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第26話「ハルの不在」
「お母さん」
小さい頃から、智幸の両親は忙しい人間達だった。
「ごめんね智幸。お父さんの付き添い行かないといけないから、今日はハルくんのお家にいてね」
「俺も行っちゃだめ?」
「ごめんね、もう少し大人になってからね」
智幸の父親はプロボクサーだった。
母親はそのマネージャーのような事をしており、体調、体重管理やマスコミへの対応など、様々な事を神経質で口下手な父親に代わって多くの人間と共にこなしている。
自分の子供の面倒よりも、夫の面倒を見なくてはならない人だった。
「俺も行きたいっ」
「ごめんね、智幸。待っててね。お父さん勝ったらお休みもらえるから」
父親から血が出るところを息子に見せたくなかった彼の母は、試合がある日は決まって自分の実家か晴也の家に智幸を預けていた。
それが、彼らの歪みのようなものの始まりだった。
「だから、待っててね」
母は智幸にそれだけ言うと、冬理に何度も謝ってお礼を言ってからドアを閉めていなくなる。
毎回、智幸はこの瞬間が辛くて嫌いで仕方がなかった。
「ユキ」
「、、、」
冬理に素直に甘えられる訳でもなかった智幸は、泣くのを堪えながら何度でも玄関に迎え来てくれる晴也に手を繋いでもらうのが好きだった。
「テレビ見よ」
別段好きな相手ではない。
たまたま家が1番近く、母親同士が仲が良かっただけだ。
彼ら自身の共通点はあまりなく、ただ一緒にいる時間が多かったに過ぎない。
それでも小さい頃の習慣が身体に染み付き、お互いの匂いで安心して、他とは違う距離感が出来上がるにはそれだけでも十分だった。
ユキの寂しいは病気だ
初めは兄のように接していた晴也がそれを無意識に理解するのに時間はあまりかからなかった。
そしてそれを埋めようと思うのもまた、彼らの中では自然だった。
智幸のワガママを晴也がきく。
晴也に誰よりも甘えていいのは智幸。
それが当たり前過ぎて、誰も何も言わない程肌に馴染み、溶け込んで、誰も触らない程に彼らは出来上がってしまったのだ。
ピンポーン
「なっちゃーん!誰が来たか見てきてー!」
リビングに響いたインターホンの音に一瞬驚きながら、冬理は慌てて、テレビを見ながらソファに座っている奈津香に声を掛ける。
こう言った突然インターホンが鳴る場合の訪問者は大体誰か分かっていた。
「はーい!」
奈津香も察しはついている。
裸足で床を蹴って走り、バタバタ足音を立てながら玄関まで向かうと、誰かの確認もせずにチェーンとロックを外してドアを開けた。
「ユキちゃんだー!」
ドッと勢いよく彼に抱きつくと、わしゃわしゃと雑に頭を撫でられた。
「ユキちゃん、今日月曜日だよ?ごはん食べてく?」
いつもは金曜日に来る筈の智幸が目の前にいると奈津香は喜んでいるのだが、見上げた先にいる智幸は浮かない顔をして無心に奈津香を撫でている。
「ユキちゃーん?」
「、、ハルは」
「ハルちゃんまだだよ」
不思議そうに智幸を見つめる目は彼と同じ緑色。
右耳のピアスに触りながら、智幸はまた無表情に奈津香を見下ろし、ほんの少しだけ目を細める。
「ハルの部屋で待ってていい?」
「うん!いいよー!ご飯食べなよ!」
「ご飯はいい、腹痛いから」
「そうなの?具合悪い?」
「、、うん。具合悪い」
心配そうな目だった。
(あいつと同じ色)
明らかにボーッとしていると、慌てたように奈津香が智幸の手を掴み家に入れてくれた。
「ハルちゃんの部屋行って良いよ!」
階段の前まで来るとパッと手が離され、奈津香はリビングのドアへと向かう。
どうやら智幸が来た事や夕飯がいらない事、具合が悪い事を冬理に伝えに行ってくれたようだった。
「、、、」
トン、トン、トン、と力なく階段を上がる。
木目を視線でなぞりながら一段一段息をついて上がり、行き慣れた晴也の部屋のドアを押した。
奈津香が言ったように、晴也の姿はそこにはない。
(まだヒカルといんのか)
最近、どうにもおかしいな、と思った。
鞄を床に置き、靴下を脱いで丸めてラグの上に放る。
苛立ち過ぎて疲れた身体を布団の間に押し込み、晴也の匂いが染み付いた薄手の毛布で身体を包むと、やっと、力が抜けた気がした。
(早く帰ってこい)
いつもなら触れている筈の体温がない事が、ざわざわと彼の胸の中を急き立てるようだった。
(早く、ハル)
帰って来たらいじわるそうに笑って欲しかった。
「人の部屋で勝手に何してんの」
そんな風に言われて、蹴られても良い。
ただこの胸の寂しさを早く埋めて欲しかった。
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