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第4話「ユキとハル」
「ユキちゃんおかえり!」
晴也の妹・奈津香は今年で10歳になる。最近はもっぱら構ってくれない実の兄に愛想を尽かし、金曜日には必ず一緒にいてくれる兄の幼馴染み、智幸にゾッコンだった。
「ただいまー」
「ハルちゃんに言ってない!!」
「俺もナツには言ってないよー、家に言ったの」
晴也は革靴を脱ぎ捨て廊下に上がると、そのまま自室への階段に足を掛ける。
さしていた傘は玄関のドアの外の壁に立て掛けてきた。
「ただいま」
「ユキちゃんおかえり!」
玄関では智幸が雑に奈津香の頭をわしわしと撫でていた。
晴也はだいぶ中身が大人びている。だからこそ高校では教師や先輩達からの信頼が厚い。代わりに家にいる6歳も歳の離れた妹には大人として接し過ぎて、智幸のように一緒に遅くまでアニメを見たりも付き合わないせいか彼より懐かれていなかった。
晴也の中で、自分はあくまで奈津香の保護者に入るのだ。
「今日ねー、学校でねー、ケンカしちゃってねー、」
「ちゃんと相手ぶっ飛ばしたのか?」
「ぶっ飛ばしたー!!」
「偉い偉い」
また奈津香の頭をわしわしと乱しながら、智幸はリビングのドアを開ける。
訪れた牛尾家はいつもと代わりなく、少し散らかったリビングと片付いたキッチンには晴也と奈津香の母親である冬理(ふゆり)がキュウリを切っている姿があった。
「ユキちゃんおかえりー!」
晴也の目は冬理そっくりの緑色をしている。
見た目は完全に外国人だが、冬理は英語が苦手科目に入る程中身は日本人だ。
「ただいま」
変わりない第二の我が家を見回して智幸は鞄をいつも通りテレビの傍に置き、奈津香が座ったソファに並んで座り、はあ、と息を吐きながら背もたれにもたれる。
「ユキちゃん手洗ってきな〜」
「んー」
「ユキちゃん今行きなー?」
2度目になると智幸は眠さを堪えて立ち上がり、一度リビングを出て洗面所に向かう。
智幸的には世話を焼かれている事もあり、どうしても冬理に逆らえない感じがあった。
着替えて降りてきていた春也が既に洗面台で手を洗っている背後に立つと、無表情のままその背中に向かって声をかけた。
「邪魔」
「ん」
顔も洗っていたらしい。
ビチャビチャになった顔で振り向き、片目を開けて智幸を確認すると、用意していたタオルに顔を埋めえぐしぐしと顔面を擦り付けてからパタパタと手を拭き始める。その間、智幸は無言で手を洗い、洗い終えると振り向いて晴也の方へ手を差し出した。
「自分でやれ」
呆れたように言いながら、智幸は濡れた手の上に先程まで彼が使っていたタオルを置かれて黙ったままそれで手を拭く。
拭き終わると洗面台の隣にある洗濯機に突っ込み、晴也の後に続くようにリビングに再び足を踏み入れた。
「ナツ、一瞬ニュース見せて」
「あっ!だめー!!」
容赦なくチラッとだけチャンネルをニュースに変えると、晴也はちょうど並んでいたこの時間のニュースの内容の見出しを一瞬で読み上げ、奈津香が見ていたチャンネルに戻す。
ソファの上に放ろうとするその手から、奈津香がリモコンを引ったくって抱え込んでしまった。
「良いって言ってないのに何で変えるの!!」
「一瞬だけだったよ」
晴也はろくに相手をしようとせず、怒る奈津香に目もくれずに部屋の中を動き回る。
彼はこれでも奈津香を可愛がっているのだ。ただ自分と違いあまりにも幼稚な妹にちょっとだけ興味がないだけで。
「ダメなものはダメ!!」
「皆んなのテレビだよ、ナツ」
「ダメ!!」
最近晴也に対してめっきり反抗期を迎えている奈津香に、冬理までもため息をついた。
「なっちゃん。ニュースぐらい見せてあげな。帰ってきてからあなたずっとテレビ見てるよ?」
「、、、」
「お兄ちゃん疲れてるんだから。1個ぐらい言うこと聞いてあげて」
冬理の注意を聞こうともせず、俯いてリモコンを抱え、段々と顔を真っ赤に染めて、奈津香はたっぷりとその大きな目に涙をため始める。
「、、、」
別段煩わしい訳ではないのだが、晴也は言っても聞かない奈津香に対して相当に呆れ返っており、何も言わずにただ静かにテーブルについた。
「ナツ、泣くな」
晴也の代わりに智幸は奈津香の隣に座り、また乱暴に頭を撫でる。
バッと抱きついてくる奈津香を上手くあやしながら、テレビの音量を少し下げた。
「お前眠いんだろ」
智幸は奈津香相手には本物の兄のように甲斐甲斐しく世話を焼く。無表情でほぼ笑う事はないが、それでも奈津香には救いだった。
「眠くない!」
「飯食ったか?」
「食べた」
「じゃあ風呂入ってこい」
智幸は、むう、と無意識に頬を膨らませ、顎の下に力が入って二重顎ができている奈津香を見下ろし、ソファの背もたれの向こう、キッチンにいる冬理を振り返る。
「待ってねー、もうお風呂行けるから」
冬理は晴也と智幸の分の冷やし中華と冷しゃぶ大盛りのサラダを作ると、トントンとそれをテーブルに並べていく。
「ハルちゃん片付けお願いね」
「ん」
晴也は家に帰ってくるととにかくさっさと夕飯を食べて寝ようとする。今も並んだ料理にすぐさま手をつけようと箸に手を伸ばしながら冬理の方を見もせずに頷いた。
「ユキちゃん、お夕飯どうぞ」
冬理の笑顔に奈津香を離し、ソファの下に下ろすと冬理の元まで背中を小突いて連れて行く。
疲れ切って眠い彼女はまだ泣きそうなまま、納得いかないでいるのに小さな手を母親に伸ばした。
「お風呂行こっか」
風呂場やトイレなどが奈津香はどうにも苦手だ。普段人のいる家の中で突然1人になる場所が嫌いらしく、自分の部屋にもあまり寄り付かない。
冬理と奈津香が手を繋いでリビングから出ると、智幸は晴也の向いに座った。
「いただきます」
そこに智幸が座るのを待っていたかのように、料理に手を付けていなかった晴也が手を合わせて言った。
その後すぐさま箸を取り、冷しゃぶを小皿に持ってパクパクと順序よく綺麗に食べ始める。
「、、、」
話す事のない2人きりの空間に、テレビの音が響いていた。
「ハル」
「ん?」
気まずさからではない。
もはやそんなものは感じない程、晴也も智幸もお互いの間に流れる沈黙には慣れている。
「ごまだれ」
「自分で取れ」
「あ?」
晴也は智幸が怖い訳でもなかったが、キレた声に面倒そうに自分の方に置いてあった胡麻ダレを取って渡してやった。
晴也は冷やし中華に胡麻ダレを掛けていて、智幸と違って冷しゃぶサラダにはポン酢を掛けている。智幸はその逆だ。
「ユキ、こないだおばさんがお前が悪いことしてないかって連絡して来たんけど、何もしてないよな?」
「悪いことって何だよ。下らな」
「普通に、万引きとかナンパとか?」
(ナンパって悪いことなのか)
晴也の「悪いこと」が何だか幼稚で、自分がどんな事をしているのかなんて想像もできないのだろうな、と智幸は呆れる。
晴也は昔からそうだ。
自分と違って落ち着いていて、自分が欲しいものは全部持っている。いつもそばにいてくれる両親と、懐いてくれる妹。信頼のおける友達。
人好きされる性格と、回転が速く出来の良い頭。
目立つ容姿。
(良いよなあ、お花畑で)
悪いことなんて思いつきもしない純粋さすら持っている。
智幸にとってそれは何とも羨ましかった。
(お気楽で)
周りの「普通」の奴らと同じで、晴也は安定した将来を約束されている。
対して、智幸は自分の将来が全く見えていなかった。
何も確定していない。学力もなければ素行も悪く落ち着きがない自分が、まともな大学に行けるとも職につけるとも思っていなかった。
「んな馬鹿みたいな真似してねえよ」
万引きにはダサいなと言う認識があってした事がない。ナンパや出会い系アプリの利用は正直たまにしているが「悪いこと」ではないと言う認識だ。
海外生活を送る自分の母親は毎日、朝と夜に絶対に携帯電話にメッセージを送ってくる。それが途切れた事はなかったが、返信した事もない。
代わりに晴也が連絡を取っていると言う事も想定内だった。
「ん。じゃあそう言っとく」
「、、、」
晴也は大人びている。
こうやって会話をしていても、智幸は何処か晴也から取り残されているような気がしていた。
色素の薄い茶色の髪がサラ、と揺れる様はやけに色気が増していて、高校に上がって思い切って上げた前髪は綺麗な白いおでこが見えて垢抜けた雰囲気がある。
「、、ハル」
「ん?」
「彼女出来たんだろ?」
何故バレたのか、と晴也は考えた。
心臓が一瞬ドクッと嫌な音を立てて、けれどすぐに「落ち着け」と自分に言い聞かせる。
「、、できた」
短く一言だけ答えると、ふぅん、とさして興味のなさそうな返事が返ってくる。
「お前もいるんだろ」
「、、特定のはいない」
「なんだそりゃ」
不特定多数と常に関係を持っている智幸は、別にそれを自慢したい訳ではなかったが真実を晴也に伝えた。
彼は大きく驚いた様子はなく、一瞬こちらに視線を合わせてからまたすぐに冷やし中華を頬張って麺を吸い上げている。
「、、、」
狼狽えなかったな、と智幸は思った。
(あん時、めっちゃ怒ったくせに)
脳裏に蘇った光景はもう懐かしくて遠い。
それに胸がギュッと締め付けられたが、智幸は表情には出さないように務め、無言のまま冷しゃぶを口に入れた。
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