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波乱の理学部棟編 プロローグ
大学内のカフェ『カフェ・ルセット』でバイトを始めてから数週間。井ノ原先輩にお願いして、慣れるまでは週3くらいのシフトで入らせてもらってる。他の先輩たちも朗らかな人ばっかりだったし、付き合いも上々だ。
このまま大きなトラブルもなく、順調に日々を過ごせれば……
「由宇くん♡ バイト終わったら俺の部屋来てよ。由宇くんのために調合したお薬飲んで欲しいんだぁ♡」
「なにそれ絶対変なものだろ!? だめ!由宇は俺とデートに行くんだよ! ね、由宇」
玲依と七星がいつも通り、言い争いを始めた。店内のお客さんもまたか、とにこやかに見つめている。以前この二人と翔太が同時に来て倍増していた客足は最初に比べると随分と落ち着いた。お客さんもこの光景に慣れてきたらしい。
二人が言い争っている間にこっそり距離をとった。隣に並んだ井ノ原先輩も慣れた調子で笑った。
「あいつら、よく言葉尽きねーな」
「ですよね……」
でもあれから変わった関係もある。
あの日、玲依の悪口を言っていた二人の先輩……小松先輩は玲依の弟子候補?になって、伊田先輩は七星の信者?になったらしく、今も玲依、七星とともに四人がけテーブルに座っている。
「髙月、このケーキの層、どうなってんだ? 3層あるけど」
「ああ、それはベリーソースとカスタードクリームとチーズクリームですね」
「従者くん、肩揉んで」
「触ってもいいのかい!? では失礼して……音石くん、けっこうこってるね……」
あれはあれで丸く収まってるからいいか……いいのかな……?
「そういや、今日名越は来ねーのか?」
「翔太は今の時間は講義です」
「お前らが別の講義受けてるのが驚きだわ。文学部って自分で履修科目選ぶんだろ? 調理科は必修多いから履修はほぼ同じになるんだよな」
「翔太は俺より勉強熱心なので。けっこう講義入れてるんです」
「へえ……なんでだろ」
「なんで?ってどういうことですか?」
井ノ原先輩の疑問の意味がよくわからず、聞き返すと先輩は軽く首を振った。
「いや、別にいいんだ。あ、あっちのテーブルの片付け頼むよ」
「はい!」
(名越のやつ、あれだけ過保護なのに……ずっとべったり一緒にいるってわけじゃないんだよな……)
*
少し遅めの昼食を済ませた四人は、同じテーブルで思い思いに過ごしていた。小松がケーキについて真面目に勉強する中、他の三人はそれぞれ好きな人を眺めるのに時間を注いでいた。
小松は玲依の前に広げてあるだけの真っ白なレポート用紙を覗き込む。
「髙月、進める気あるのか? このレポート溜めたらけっこうしんどいぞ。オレは前にやらかした」
「は、由宇を見つめるのに心が忙しくて」
「いつもそれ言ってんな……お前がレポート溜めてるの、けっこう意外。レポートなんか余裕で終わらせる優等生かと思ってた」
少し揶揄いながら笑う小松に、伊田も賛同して頷く。
「俺、勉強は真ん中ぐらいですよ。そのなかでも生化学だけは苦手で……」
「オレも苦手だから教えられねーぞ。もう忘れた」
「がんばります……」
由宇にスマホを向けてこっそりと動画や写真を撮っていた七星も玲依の手元を覗き込み、馬鹿にしながら笑った。
「へぇ、調理科も化学するんだ。しかも初歩の初歩じゃん。こんなのもわかんないの?」
「わかんないもんはわかんないんだよ……そういえば音石って頭良いんだったね。苦手な教科とかないの?」
「ないよ。俺は常に完璧だから」
勝ち誇った顔で玲依を見下す七星。
「さすが音石くんだ」伊田の拍手に、「なんでお前が誇らしげなんだよ」と小松がつっこんだ。
「わかるんだったらちょっとぐらい教えてよ」
「由宇くん以外に手を差し伸べるわけないじゃん。せいぜい頑張れば?」
「ま、そうだよね」
「素直に引かれても癪だな……ほんっとムカつく」
ムカつくって言われるのも、馬鹿にされるのも慣れてきた玲依は、大人しく真っ白のレポート用紙に向かったが、
「玲依!」
由宇の声に呼ばれ、すごい勢いで顔をあげた。
小走りで玲依たちのテーブルに向かってくる由宇が玲依の瞳に映った。
「あ、勉強してたのか。邪魔してごめん」
「全然!してないよ! 由宇を見てたから!」
「そこは勉強しろよ」
ツッコミをしても、にこにことお花を飛ばす玲依に調子を狂わせながら、由宇は本題を切り出した。
「あのさ、お客さんからケーキについて質問されて。井ノ原先輩は忙しそうだから玲依に聞こうかと……」
「喜んで! 俺が説明しに行こうか?」
「いや、俺が行く。今、お前は客なんだから。俺が対応しないとダメだろ」
「そっか、そうだよね。でも俺のこと頼ってくれてありがとう。そのお客さんは何て?」
「ええと……」
そんな由宇と玲依の会話を、七星は機嫌を悪くしながら聞いていた。暗く澱んでいく七星の様子に、伊田だけが気づいていた。
玲依からひと通りケーキのことを聞いて、由宇はお客さんのところに戻っていった。
その後ろ姿をにこにこと玲依は見つめた。誰がどう見ても幸せ丸出しだ。
「髙月ってほんと尾瀬のこと好きなんだなー。尾瀬といるときがいちばん輝いてるよ」
「そう、そうなんです! 由宇は俺の希望の光というか……ケーキと同じく人生に輝きをくれた存在……!」
さらに瞳を煌めかせる玲依。本気で恋したイケメンの破壊力やべーな……と、小松は自分まで照れくさくなった。
「人生に輝きか……ま、そりゃ大事だな。俺もお前に教えてもらったし」
「だから俺は絶対に由宇と付き合います! そして由宇と……ふふふ……」
「お前たまにすげー重いよ……」
「……つまんない」
七星は暗い顔で席を立つ。引いたイスが七星の苛立ちを表すように大きな音をたてた。
「もう行くの? ケーキも食べていけばいいのに」
「次、講義だから」
「そっか。いってらっしゃい」
玲依は笑って七星を送り出した。なんでこいつは敵相手にこんな笑えるの?と、七星はさらに腹を立たせて店を後にした。
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