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5’:夜明け前

 ——最初から、こうなることは予感していた。  広い教室に唯一ある窓の外には暗雲が立ちこめていた。ガラスの向こうに広がる今にも泣き出しそうな空に、ラフマニノフの前奏曲嬰ハ短調『鐘』が重厚な響きを添えては、溶けるように消えていく。  そうして二番手の生徒が演奏を終えるなり、神呪寺(かんのうじ)先生は大きく頷いた。 「試験はこれで終わりだ」  いつもと変わらない優しい口調だった。白髪交じりの眉を下げて、先生は穏やかに告げた。 「涼馬以外は、今日をもってここを去ってくれ」  数十人いる門下生達の反応は様々だった。呆然とする者、顔面蒼白の者、泣き出す者、一縷の望みを掛けて訴え出る者—— 「先生、まだ二人しか弾いてません。私の……みんなの演奏も聴いてください!」 「僕はこう言ったね。この中から生徒を一人に絞る——と。僕は一人、選んだ。これ以上、続ける必要があるかい?」 「そんな……」  俺より六つも歳上の女性はその場にくずおれた。生まれてこの方、二十年の人生を全てピアノに捧げてきたのだと、快活に笑っていた姿はもはやどこにもない。  先生の隣で息を殺す。それでも次第に呪うような視線が、針のむしろとなって俺の全身を突き刺した。  一番の新参者が。ただ祖父が著名なピアニストだったというだけで。たまたまその祖父が先生の知り合いだったというだけで。大した才能もないくせに。少しもてはやされているからと。自分の方が、絶対に上手いのに—— 「——先生、それは私もなんですね」  最後の演奏者がゆっくりと椅子から立ち上がる。  透き通るような白い肌に、ゆるやかな波を打つ長い髪が、夏仕様のセーラー服に映えている。重く垂れ込めた雲を後ろに背負っていながら、その姿はこの世のものとは思えないほど美しい。 「あぁ、そうだ」  先生はあくまでも静かに頷く。 「十年間ありがとう。君のような弟子を持って幸せだったよ、沙依(さより)」  彼女は綺麗に微笑んでみせた。そして同じ笑顔を俺にも向ける。 「さようなら、涼馬。またいつか、どこかで必ず会いましょうね——」  うっすら瞼を開くと、ベッドの上に投げ出された自分の手が見えた。今日も白と黒の鍵盤を叩き続けた五指が、何かを掴み損ねたように、緩く内側へと曲がっている。  暗闇に慣れた目が、部屋の様子をかろうじて捉える。十歩もあれば端から端まで行ける、シングルルームだ。出窓があって、その前に小さなデスクがある。ダブルサイズのベッドの脇には、シングルチェアとオットマン。どの家具も白と黒のモノトーンに統一されていて、モダンな印象を受ける。  見覚えのない部屋には、嫌というほど慣れている。嗅ぎ慣れない匂いが外国のホテルだと寝ぼけた頭に訴えかけた。俺はベッドサイドを手で探り、スマホを見つけた。闇に浮かび上がるディスプレイに表示されている時刻は四時十分。ああ、またアラームより先に起きてしまった。  もぞもぞとベッドから這い出て、セットしていたアラームを切っておく。途端に喉の渇きを覚える。俺は冷蔵庫を開け、ペットボトルを取り出し、中身を一気に呷った。  冷たいミネラルウォーターが喉を通ると、ようやく目が覚め始める。俺はゆっくりとした足取りで、出窓へと向かった。  遮光カーテンを開けると、ドイツ南西部の都市・シュトゥットガルトの街並みが見えた。森に囲まれた小高い丘があり、その上に別のホテルや家屋といった建物が、斜面に張り付いている。夜明け前の街は未だ眠りについていた。  出窓の底に腰掛け、不意に与えられた時間を無為に過ごす。ここのところまた夢見が悪い。神呪寺先生の下を追い出された生徒達は、今頃どうしているのだろうか。そして——俺がやってくるまで、先生の寵愛を一身に受けていた、彼女は。 「考えるな、何も……」  そう自分に言い聞かせ、俺は強く首を横に振った。  再びスマホを睨み付けると、俺の意を汲んだのか、ちょうど時刻が四時半になった。一応、時計アプリで日本の時刻を確認しておく。十二時半。そろそろいい頃合いだろう。  よく使う連絡先から番号を呼び出す。一コールもしないうちに、相手が電話に出た。 『えっ、と。もしもし?』  この一年弱で聞き慣れた声に、俺はそっと耳を傾けた。水無瀬の声はいつも柔らかい音がする。演奏者のタッチに真摯に応えてくれる、よく調律されたピアノが奏でる響きに似ていた。 「水無瀬、今、だいじょぶ? 昼休みだよな?」 『あぁ……うん。昼飯食い終わったとこ』 「なんか静かじゃね、どこいんの?」 『どこって、屋上』 「お前も好きだなぁ、寒いだけじゃん」  俺は思わず笑った。そして違う種類の声が聞きたくなって、ついついからかう。 「もしかして、こっそり俺の写真でも見てた?」 『……んなわけねーだろ』 「ふーん」  少し間が開いた。これは怪しい。ネットの海から俺の写真を拾い上げている水無瀬を想像して、口元が緩む。 『っていうか、ドイツって時差あんだろ。そっち、何時なんだよ?』 「朝の四時」 『四時!?』 「まぁ、お前と話し終わったら、二度寝するけど」  改めてそう驚かれると、忘れかけていた眠気が戻ってきて、つい欠伸が出る。同時に電話を掛ける前は、かなり体が強張っていたのだと気づく。首をほぐすように左右に倒しながら、俺はへらりと笑った。 「水無瀬くんが寂しがってるんじゃないかなーって思って。俺の声聞けて嬉しい?」  返事はない。俺の脳裏に浮かぶのは、視線を逸らして、困ったような、拗ねたような表情を浮かべている水無瀬だった。口を尖らせるか、への字に曲げるかして、眉間に深い皺を寄せ、横に逸らした瞳、けどその目元は赤く染まっている。そしてぶっきらぼうを装って、可愛らしく可愛くない返事をする—— 『……そりゃ、その、嬉しいよ……』  え、と思わず声を上げそうになった。  今、なんて言った? 一瞬前の自分の記憶を何度も再生する。  どうして俺は日本に——あの屋上に、水無瀬の隣にいないのだろう。そう後悔すると共に、遠い外国から電話していた時で良かったと、相反する感情を抱く。俺は口元を手で覆い、深く俯いた。こんな顔、水無瀬には絶対見せられない。  苦し紛れに頭をよぎった言葉を呟く。 「早起きは三文の得」 『は? 急に何?』  分かれよ、馬鹿。俺は白旗を振る代わりに、長い息を吐いて天井を仰いだ。 「ちょっとだけほっといて……」  それから何を話したのかは、あまりよく覚えていない。でも多分、二、三言しか交わさなかったように思う。じゃあな、と言って電話を切る頃には、なんとか平静を取り戻すことができた。  俺はぼんやりと窓の外を眺める。相変わらず街並みは暗かった。夜明けはまだまだ遠い。それでもついさっきまで胸の内に巣くっていた暗澹とした景色に、いつのまにか柔らかな光が差していた。  ふわりと睡魔が降りてくる。俺はカーテンを閉め、再びベッドに潜る。そこから約三時間、マネージャーに叩き起こされるまで、俺は夢も見ずに眠り込んでいた。

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