分かったけれど、舟橋はそれに従うことはできないことも、ほとんど同じ尺度で分かっていた。そういえば、織部は元々そういう男だった。危険であることは分かっていたはずなのに、それで傷つくのも分かっているはずなのに、手を伸ばさずにはいられないような、そういう不思議な魅力のある男だった。
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