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哀しみの聖母

 ロンドン郊外に広大な敷地を擁するウィズリー(カレッジ)は、英国でも一、二の名声を集める、古い歴史を持つパブリックスクールである。  創立は十五世紀。その優雅な制服は、百年前の国王の葬儀に参列した時の喪服そのままの意匠(デザイン)を引き継いでおり、黒の燕尾服(テイルコート)を翻し大勢の生徒たちが広い構内を闊歩する光景は、壮観の一言だ。  元々は、優秀だが貧しい少年を、王を知識と教養で支える従者として養成する目的で設立されたが、今は王侯貴族の子息の教育機関の側面が強い。もちろん平民の生徒もおり、ウィズリーは学力ですべての序列が決まる実力主義を取っているため、優秀であれば爵位の上下有無など関係ない。貴族の子息に生まれ使用人に囲まれて育った者には、親から離れ従者もおらず、狭い個室で自分で自分の面倒を見なければならない寄宿生活は、勉学以前に厳しい環境と言える。  毛並みの良い優秀な生徒ばかりを集めたウィズリー校でも、特に優れた生徒だけにその資格が与えられるのが『王の学徒』だ。  授業料・寮費が免除される他にもいくつかの特権を与えられる彼らは、校内の羨望を一身に集める少数の選良(エリート)集団である。毎年行われる選抜試験をくぐり抜け、その名誉に与るのはほんの一握り、全校生徒の五%にも満たない。特別に構内の『(カレッジ)』に住むことを許され、『王の学徒』のみが与えられる黒の外衣を翻して式典に参加する。それは、ウィズリーで学ぶ者なら誰もが夢見る、栄光を凝縮した光景だ。  寄宿学校といっても、寮のすべてが構内に建っている訳ではない。『王の学徒』以外の生徒は、ウィズリーの街中にある(ハウス)に生活基盤があり、それゆえに校外寄宿生と呼ばれる。彼らは毎朝寮から通学し、課外活動以降の時間を所属する寮で過ごす。厳しい寮則と寮長に監視されてはいるが、物理的に学校から隔たった空間は、『館』に比べれば気安い雰囲気と自治の気風に満ちていた。  罪深いまでにつまらない学科などにまったく興味はなかったが、馬鹿呼ばわりされるのは我慢ならずそれなりに勉学に手をつけてしまい、結果的にウィズリーでの五年間を『館』で過ごすことになったジェイムズは不幸だった。  『王の学徒』はおしなべて特権意識が強く、次の年もその地位を維持することに固執し勉学に勤しむ面白味のない奴ばかりだ。さしてガリ勉するわけでもなく、気に入らない教授には堂々と論戦を吹っ掛けては言い負かし、恨みを買いつつも一目も二目も置かれているジェイムズを、あからさまに敵視する者もいた。構内ということで『館』に対する学校側の目も厳しく、『王の学徒』であることの栄誉に全く関心がないジェイムズにとって、『館』での生活は囚人のように味気ないものだった。  唯一の救いは、隣室の悪友がジェイムズと同じ、ウィズリーの生徒としては規格外の破天荒な思考の持ち主だったことだ。二人して周囲の度肝を抜くような悪戯を仕掛けては日頃の憂さを晴らす。そんなささやかな娯楽すらなかったら、たとえ父侯爵に勘当されてもとっとと自主退学していたことだろう。  『館』での日々を誇りに思うと同時に抑圧を感じていた同寮生にも、ジェイムズ達の娯楽は好評だった。二人の悪戯には罪がなく、意地の悪い上級生や教授の傲慢、伝統をかさにきた虚礼を笑い飛ばす類のものだったため、彼らの活躍を心待ちにする生徒も少なくなかった。自分もその一人だったのだと、卒業の日にこっそり告げて微笑んだのが『哀しみの聖母』、栄光ある『館』の監督生(プリフェクト)を務めたレジナルド・マーシャルだったのだ。  確か、ケイリー伯爵家の末子だったと記憶している。  洗練された立ち居振る舞い、美しい発音と言葉遣い、そして何よりも気品あふれるその言動が、彼が貴族の純粋培養であることを示していた。成績ですべての序列が決まる校内で首席を維持し続け、周囲のやっかみを買うこともなく人望も厚いレジナルドは、実に稀有な存在だったといえる。春の陽だまりのように温かで穏やかな人柄は、 好意を集めるものではあっても悪意を引き出す要因にはなり得なかったのだ。  弟妹のないレジナルドは、同寮の下級生の面倒もよく見た。新入生が家を恋しがって泣きつく先は何故か決まってレジナルドで、そんな時彼は、幼さの残る下級生の額に慈愛に満ちた口づけをして、部屋に送り届けていた。その場に居合わせた者は、生ける聖母子像のような神々しいまでに心温まる光景に、何とも言えず癒されたものだ。レジナルドが筋骨逞しい強面の持ち主であれば話はまた違ったのだろうが、彼のすっきりと整った容貌は『聖母』として十分に鑑賞に値するものだった。  レジナルドが『館』の監督生に就任した最終学年、五年間の集大成とばかりに悪童二人の悪戯が炸裂した一年間。  当然学校側からの抗議も激しくなる中、望んでも頼んでもいないことだったが、レジナルドは自ら問題児たちの盾となり、悪童二人の企みはことごとく成功を収め、『館』の一年はそれまで欠けていた精彩を一気に取り戻すような活気に満ちたものになった。そしてその結果、『哀しみの聖母』が誕生することになる。  ウィズリー校は名門とはいえ、五学年千三百名の十代男子が集まれば、良くも悪くも異端児が存在する。学校側で処理しなければならない大問題を引き起こす悪質な生徒は別だが、些細な規則破りに対しては、監督生の裁量で諭したり懲罰を科さなければならない。監督生の権力が強大だった時代には、度を越した懲罰が私刑的側面を持ち、傷害事件として学校の内外で取り沙汰されたこともあったらしい。  さすがに昨今ではそういった事例はないが、それでも監督生は職務に必要なだけの力を有している。鞭で手を打つ程度の懲罰はジェイムズの時代にも日常茶飯事だったことを、『館』創設以来の悪童として名を馳せてきたジェイムズとその悪友は身を以って知っている。そんなジェイムズ達を一度も鞭打つことなく、声を荒げることもなく、ひたすら諭した唯一の監督生がレジナルドだった。 「まったくもう、君達につける薬はないようだね」  哀しげにため息をつく様は、良家の子息ばかりとはいえ結局のところはむさ苦しい男の園で、奇跡的に貴重な一服の清涼剤。  悪童二人が退屈に倦んだ寮生たちの期待に応え、そのたびに監督生が駆けつけて諌める。その場には、いつもは穏やかな微笑みで見る者を和ませる花の(かんばせ)が憂愁に曇る様を、この目にしかと焼き付けたいという物好きな野次馬が鈴なりだった。やがて誰ともなく影でレジナルドを『哀しみの聖母』と崇めるようになり、ジェイムズはその不毛さに呆れながらも、言い得て妙だと深く納得したものだった。あの幅も奥行きもある人柄に繊細な容貌の組み合わせは、聖母と呼ばれるに相応しい、と。  いつも盾となって学校側の猛烈な抗議を引き受け、反省の色などまったくない悪戯常習犯を庇い続けた監督生。誰に対しても公平誠実で教授陣の信頼も厚く、しかし四角四面の面白味のないただの優等生ではなかった。英国人らしくユーモアをこよなく愛し、そのためなら多少の犠牲は仕方なしと考えていたようだ。  卒業の日、抜けるような青空の下でレジナルドは言ったのだ。「ありがとう」と。 「君達のおかげで、退屈している暇もない学生生活を送れたよ」 「面白いことを言うな、監督生。山のように迷惑を掛けた相手に礼を言われるのは初めてだ」 「おかげで、うるさ方を言いくるめる術を身につけられたからね。この先役に立ちそうな技術だと思わないか?」  茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせたレジナルドを最後の姿として記憶に残し、あれから十年。  あの初夏の日と変わらぬやさしい瞳が、懐かしそうにジェイムズを映している。 「何故君がここにいる、監督生」  当然の疑問が口をついた。 「私はホテルに珈琲を飲みに来たのであって、母校の黴臭い寮に思い出探しに来た訳ではない」 「生憎ここはウィズリーではなくて、わたしの勤め先だよ。それに珈琲って…食堂(ダイニング)が開くまでまだ一時間ほどある。大体何だってこんなに朝早くに」 「飲みたいと思った時が飲む時だ。それ以外の珈琲など、色は黒いのに文字も書けないインク以下の役立たずだ!」  堂々と言い放ったジェイムズに、レジナルドは一瞬声を失くし、そののちしみじみと言う。 「全く変わってないようだね、ジェイムズ。まるで十年前の『館』にいるような錯覚を覚えるよ」 「それはこちらの台詞だ、監督生。『哀しみの聖母』の微笑みは健在だな、年齢不詳に年を重ねたものだ。制服を着て校内に戻っても、誰も不審に思わないぞ」 「…褒め言葉に聞こえないよ」 「当然だ、別に褒めている訳ではない」 「確かに。悪戯だけじゃなく舌戦でも並みいる教授方を薙ぎ倒してきた君に褒められた日には、裏に何があるのか真剣に勘ぐらなきゃいけないな」  肩を竦めたレジナルドは、フロント奥の事務室に声を掛け、同僚に一言二言告げるとカウンターから出てきた。  その場を圧する王のように立つジェイムズをまだ暗い喫茶室(ティールーム)へ促し、角の照明を一つ点ける。慣れた仕草で椅子を引き、賓客をもてなすようにジェイムズを席に着かせると、記憶にある初夏の日と同じ表情で――取り澄ました微笑よりも断然いいとジェイムズが感心した表情で――片目を瞑った。 「今君はわたしの友人であって、ザ・ジャロルズのお客様じゃない。君が喫茶室の営業時間外に珈琲を飲めるのは、従業員の職権乱用の結果だ。くれぐれも他言無用に頼むよ」

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