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ザ・ジャロルズ(1)

 その日は、本当なら非番だった。  季節の変わり目の厄介な風邪を引き込んだ早番のナイジェルの熱は下がらず、レジナルド・マーシャルが代役を頼まれたのは昨晩のことだ。 「久しぶりの休みだというのに、すまないな」 「いいんですよ、特に予定もありませんし。ナイジェルにはゆっくり休んで早く復帰してもらわないと」  申し訳なさそうな宿泊支配人に、レジナルドは安心させるように微笑んでみせた。  一九二〇年代後半。二度の大戦に挟まれたつかの間の平和を享受し、大英帝国が爛熟し光り輝いていた時代。  ロンドン市内メイフェア地区、ザ・ジャロルズ。  公爵家の邸宅だった由緒正しい建物を改装し、最新の設備を導入して数年前に開業した、中規模ながらもロンドンで一、二の人気を誇るホテルだ。  創業以来このホテルに勤め、今はフロントマネージャーの地位にあるレジナルドが、フロントに立つことはあまりない。特別な配慮の要る客が宿泊する時は、レジナルドの神業のような接客術が必要不可欠だが、最近ではそういった特殊な場合を除いて裏方の仕事に従事している。 (それもこれも、この笑顔がいかんのだ)  間近に見る大変心和むそれを堪能しつつ、宿泊支配人アンソニー・ヒューズはこっそり嘆息する。  レジナルドがフロントクラークだった頃、春の陽光のような彼の微笑みに幻惑されて熱心にザ・ジャロルズに通う客は、両手両足の指の数より多かった。彼らがフロントの前でかち合うと、重厚なホテルの玄関ホールはさながらレジナルドを中心にしたサロンにも見えたものだ。といっても本人は就業中の大義名分のもと、その輪に加わることなく淡々と仕事をこなしていたのだが。  ただ皆が皆、地位も財産もある名家の人間で、洒落も礼儀も心得ており、またレジナルドも控え目だが親しみやすい笑顔で客の心をほぐすことはあっても、職分をわきまえ、あくまでフロントクラークとして彼らに接していたため、表立ったトラブルは一切なかった。  彼らの殆どはロンドンに邸宅を構えていて、暇ができたと言ってはザ・ジャロルズに立ち寄り、フロントでレジナルドを相手にしばらくお喋りを楽しみ、喫茶室(ティールーム)で優雅な午後のお茶をゆっくりと満喫し、帰り際にまたフロントに寄って別れの挨拶をして帰っていく。喫茶室の営業成績に、大変貢献してくれたものだった。  ただし、中には邪な企みを持つ者もいる。  純粋な好意を寄せる者には心温まるレジナルドの微笑みも、邪な欲を持つ者には取り付く島のない鉄壁の冷微笑に映る。その品のある迫力に気圧され、本人には何も言えず、上司であるアンソニーにそれとなく橋渡しを頼む者は、これまでに何人もいた――男ばかりだったが。  レジナルドは何も言わないが、おそらく本人を直接口説いた剛の者もいたことだろう。 (そちらはすべて御婦人方ばかりだといいのだが)  そう思いつつ、レジナルドがフロントマネージャーに就任するや否や、主に裏方の仕事を担当するよう手を回したのは、彼を息子のようにも思っているアンソニーの、年頃の娘を気遣うような親心がさせたことだった。  心得たレジナルドの崇拝者達は、今までのように頻繁に彼をフロントで見掛けるのが難しくなったことを知り残念がったが、気持ちよく昇進祝いを贈り、また彼らの高貴な客人や取引相手に、ザ・ジャロルズのフロントマネージャーを最上級の賛辞をもって紹介し、花を持たせてくれた。  そしてレジナルドも彼らの訪れを知れば、どんなに忙しくても仕事の手を止め、鏡の前で身嗜みを確認し、背筋を伸ばして挨拶に出向く。顧客を大切に思う彼の心遣いが、ザ・ジャロルズの評判の一助となっていることは疑いようもなく、教えられるでもなく接客の一番の基本で最も大切なことを会得しているレジナルドを、上司としてアンソニーは頼もしく、そして誇らしく思っていた。  こうしてフロントに立つのは、何ヵ月ぶりだろう――。  浮き立つ気持ちを鎮めるべく、レジナルドは周囲に気づかれないように深呼吸する。  フロントマネージャーの任に就いて以来、ここに立つ時間はめっきり減ってしまった。高貴な賓客の対応や、昔から可愛がってくれているお得意様への挨拶に出る以外、こうして誰かの代役でも回ってこない限り、ホテルマンの仕事の要である接客からは遠ざかっている。時々対応に困る客もいるけれども、人と接するフロントクラークという仕事は肌に合っており、昇進したことでその任から外れたことをレジナルドは残念に思っていた。数ヵ月ぶりに与えられたその機会に、つい気持ちが弾んでしまうのも無理のないことだ。  夏の社交シーズンは終わりを告げ、賑わいの去ったこの季節は、祭りの後のように寂しく感じられる。  予約台帳を開き、今日到着する宿泊客を確認するが、夏の戦場のような繁忙期を過ぎた今は地味なものだ。それでも気を抜いて仕事をしていいということにはならない。久しぶりに原点に戻ったような気持ちになり、逆に身が引き締まる。  遅番の前任者と引継ぎを行い、慰労の言葉を掛けて彼を見送ったのが三十分ほど前。  玄関はさきほど守衛が開錠したが、外はまだ薄暗く、食堂が開くまでに一時間ほどある。この時間にフロントを訪れる客はまずいないので、念を入れて玄関ホールの清掃をチェックしようと思い立ったところで、パーク・レーン越しにハイド・パークに面した玄関の重い樫の扉が開いた。  嵐のような客がやって来た。 「珈琲を一杯飲みたいのだ。食堂(ダイニング)喫茶室(ティールーム)もまだ開いてないと守衛は言うが、門を開き客を招いている以上、このホテルには私に珈琲を飲ませる義務がある!」  つかつかとフロントまで歩み寄ると一気に捲し立てた男の顔に、思わずぱちぱちと瞬きをしてしまう。  一目で育ちの良さが知れる、優雅で鷹揚な歩き方。秀麗な顔立ちは不機嫌さを隠そうともせず、傲慢とは違う、恐れを知らない少年のような天衣無縫にも似た傍若無人さを、仕立てのいいスーツで包んでいる。  あれから十年、少年から青年への過渡期にあった青さや硬さは取れ、格段に男振りは上がっているが、珈琲一杯のために早朝のホテルを叩き起こす突飛な行動様式は驚くほど変わっていない。たち  どんなに(たち)の悪い酔客も一瞬で黙らせる業務用の微笑を装備することも忘れ、レジナルドは呟いた。 「…ジェイムズ」

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