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16−2:海の底でふたりきり 2

 他人の家に入ると、嗅ぎ慣れない匂いがする。  玄関で脱いだ靴を揃えながら、全身が薄い膜の形をした緊張感に包まれるのを、俺は肌で感じた。御子柴やその家族が過ごしてきた時間が作り出した、独特の家の雰囲気。その中で俺は紛れもない異分子だ。  高校に入ってから、人の家に上がるなんてことなかったからだろうか。廊下のフローリングを踏み締めても、どことなく足元がふわふわと浮ついている感覚がした。  廊下の突き当たりにあるドアの向こうは、広いリビングダイニングだった。  毛足の長いグレーのラグが敷いてあるスペースがリビングだ。  革張りのキャメルブラウンのソファが、コの字型に置かれている。  ガラスのローテーブルを挟んで向かいには、大きなテレビが壁にかけられていた。でかい……でかすぎる。一体何インチなんだろう。七十、いや八十? 横にして床に置けば俺が余裕で寝そべれそうなほどの大きさだ。  ソファの背の向こう側はダイニングだった。  こちらは規格外に広いというほどではなく、よくある四人がけのテーブルだ。ただテーブルの真ん中に一輪挿しが飾られているのがおしゃれだ。あと上に何もない。うちのダイニングテーブルには何かしらハガキやプリントの類が置かれているもんだけど。 「お茶入れるから適当に座って」  そう言って御子柴はキッチンへ向かった。リビングダイニングと地続きのアイランドキッチンである。  御子柴は壁に備え付けられている冷蔵庫から麦茶を入った冷水筒を取り出して、コップに注いでいく。  俺はなんとか自分の居場所を確保しようときょろきょろと部屋を見回し、結局、ソファの隅っこに落ち着いた。 「なんでそんな端?」  苦笑と共に、麦茶が運ばれてくる。  御子柴はソファの真ん中らへんに座ると、ちょいちょいと俺を手招きした。俺は立ち上がって呼ばれるがままに御子柴の隣に腰を下ろす。  喉が渇いていた。麦茶を一息で半分飲み干す。その慣れた味だけが俺の拠り所であった。 「緊張してんの?」 「するだろ、こんな立派な家……。庭付き一戸建てに白い犬とか、どんだけだよ」 「どんだけって何が?」  ピンときてない様子の御子柴に、俺は内心溜息をついた。  それに家が立派すぎるからという理由だけで、緊張しているわけでもない。  天井から床まである大きな窓からは、茜色の光がカーテンに透けている。それは次第に傾きを増し、色濃く、暗くなっていく。夕方の街は静かだった。そして御子柴邸の中も、誰の足音も声もおろか、気配すら感じない。  ……ほんとに、二人きり……  いやいやいや、何をいきなり意識してんだ、バカ。俺は麦茶のもう半分を一気に飲み下す。 「さぁーてと」  御子柴は急に立ち上がり、背筋を伸ばした。俺が目を瞬かせて見上げていると、申し訳なさそうに眉を下げる。 「俺、これからちょっと練習してくるわ。一応、夜も指動かしておきたいから」 「えっ、ああ、ピアノか……」 「うん。その後、クロードの散歩。悪いけど、六時ぐらいまで適当にしといて」  俺は思わずテレビの上の壁掛け時計を見た。現在時刻、四時半。……え、あと一時間半も? 「練習室、防音だから、何かあったら電話掛けて。んじゃ」  そう言ってすたすた去って行こうとする御子柴の背中に、俺は思わず声をかけた。 「あっ、あのさ」 「ん?」 「……いや、えっと。クロードの散歩って難しい?」  御子柴はこちらに向き直り、後ろ頭を掻いた。 「いつものコースはクロが知ってるし、難しくはないけど……。え、何、行くの?」 「あ、うん……。俺だけぼーっとしてるのもあれだし。何か手伝えればと思って」  瞬きを繰り返していた御子柴は、やがてすいっと目を細めた。 「ふーん。つまり水無瀬くんは、少しでも俺と一緒にいる時間を増やしたいと」 「ち、ちがっ——親切心、気遣い!」 「はいはい。じゃあ、お願いしようかな。これ、リード」  ぽいっと放られた太いベルト状のリードを受け取る。上機嫌な足取りでリビングを出て行く御子柴を、俺は半眼で睨み付けた。  門を出ると、クロードは勝手知ったる風にとことこと歩き始めた。俺は半ば引っ張られるようにして、クロードについていく。  住宅街にある背の高いマンションの影に隠れていた夕日が、再び顔を出す。数歩先にいるクロードの毛並みが茜色に染まって、きらきらと輝いていた。  いつもの散歩コースというのは俺の家の方角だった。俺としては来た道を戻っていく格好になる。二ブロック先の角を曲がって南へ進む。電車の高架下をくぐった先に、近所では割と大きめな川の下流が見えてきた。  クロードはたしたしと軽快な足音を響かせながら、川縁を歩いて行く。俺達の右側を流れる川面はゆったりと海へ向けて流れていく。小さな三角の波を描く水面が夕日を細かく弾いていた。  ぐいっとリードを引っ張られる感覚がした。クロードは急に方向を変えたかと思うと、土手へ続く階段を降りて行く。少し遅れて俺も続いた。  クロードはまるで川の行く末を見守るかのように、土手で座り込んだ。 「……いつもここで休憩するのか?」  もちろん返る言葉はない。俺はクロードの横に腰掛けた。むきだしの地面の冷たさがデニムを通して伝わってくる。とはいえ、今日は風もなく穏やかだ。  三月に入ってから温かくなったり寒くなったりを繰り返している気がする。それを表現する言葉があった気がしたが、頭の中の辞書をひっくり返しても見当たらなかった。 「御子柴に聞けば分かるかな……」  静かに川を眺めていたクロードがこちらを振り向いた。主人の名前に反応したのかもしれない。俺はさっき御子柴がそうしていたようにクロードの首元を撫でた。クロードは気持ちよさそうに瞳を細めていた。 「今日さ。お前のご主人様とずっと一緒にいられるんだ」  ぽろっと言葉が転がり落ちる。クロードが静かに聞いてくれているのをいいことに、俺は続けた。 「ちょっと照れくさいけど……。でも実はすごく嬉しい」  今の言葉が、ちょっとどころではなく恥ずかしいと思い当たる。俺はクロードに顔を近づけ、自分の唇にそっと人差し指を宛がった。 「これ、一応、内緒な」  わふっ、と返事がきたものだから、思わず笑ってしまった。俺は立ち上がると、可愛い共犯者を連れて、しばらく土手を歩いた。

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