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16−6:海の底でふたりきり 6

 取っ手を押し下げて、そろそろとドアを開く。  まるで泥棒のように忍び足で部屋に入ると、俺は後ろ手に扉を閉めた。  手近にあった照明のスイッチを入れる。  ぱっと閃いたシーリングライトが部屋の全貌を照らし出した。 「お、ぉ……」  謎の感嘆を漏らす。部屋の主がいないことをいいことに、俺はまじまじと部屋を見回した。  俺の部屋よりも一回り広いように感じた。  清潔感のあるオフホワイトの壁紙に、部屋の左右に大小の窓が二つ。  小窓のそばには白と黒のモノトーンで統一されているデスクがあった。俺なんか未だに小学校入学と同時に買ってもらった学習机を使っているのに。  真っ白な天板の上には、ノートパソコンとタブレットが置いてあった。隅にはアルミのフォトフレームに入った幼いクロードの写真が飾ってある。  すぐ横に設えているスチールラックには、いくつかの教科書や参考書、それに棚の一段分を占拠しているたくさんの楽譜が差してある。それと楽譜と同じくらいたくさんのCD。J−POPやロック、映画のサントラなんかもあったが、背表紙を見るにそのほとんどがクラシックだった。 「あれ、一つ割れてる……」  好奇心で手が出てしまった。  それは女性ピアニストのCDで、しかも見覚えがあった。これ、この前、シマさんの店で買った新しいやつじゃ? とはいっても何があったかは知る由もないので、俺は御子柴が来ないうちにCDを棚に戻した。  部屋の中央には楕円型のラグが敷いてあり、折りたたみ式のローテーブルが広げられていた。その上に御子柴の言った通り麦茶のピッチャーが置いてある。俺は唐突に喉の乾きを思い出し、お言葉に甘えてお茶をいただくことにした。  ラグの上に座り、ガラスのコップに入れた麦茶を一気に飲み干す。  やっと喉が潤った俺の意識は、否が応でも背後に向いていた。  肩越しにちらっと見やる。大きい方の窓に沿うようにして、ベッドが置いてあった。グレー一色のカバーの掛け布団、真っ白いシーツ、大きめの枕。ホテルライクというのだろうか、とにかくこっちも洒落ている。俺のベッドより少し大きい気がした。多分、セミダブルサイズだ。  セミダブルという単語に良からぬ考えがよぎりそうになり、俺はぶんぶんと首を横に振る。それでも虚空に浮かんだ想像は消えてくれず、麦茶をおかわりして無理矢理喉に流し込んだ。  さっきから脈拍の速さがおかしい。体が熱いのは逆上せたせいだけではないと、自分自身が誰より分かっていた。  空になったグラスを両手でぎゅっと握り締める。透明なグラスの底を穴が開くほど見つめても、一向に落ち着かない。背中に目でもついているのかと思うぐらい、さっき見たベッドが網膜に焼き付いて離れない。  今日、ほんとに俺、ここにいるんだよな。  一晩中、御子柴と一緒の家にいるんだよな。  それって、だって、ほんとに、本当に—— 「お待たせー」 「うわああっ」  なんの前触れもなく開いたドアと入り込んだ声に、俺は今日何度目かもしれない叫び声を上げた。手から零れたグラスがころりとテーブルの上に転がる。  スポーツタオルを肩からかけた、ジャージ姿の御子柴は、きょとんと目を瞬かせた。 「何、まだゾンビ引きずってんの?」 「いや、はは……そうかも……」 「だから言ったじゃん。やめとこうかって」  そう言う割りには顔ににやりとした笑みを貼り付けつつ、御子柴は俺の隣に座った。ピッチャーから麦茶をグラスに入れて、一息に飲んでいる。上向いた喉仏がごくりと上下するのに、なんとなく見入ってしまう。  ぷはぁ、と満足げに息を吐いた御子柴は、頬に伝う雫をタオルの端でぬぐった。濡れそぼった髪の先が肌に張り付いている。前髪が無造作に上げられていて、いつもと印象が大分違った。見たことのない日常の中の御子柴に、俺は落ち着きなく組んだ足をもぞもぞと動かした。 「あ、そうだ。お前、ちゃんと髪乾かせよ」  言って、御子柴はいつの間にか手に持っていたドライヤーを取り出した。多分、洗面所から持ってきたのだろう。俺は自分の生乾きの髪をつまんだ。 「ああ、そういえば……」 「風邪引くぞ。あとハゲる」 「え!? マジ?」 「マジマジ。濡れたままだと頭皮に雑菌? が沸くんだって。んでハゲんだって」  何気なく恐ろしいことを言う。俺は忠告に従ってドライヤーを受け取ろうとした。しかし御子柴は何を思ったか、ひょいっとそれを持ち上げてしまう。俺はじとっと御子柴を睨んだ。 「なんだよ、金でも取んのか」 「ちげーよ。俺にやらせて」

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