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9:ほら、一秒じゃ足りないくせに
「ああああ、ちくしょう、準備室にプリント忘れたあああ!!」
そう叫んで唐突に教壇へ突っ伏したのは、数学教師の一条愛未 先生だった。
ジャンパースカートの下の身重の体に響くのではないかと言うぐらい、机をぶったたいて悔しがっている。さっきまで「プリント配るよ〜ん」と上機嫌に笑っていた人とは思えない。が、一条先生は常に感情赴くままに動くタイプの人間なので、彼女の奇行をクラスの誰もが驚きはしない。まぁ、毎回、引いてはいるが。
「あー、あの、俺、取ってきましょうか?」
おずおずと手を挙げて俺が立ち上がったのは、悲しいかな、数学係だからである。「お腹の子にも申し訳なし……ふがいなし……」と無駄な悲壮感を漂わせていた一条先生は、涙目で俺を見つめてくる。
「いいの、神無月くん?」
「水無瀬です。いいですよ」
「産休中に出す宿題もあるから、めっちゃ重いよ。段ボール二箱分で、十キロぐらいあるかも」
「……それ、妊婦さんが持っちゃ駄目なやつです」
「はっ、確かに」
お腹の子に罪はないのでなんとか無事に生まれてきて欲しい、と願いながら、俺は教室を出ようとする。
しっかし、別館一階の数学準備室から十キロの段ボールか……。文字通り少し荷が重いかもしれない、などとしょうもないことを考えて、気が進まないのを紛らわせていると、後ろでがたっと椅子の引く音がした。
「先生、水無瀬くん一人じゃ大変そうなんで、俺も行っていいですか?」
軽やかに挙手したのは、御子柴だった。目を丸くする俺をよそに、一条先生は感動したように手を組み合わせている。
「さっすが、ピアニストくん。人格者!」
「あはは、多分それ、ピアノ関係ねえっす」
教室のドアに手をかけていた俺に追いつくと、御子柴が先を促すように、ぽんと肩を叩いてきた。「じゃあ、二人が帰ってくるまで、趣味の落語を披露しま〜す」とかいう一条先生のズレまくったサービス精神を尻目に、俺と御子柴は廊下に出た。
廊下は冷えた真冬の空気に満たされていた。登下校時や休み時間とは打って変わった静寂が、余計に寒さを増長させる。
通りすがる教室では滞りなく授業が行われていた。当然、ドアも窓も閉まっており、教師達の訥々と響く声だけが、かすかに聞こえてくるのみだ。
階段を降りる二人分の足音が、床や天井に心許なく反響する。まるで俺と御子柴だけが、薄皮一枚隔てて、世界と切り離されたような錯覚に囚われてしまう。
どうして御子柴は着いてきたんだろう。なんか、その……何か企んでる、とか? ちらりとその横顔を盗み見ると、あっさり視線に気づかれた。
「なに?」
「あ、いや、その……ありがとな」
とっさに顔を背けながら、それらしいことを言う。うん、まぁ……一応、礼は言っておかなきゃだし。
渡り廊下に差し掛かる。御子柴は別館への入り口を真っ直ぐ見ながら、くつくつと肩を揺らして苦笑した。
「お前がぎっくり腰になったら可哀想だしな」
「おっさん扱いかよ」
「いや、分からねーよ。お前、ロクに動いてないじゃん。帰宅部だし。若い奴でも運動不足だといっちまうらしいぜ、グキって」
「……マジ?」
去年の冬にうちの母親がぎっくり腰になったのを思い出す。
その日は俺も妹も学校に行っていて、有給を取っていた母さんだけが家にいた。自分一人じゃ本当に一ミリも動けず、たまたま持っていた携帯で救急車を呼ぶ騒ぎになった。
その後も母さんはしばらく大変そうだった。さすがに若い身空であんな目には遭いたくない。
「風呂入った後、ストレッチぐらいしときな」
「そうする……」
別館に入り、ようやく数学準備室が見えてきた。十キロとか……一体どれだけ宿題が出されるんだろうか、と重たい足を引きずるようにして歩いていると、不意に御子柴が立ち止まった。
「なぁ、俺って人格者だと思う?」
「急に何だよ。まぁ、そりゃ……優しいんじゃね」
高牧にはよくノートを写させてやってるし、設楽が部活で怪我した時には腕の良い整形外科を教えてやってたし、目乙木の取材にも逐一答えてやってたし。
それに……クラスメートの手伝いを自ら買って出るぐらいだし。
突然、胸の内にしこりのような物を感じて、俺は黙り込んでしまう。
御子柴はすたすたと俺を通り越し様、手をこちらに伸ばした。長い指がさっと俺の頬に触れる。
「そんな顔すんなって、ここまでするのはお前だけだよ」
ぶわっと顔に熱が集まる。思わず御子柴を見ると、いたずらっぽい笑みとかち合った。
「ばっ……馬鹿言ってないで、さっさと行くぞ」
触れられた方の頬を押さえ、足早に数学準備室へ逃げ込む。ばたばたと小走りになる俺とは対照的に、御子柴はのんびりと後をついてきた。
各教科に割り当てられている準備室は、与えられているスペースが違う。例えば器具が多い化学準備室などはかなり広い。
対して、数学準備室は息苦しさを感じるほど手狭だった。
参考書が並んでいるスチール棚に、この学校に在籍する数学教師四人分の机。簡単なキッチンスペースには電子レンジや電気ポット、それにカップ麺やインスタントラーメンといった食糧も置かれている。
そして何故か緑茶や紅茶に混じって、尋常ではない量のギムネマシルベスタ茶と書かれた缶がずらりと並べられていた。……絶対、一条先生が持ち込んだものだ。
「あ、これじゃね?」
スチール棚の向こうの御子柴が、とあるデスクを眺めて言った。
そちらに回り込むと、一抱えほどの段ボール箱が合わせて十個、縦に積まれていた。どうやら全五クラス分あるらしい。
一番最初がうちのクラスで、しかも忘れてくれてよかった。じゃなけりゃ、一条先生、自分で運んでたんだろうな……。妊婦とは思えない危なっかしさだ。
とっとと持ってくか、と段ボールに手を伸ばしかけたその時、御子柴が唐突に言った。
「——このまま帰んの?」
窓から差し込む光が、雲に遮られてゆっくりと翳っていく。かろうじて残った薄明かりを背にした御子柴は、黄金律のような美しい笑みを浮かべている。
「へっ、な、なに……」
戸惑う俺を意にも介さず、長い脚が大股で近づいてくる。俺は反射的に後じさった。だが、そう——数学準備室は絶望的に狭い。あっという間に俺は壁際に追い詰められた。
「だって、ずっと物欲しそうな顔してたじゃん」
「し、してない!」
「そうなんだ。俺は口寂しいんだけどな」
俺はちらっと視線を逸らした。スチール棚の向こうにさっき入ってきた出入り口が見える。だがそれを遮るように、御子柴が曲げた腕を俺の顔の脇に、とん、と置いた。
そのまま数秒間、見つめられる。視線が槍のように突き刺さるのを感じながら、俺はじっと自分のつま先を睨むしかなかった。心臓の音がうるさい。こんなに近くにいては聞こえてしまうんじゃないか。真っ赤な顔をして黙り込む俺に、御子柴が止めを刺すように言った。
「キスしよっか」
「だ、駄目だ。校内は、駄目」
「いつも屋上でしてんじゃん」
「お、屋上以外は、駄目。それに、誰か来たら……」
「大丈夫、鍵かけといたし」
「おま……いつの間に」
「これで全部クリアだな」
「んなわけあるか、駄目なもんは駄目だ」
「駄目か。嫌、じゃなくて?」
「……揚げ足、取るな……」
「嫌なら言えよ。さすがに無理強いはしないからさ」
わざと優しい口調でそう言われ、俺はきっと御子柴を睨み付けた。御子柴は眉を下げて苦笑し、あやすように俺の髪を指で梳いた。
「意地悪な言い方して悪かったよ」
俺が尚も眉間に深い皺を寄せていると、御子柴はこつんと額をくっつけてきた。
「……ごめん、お願い。一秒だけ」
一転して切実な声音に、俺はとうとう降参した。
俺が瞼を閉じるか否かのタイミングで、御子柴の唇が羽のように軽く触れる。少し強く押しつけられたかと思うと、さっきまで優しく髪を梳いていたはずの手が、俺の耳殻に触れていた。親指の腹が耳の形を確かめるようにその輪郭をなぞっていく。
柔らかい唇の感触はあくまで約束に誠実なのに対し、指の動きは隠れた欲望を引きずり出すかのように不実だ。
本当に、たった一秒。それだけで御子柴の唇も指も、俺から離れていってしまう。体をも距離を取ろうとする御子柴の袖をぎゅっと掴んで、引き寄せる。
「ほら」
——それが、俺の敗北の全てだった。
「一秒じゃ足りないくせに」
頼りない闇の中に浮かぶ御子柴の薄ら笑いに、ぞくりと背筋を興奮が這い上がる。その慣れない感覚に震えることしかできない俺の唇へ、御子柴が牙を剥いて噛みついた。壁についていた腕はいつのまにか俺の背中に回り、大きな手のひらは俺の後頭部を強く押さえつけていた。
いとも簡単に片腕だけで捕らえられた哀れな獲物に、御子柴はまったく容赦しなかった。
舌を深く差し込んで俺の虚を突くと、一旦離れて、下唇を甘噛みしてくる。最初のキスと舌の動きで頭に血が上っている俺にとって、到底刺激とは言えない戯れは、もどかしい以外の何物でもない。
たまらず瞼を開いて御子柴を見つめるも、黒目がちの瞳は魅惑的な形の弧を描くばかりだった。
自ら唇を開くと、ようやく舌先がさらさらと擦れ合う。
一度焦燥を教え込まれた俺は、それだけで背筋が震えるのを止められない。御子柴が顔の角度を変えると同時に、俺の顎をぐいっと指で持ち上げた。
「ごめんな、人格者じゃなくて」
吐息が入り交じる。鼻先が触れあう。そんな至近距離で覗き込まれると、もうどうにもならない。今度こそどちらからともなく唇を寄せ、舌を絡め合う。
最初は確かにお互いが求め合っていたのに、気がつくと御子柴の動きに翻弄されていた。なんでもできる奴は舌まで器用なのだろうか。次第に呼吸が苦しくなり、頭の芯がぼうっと熱を帯びる。
「ふっ——、ん、は、ぁ……」
数学準備室に俺の間が抜けた声だけが反響する。俺はいつの間にか御子柴の背に腕を回し、必死にしがみついていた。
熱い、熱い、このまま溶けてしまいそうだ。羞恥と酸欠で目眩を覚えたその時、じゅっと音が立つほど舌を強く吸われた。
「——ッ、ぁ……」
背中が痙攣したかと思うと同時に、がくっと膝が抜けた。
「おっ、と」
そのまま倒れそうになった俺の腰を、御子柴が支える。俺はずるずると壁に沿って、座り込んでしまう。
「はぁ、はぁっ……」
荒い呼吸を隠すように、膝を抱えてうずくまる。飲み込み切れなかった、どちらのものとも知れない唾液が、つっと唇の端を伝った。その感覚だけで皮膚が粟立つのに、俺はぎゅうっと目を瞑って耐えた。
「……だいじょぶ?」
御子柴もさすがに少しだけ息が上がっている。本当に、ほんの少しだけ。この差は一体なんなんだ。俺はますます頭を抱えた。
「プリントは俺が持ってくからさ、休んでから来いよ」
「いや……でも、別々に帰るの、おかしいだろ……」
「けど」
皆まで言うなと手のひらを向ける。くそ、こうなったら意地でも立ち直ってやる。俺は必死に呼吸を整えながら、御子柴に訴えた。
「ちょっと、だけ、待って……一秒だけ……」
そう言って足に力を入れるも、完全に腰が砕けていて立ち上がれない。悪戦苦闘している俺を見下ろしながら、御子柴が苦笑した。
「ほら、一秒じゃ足りないくせに」
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