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ザ・ジャロルズ(2)

 朝一番、ジェイムズ・アスター卿は不機嫌だった。  睡眠をこよなく愛すジェイムズは、寝付きも寝起きもすこぶる良い。寝台(ベッド)に入れば五分も経たずに安らかな寝息を立て、愛用の目覚し時計が鳴らない限り雷鳴が轟こうと目を覚ますことはない。  それがどうしたことか、今朝は五時前にぽっかり目が覚めてしまった。  その寝起きの良さゆえに、ジェイムズは体質的に二度寝ができない。真っ暗な中を渋々起き上がり、気分を入れ替えるために珈琲を淹れに台所に立ったところで、大事件は勃発した。  といっても、単に珈琲豆が切れていただけなのだが。  裕福なブラックウェル侯爵家の三男坊という、責任のない気楽で恵まれた立場に生まれながら、ジェイムズは家事の初歩くらいのことは一通りできる。大学卒業後に貿易会社を起こし、あちらの海こちらの大陸と、精力的に世界中を飛び回る主人を支える度量のある従僕(ヴァレット)はなかなかおらず、結果的に身の回りの世話は自分でこなせるようになった。  主人の日常的な面倒を見る従僕は、いわば主人の影とも言うべき存在で、英国貴族の城館が執事なしでは存在し得ないのと同様に、英国紳士の生活は従僕なしでは立ち行かない。ジェイムズも面倒な雑事を好んでしているわけではなく、常々従僕の必要性を感じ適当な人材を探していた。しかし何度従僕を雇っても、高給を払っているにもかかわらず、何故か長く居付くことなく辞めてしまう。  長い船旅、異国での生活が肌に合わないのだろう。ジェイムズは彼らの辞職理由をそう考えていたが、主人の突拍子もない行動様式と、それを実行に移す不穏なまでの行動力についていけないというのがその真相であることを、幸いにして本人だけが知らない。  そんな訳で、没落貴族でもないのに自ら珈琲を用意できる稀有な紳士、ジェイムズ卿は、朝の台所で空っぽの珈琲(ジャー)を発見し、大変に立腹した。  居を構えるブルック・ストリートの高級フラットは、掃除婦と料理人を入れて維持している。台所にある物の補充は料理人の仕事だが、うっかり者の彼女は珈琲豆が切れたことに気づかなかったのだろう。 「神をも恐れぬ過失だな。この私の珈琲瓶を空にし、この私に台所まで無駄足を踏ませるなど!」  憤然と寝室に取って返し、通常の三倍の速さで身支度を整える。速いからといって紳士の身嗜みに手抜かりはないが、今なお夜の暗さに浸る早朝に、端から見れば無駄な速さであることは否めない。しかし一刻も早く果たさねばならない重要な目的を持つジェイムズには必要なことだった。  そう、一杯の珈琲を飲むために!  エレベーターで地階に下り、ジェイムズは朝とは名ばかりの闇の中を決然と歩き出した。  フラットのあるメイフェア地区には、名の知れた高級ホテルが軒を連ねている。そしてホテルのフロントには、この時間でも確実に人がいる。最寄りのザ・ジャロルズに出向き、叩き起こしてでも珈琲一杯を所望するつもりだった。  そうして守衛を押し退けるように飛び込んだ扉の中、フロントカウンターの奥に、ジェイムズは意外な顔を見出す。  涼やかな容貌に、ひとつまみの困惑と郷愁をのせて自分の名を呟く男。  ーー何といったか、彼の名は。 「哀しみの聖母」  それはパブリックスクール時代に、周囲が彼を崇めて呼んだ名だ。 「監督生(プリフェクト)」  確かに彼は常に首席で監督生も務め、他寮の伝統的に高圧的な監督生とは異なり、慈悲をもって寮生をまとめ、絶大な支持を得ていた稀有な監督生だったが、それは彼のかつての肩書きであって名前ではない。 「レジナルドだよ、ジェイムズ。レジナルド・マーシャル。五年も同じ寮で過ごした同窓生の名前を忘れるなんて、ひどいんじゃないか?」  困ったように微笑を浮かべるその様は、まさしく『哀しみの聖母』のそれだった。

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