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扇屋(2)

 この大陸と周辺諸島で厚く信仰されている至聖神教。  その信仰を守る至聖神教騎士団の中でも最強といわれるのが、神聖騎士団の名を持つ部隊だ。その高い名声の代価として、騎士たちは徹底した節制と禁欲を誓い、無垢なる身を神に捧げる。俗世との縁を一切断ち、肉親と文を交わすことも許されない。  三年前まで、梟はそうした世界で生きていた。  没落していても名門という、名ばかりで実のない貴族の家に次男として生まれた時点で、梟の未来は決まっていた。家名を保ちつつ食い扶持を減らし、かといって息子を食い詰めさせずにすむ唯一の方法として父が選んだのは、十歳の梟を神殿に入れることだった。  物心ついた頃からそう聞かされて育ち、神殿に入るのは当然のことと受けとめていた。父は冷たい人ではなく、早くに亡くした母の代わりでもあった兄とともに、濃やかな愛情を注いで梟を育ててくれた。家を出て神殿に向かう梟の馬車を、泣きながらいつまでも追いかけてきた兄の姿が、今も瞳の奥に焼きついて離れない。  もう二度と会うことのない、思い出の人々。神聖騎士の戒律から解き放たれても、梟は彼らに会うことはできない。  神殿に入る時、神に一生を捧げる証に家の名を捨てた。  神殿を去った時、父から与えられた名も捨てた。  酔狂にも素性の知れない流浪人を拾い、梟という名と寝床、そして娼館の用心棒という仕事を与えてくれた椿に出会うまで、梟には名前すらなかったのだ。  玄関で、今宵一番の客の気配がした。  唐突にもたらされた遂情で甘だるい体をのろのろと起こし、剣を床に置いたまま、梟は物置部屋を出る。顔を洗って気持ちを引き締め、快楽に押し流されてしまった緊張感を取り戻したかった。高級娼館である扇屋は、花街の中でも随一の客筋の良さを誇るが、用心棒がいつまでも快楽の余韻に振り回されていいわけはない。  久しぶりに体中の熱を追い上げられたせいだろうか、雨でもないのに背中の傷が疼く気がする。  奇妙に思いながら洗面所に続く廊下に出ると、案内係を先ぶれにこちらへ渡ってくる客の姿が見えた。端に寄って道を譲り、梟は深々と頭を下げる。客に顔を見せるなと椿に厳命されているし、娼館の使用人の腰は低ければ低いほどいい。 「おいでなさいませ」  平淡な調子でお決まりの台詞を口にすると、前を通り過ぎようとしていた客の歩みが止まった。 「その声…もしや、神聖騎士ユリウス?」  頭上から零れ落ちた呟きにはっとする。  身を起こす前に男の腕が腰に絡みつき、梟をその胸元へと引き寄せた。顎に手を掛けられ、すっと仰向かされる。相手が客である以上、邪険に突き飛ばすこともできずなすがままの梟の顔を、長身の男は食い入るように見つめた。  梟も無礼にならないよう素早く相手を観察する。  夜を吸い込んだように黒い髪と瞳、年は七つ八つ上だろうか。服越しに感じる体つきは男らしく引き締まり、少々目つきは鋭いものの女たちが喜びそうな大層な男前――全く記憶にない男だ。  けれどこの男は、確かに梟の名前を呼んだ。神殿を去る時に捨てた名を。 「やっと見つけた、ユリウス…」 「私は梟と申しますが、一体何のことで…っ!」  警戒しながら言いかけて、けれどその先は言葉にならなかった。  鳩尾に鈍い痛みが走り、衝撃に喉元で息が絡まる。目の前の男の仕業だということはわかったが、その理由にまったく心当たりがない。鋭く入った拳に容赦はなく、無防備だった梟は、疑問符で頭を埋め尽くしたまま、呆気なく男の腕の中に崩れた。 「お、お客様、一体何をなさるんで!」  突然の暴挙に仰天した案内係の悲鳴が、長い廊下に響き渡った。  何事かとあちこちで引き戸が開き、事の次第を確かめようと女たちが顔を出す。そうした状況を一切無視して気を失った梟を肩に担ぎ上げると、男は今さっき通ったばかりの玄関へ引き返そうとした。 「生憎ですがね、お客様」  あたふたとついてくる案内係を鋭い一瞥で下がらせ、勝手を通そうとする男を遮るように、長煙管を手にした影が廊下の端にすいっと伸びた。 「その子はこの店の者だけれども、客を取るわけではないんですよ。用心棒の男なんぞ放っておいて、奥でうちの自慢の女たちを喜ばせてやってはくれませんかねえ」  飄々とした口調でのんびりと煙草を吹かしながら、けれど一歩も引かない構えで、扇屋の主が立ちはだかる。花街の顔役でもある椿は、優男の外見に反し、相当に肝が据わっていることでも知られる。  余裕めいて壁にもたれながら、しかしその目を物騒なまでの気迫で眇めてみせる椿に、男は面倒くさそうに言い放った。 「この者には帝都から追捕状が出ている。邪魔をするなら、この場で斬って捨てるぞ」  思い掛けない言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。  皇家の紋章の入った正式な書状を突きつけられ、さしもの椿も黙らざるをえない。  長煙管の白い煙がくゆる中、眉をひそめて道を開けた椿を横目で睨み据えて男は通り過ぎ、店の前に乗りつけた馬車の中へ梟の体を放り込んだ。続いて自分も乗り込むと、武装した御者に合図する。  馬車は弾けるように走り出し、凄まじい速度で花街の大門を通り抜け、やがて通りの向こうに消えていった。 「…梟のにいさん、帝都で何をやらかしたのかね」 「自分のこと、全然しゃべらなかったけど、追われてたなら無理もないやね」 「あれだけの男前だよ、痴情のもつれってやつに決まってるさ」  水を打ったように静まり返っていた店内が、ひそひそと交わされる無責任な憶測で息を吹き返す。目の前で繰り広げられたあっという間の捕り物劇に、店の誰もが呆気に取られながらも興奮していた。 「おまえたち、店は開いているんだよ。さっさと仕事にお戻り」  冷静な主人の鶴の一声が、その場にいた者たちの意識を日常へと引き戻す。 「梟はそんな子じゃないよ。まあどうしても罪を着せるとしたら、恋盗人といったところかねえ」 「恋盗人って……誰かを寝盗ったんじゃなくて、ご寵愛から逃げたってこと?」  途端に目を輝かせる女たちに、椿はやれやれと肩を落とす。玄関の広間に設えられた猫足椅子にどっかり座ると、長煙管をぷかりとやって口を開いた。 「梟を攫っていったあのにいさん、捕り物のわりに手勢は薄いし宮廷訛りはあるし、どうにも怪しい。おまけに私を睨みつけた目、殺気と悋気に取り憑かれていたよ。ただの官憲なら、どうして一介の娼館の主を、間男を見るような目で恫喝する必要があるんだい。追捕状は本物だったから、お上の人間であることは確かだろうがね」 「じゃあ…?」 「大方、人の気持ちに無頓着で、鈍感なことにかけては天下一品の梟を相手に、みっともなく一人相撲でもやらかしたんだろ。こんなところまで捜し当てて追い掛けてくるなんて、まったく梟も罪作りな子だよ」  可愛がっていた梟を攫われて心配しているかと思いきや、くすくすと面白がっているような口調だ。目を丸くする女たちに洒脱な流し目をくれると、椿は思案げに、そして楽しげに呟いた。 「はてさて、どこのどなたの心を盗んで、ここまで流れてきたものやら」

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