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第62話「ハルが見てきたユキ」
「何でハルくんに都合良いことばっかりなの!?何言ってるの!?頭おかしいんじゃないの!?」
「頭はおかしいかもしれないけど全部本当のことだよ。原田さん、本当は分かってるよね」
叩きつけられた手が拳を握り、テーブルの上でぶるぶると震えている。
見るからに痛そうに、綺麗に切り揃えられた爪が肉に食い込んでいた。
「俺がいなきゃあいつは高校も卒業できないし、大学も行かない。貴女といてもそこにいないみたいな態度を取り続ける。抜け殻みたいなものを一生見てるだけだけど、耐えられる?」
「自分がいなきゃトモくんは何もできないみたいに言わないで。そうやってトモくんから自由を奪うのはやめて!!トモくんは何だってできる!!私がいるんだから絶対大丈夫なの!!」
恐ろしい程、晴也の目は感情を映していない。
虚ろという訳ではないにしろ、怒りも、焦りも、そうではない他の感情も全部シャットアウトしている。
焦り、怒り、ぐちゃぐちゃになっていく原田の顔をその瞳に反射させるばかりだった。
「トモくんはすごいの、格好いいの!!」
あまりにも彼女が話す「智幸」が本物からかけ離れた理想を混ぜられた虚像に思えた。
「痴漢から助けてくれたり楽しい世界に引き込んでくれるの。私はトモくんに助けられて、トモくんに愛されて人生が変わった!!トモくんはそれくらいすごいの!!愛で人を変えられる!!貴方みたいな人のそばに置いておけない!!下手な事して囲って何もできないと教え込むのはやめて!返して!!」
バンッと何度目かの音がする。
白い手にアザができそうだ。
「私はトモくんを守る!!」
その言葉には一瞬だけ、ピク、と晴也の耳が動いたように思えた。
「、、、何から」
それは久々に聴こえた晴也の感情的な声で、光瑠も顔を上げて彼を見つめる。
悲しげな瞳が、ボーッとテーブルの表面を舐めていた。
「アンタよ!!アンタからトモくんを、」
「違う。何から守るの」
「ッ、、アンタだって言ってるでしょ!!この変態ストーカー!!」
再び伸ばされた彼女の手が、とうとう晴也のTシャツの襟首を掴み、グッと自分の方へ引っ張った。
「アンタから守るって言ってんの!!」
「、、、」
「何とか言え!!」
原田を止めようと光瑠が立ち上がったが、彼の手が彼女の肩に届く前に、晴也は口を開いた。
「貴女が見てるユキは本物のユキじゃない」
「、、は?」
そのときドタ、と言う部屋に音が響いた。
「ユキ」
「、、え?」
音がした方を3人で振り返ると、Tシャツにスウェット姿の智幸がリビングと廊下の中間に立っていた。
「、、、何してる」
彼の見開かれた目には、原田に胸ぐらを掴まれた晴也が写っている。
「トモく」
「何してる」
声は低い。
そして微かに震えていた。
しかし智幸が冷たくそう発しただけで、原田は目に見えて分かる程に動揺し、ビクッと左目の下を痙攣させる。
「と、トモくん、あの、」
殴られていたときの記憶は未だに消えていないのだ。
「トモ待て、話し聞いてくれ。原田は」
「ハルに触るな」
智幸が声を荒げずそう発した事に、一瞬2人は目を丸くした。
「原田。ハルから手、放せ」
長い脚でズカズカとこちらへ歩いてくると、晴也へ近づき、向かいから伸びてきている原田の手を握って離させ、彼から遠ざける。
てっきり殴られると思っていた原田は目をギュッと瞑ったが、何の痛みにも襲われないと理解すると少しずつ目を開いて智幸を見つめた。
「っ、、何でよ」
原田が呟いても、智幸はカーペットの上に座り込んでいる晴也のTシャツの襟首を整え、自分にされるがままになっている晴也を見つめるだけだった。
「ハル、、怒ってる?」
「怒ってないよ。大丈夫。ごめんな、起きたのにそばにいなくて」
晴也がそう言って智幸の頬を撫でると、限界だったのか、智幸は彼にガバッと抱きついて首筋に顔を埋めた。
泣きそうな顔で。
「ッ!!と、トモくんやめてよ!!何してるの!!」
「原田、いいからやめろって!!なあ!!」
暴れ出す原田の腕を掴み、テーブルに足をかけた彼女を無理矢理ソファに引き戻す。
光瑠は改めて目の前で晴也に縋る智幸を見て、どこかホッとしてしまった。
「ハル、、ごめんなさい、俺ちゃんと別れたんだよ、信じて」
声が強張っている。
起きて早々に目にした光景に頭が追いついていないものの、原田の行動で何かを察したのか智幸は震えながら晴也に抱きつき、必死に弁解し始めた。
光瑠はそれを見ていつだかの晴也の言葉を思い出していた。
『人に飼い慣らすなんて言葉、使っちゃダメだよ』
晴也が言いたかったのはこれだ。
これが本当の智幸の姿で、晴也だけがずっと見てきた本来の智幸なのだ。
飼い慣らす必要なんてない。
晴也からすれば、暴れ狂う危険な猛獣などではなく、智幸は守らなければならない弱く小さい存在だったのだ。
「なに、、何なの、何されたらこんなトモくんになっちゃうの、、何したの!?ねえ!!」
原田が立ち上がり、光瑠もそれに合わせて立ち上がって彼らを見下ろした。
彼女が何かしようものなら力尽くで止める為だ。
背中を丸めた智幸を落ち着かせるように撫でる晴也は、穏やかな目でこちらを見上げる。
「何もしてない」
「嘘!!嘘ばっかり言う!!嘘つき!!」
「原田さん、ちゃんと見て決めて。貴女が追い求めてきたユキは作りもので、本当のユキはここにいる。こいつ自身を見て決めて。受け止められるかどうか」
無論、晴也は彼を離してやる気などない。
けれど彼女に理解させる為に、気づかせる為に、声を大きくして言った。
「ユキはもともと生きる気力がない。俺がユキの世界の軸だよ。それを代われる?」
ガタガタと震えながら、智幸は自分のミスを思い返していた。
別れてくれると言うから信用して原田の家から去った筈なのに、結局晴也を傷付けに来た彼女を見て絶望している。
自分が彼女を傷付けたせいでこうなっていること。
結果的に晴也に迷惑を掛け、彼を傷付けるような事態になってしまっていることに。
「っ、な、何言ってるの、頭がおかしいよ、ハルくん。トモくんは違うの、やめて、トモくんは私を支えてくれる、軸なんていらない人なの、違うの、違うの!!」
「原田さん、ちゃんと見て。俺の話しを聞いて」
ぐ、と彼女が唾を飲むのが見える。
この状態の智幸を見て、一気に意識が現実に戻ってきているのだ。
「男としてのユキに期待せず、何をしても君だけは許さないといけない。モノ盗んでも人を殴っても、殴り過ぎて殺しても、貴女だけはユキのそばにいる。病気になっても絶対離れない。他の人間なんか見ずに、ユキが求める軸で居続ける。絶対1人にしない。それができる?」
「っ、、」
晴也は小さい頃から智幸を守ってきた。
いじめてくる同級生でもない。
俗に言う危ない人達からでもない。
偏った田舎者達が持った貞操観念からでもない。
彼が1番恐れている「1人」から、何年もずっとたった1人で彼を守ってきたのだ。
「貴女には暴力を振るうだろうし、罵倒すると思う。俺が言わなきゃ大学にも行かない。夢も追わない。職を持たずに落ちぶれていく。貴女はそれを全部抱える。でも耐えるんだよ。俺と代わるなら全て耐えて全部許してユキのそばにいるんだ」
「、、、」
「俺がいなきゃきっとユキは死のうとする。それも止めなきゃいけない。毎日毎日、1秒も目を離さずに」
「そんなことにならないよ!!トモくんは、」
「弱いんだよ、それくらい」
「な、ッ」
「怖くて1人じゃどこにもいけない。立っていられない。弱くてどうしようもなくて自分の人生に責任も持てない、そう言うのがわからない」
ぐす、ぐす、と泣き始めた智幸が鼻をすする音がする。
晴也にとってはいつもの事でも、何に対して泣いているのかすら分からない原田と光瑠は動揺した。
(これじゃ、本当に小さい子だ、、)
光瑠が見てきたあの智幸はまったくの紛いものだった。
「貴女が見てる強くて格好良くて自分の両足できちんと歩いてるユキは紛いもの。弱くて泣き虫で怖がりで、1人で立てないユキが本物。それを受け入れて」
「そんなわけない、そんな、」
「本物のユキを見て、受け入れて」
ぼろぼろに泣き続ける不安げな表情の智幸が、晴也に促されて原田を見上げた。
「ッ、」
格好良さのかけらもない。
まだ晴也と付き合って数日しか経っておらず、未だに安定し切れていない彼がそこにいる。
何年分もの想いが今はごった返していて、どんなに晴也に触れていても離れた瞬間不安になる。
イレギュラーな事が起これば取り乱して、晴也に「1人にしないで」と必死に縋ることしかできない。
それはまるで5歳かそこらの子供と同じだった。
「トモ、く、ん、、」
「ユキ。原田さんがね、俺とじゃなくて原田さんとユキが一緒にいた方がいいって言うんだ」
「な、何で、、何でそんなこと言うの、いやだ、いやだいやだいやだ、ハル、ごめんなさい、もうしないから、ハルがいい、行かないで、いやだ、いやだあ」
「ッ!!」
高校生にしてもみっともない泣き声を上げて、目の前の智幸が晴也に縋る。
周りを恐れさせ廊下を歩くだけで人が避けていった学校のトップはもういないのだ。
その情けない姿に、原田は全身をぶるぶると震えさせた。
(これが、、沢村智幸、、?)
彼女を痴漢から救った男。
彼女を光の溢れる楽しい世界に引きこんだ男。
皆んなが恐る男。
多くの女を泣かせてきた男。
それが今、自分と同性の男に縋り、泣いて、鼻水を垂らしながら許しを懇願している。
(これは、誰、、、?)
目の前の狂った世界に、もう思考回路はついて行かなかった。
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