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悪霊憑きの部屋

 この感じ、知っている。  空気をねっとりと生ぬるい水のように感じ、視覚も聴覚もぐずぐずとひしゃげ、夢と現の狭間に落ち込んだような体を、鉛のように感じるこの不快さは。  気がついた時、梟は深い闇の中にいた。やわらかい寝台に寝かされており、どうにか重い瞼を持ち上げると、敷布の白だけが闇にぼんやり浮かび上がる。うつぶせの姿勢が苦しいが、寝返りを打つこともできないくらいに体が重く、力も入らない。  諦めてぐったりと寝台に身を預けた梟は、するすると背をすべる掛布の感触に、動けないと知りつつも全身を緊張させた。ひやりとした空気に肌が粟立ち、今更ながら自分が全裸であることに気づいて慄然とする。  無防備に晒された背中、そこに残る醜い斜め十字の刀傷を、生温かく湿ったものがなぞっていく。椿によって、他人の舌や指の感触を教え込まれた体は、三年前とは違い、その熱い何かが何者かの舌で、梟から神聖騎士の称号を奪った傷痕を舐め回しているのだと理解していた。  舌だけでは飽き足らないとばかりに、おそましさに総毛立つ肌を、傍若無人な手の平が撫で回す。三年前、毎晩のように苦しめられた悪夢が、今また梟を苛み蹂躙している。  首筋に、手首に、脇腹に、背中以外の意識せざるをえない場所にも唇が吸いつき、赤い痕を残していく。これは夢ではないのだと、確かに梟の身に起こったことなのだと、意識を霞ませて逃げようと足掻く梟を、嘲笑い思い知らせるように。  悪霊のいたぶりに、体の自由を奪われ何一つ抗することもできないまま、梟は意識を失った。  翌朝、目が覚めると同時に手首を確かめた梟は、恐れていたおぞましい痕をそこに見つけ、茫然とするしかなかった。 (また、だ…)  帝都を離れて以来、ぴたりと止んでいた悪夢が甦ってしまった。  三年前、何者かに皇宮内で斬りつけられ、政治上の理由から、そのまま皇宮の一室に留められて治療を受けた一ヵ月間、悪霊は毎夜のように梟を訪れた。一晩中体の自由を奪われ、肌を嬲られる。他人の愛撫はおろか、自慰すらも知らない無垢な体に、それは恐怖と苦痛以外の何ものでもなく、神聖騎士の体面もあり誰にも言わなかったが、梟は悪霊の仕業だと本気で怯えていた。  俗世にまみれて三年を過ごした今も、その恐怖は変わらない。  自分の体に触れるものが、悪霊の舌だろうが尻尾だろうが大差はない。花街ならまだしも、厳しい規律で管理される皇帝の宮殿で、当時神聖騎士だった梟に触れようとする人間がいるはずもなかったし、あの身動ぎ一つできない感覚の麻痺は、人智の理解を超えている。  皇宮の一室で繰り返された、不気味な夜。  呼び覚まされた記憶に、全身を震えが走り抜ける。思わず自分を抱き締めながら、不意に梟は気がついた。 (あの悪夢は、あの部屋だけで見た…ということは私は今、あの部屋、皇宮にいるのか?)  出会い頭に鳩尾に一発食らい、気を失ってどれほどの時間が経ったのか。  頭の芯に痺れるような頭痛が残っているから、薬で眠らされていたのかもしれない。娼館の用心棒一人のためにご大層なことだが、あの男は梟の過去を知っているようだった。一人が帝国騎士十人に匹敵すると言われる神聖騎士を拉致するなら、確かに不意打ちと薬物くらいは必要かもしれない。  朝の光に明るく照らされた室内が三年前の悪夢の部屋であることを確かめたのと、突然扉が開いたのは同時だった。 「目が覚めたなら、顔を洗ってこれに着替えろ」  抑揚のない調子でそう言い、長椅子に重そうな服の一式を投げたのは、扇屋で梟に不意打ちを食らわせたあの長身の男だった。 「問われる前に答えてやる。この部屋には見覚えがあるだろう。察しの通りここは皇宮、貴様は皇帝陛下の近衛として召し抱えられた。この世に四名しかいない『四神の近衛』の一角、『青龍』の名を受ける栄誉を末代まで誇りとするがいい」 (…この手荒な拉致は、近衛の人事絡みだったのか)  男の説明に危害を加えられることはないと理解したが、状況は相変わらず梟の都合を無視し続けている。投げられた服がやけに重そうなのは、控えめでいて贅を尽くした近衛の礼装だからだろう。以前遠目に見たことのある仰々しいそれに、思わず投げやりなため息が洩れた。 「娼館の用心棒を陛下の近衛になどと、本気で考えているのか」 「娼館の飼い犬などに用はない。私は神聖騎士ユリウスに話をしている」 「ユリウスは三年前にこの宮殿で闇討ちに遭い、その傷が元で死んだ」  神聖騎士ユリウスを求めて扇屋の梟に辿り着いたなら、この男はそのあたりの事情も知っているはずだ。だからこそ用件を聞いた梟が再び姿を消すことを案じ、卑怯な不意打ちをして無理矢理帝都に連行したのだろう。  理屈の通らない言い分に眉をひそめると、 「文句なら自分の腕に言うんだな。先代の青龍が貴様に敗れて以来、青龍の座は空いたままだ。陛下は一度でも敗者となった者を、近衛としてお側に置くほど酔狂な方ではない」  傲然と返されたが、梟にそんな記憶はない。どこかで大きな勘違いが生じ、自分をここへと導いたのだと気づく。 「ユリウスが皇帝陛下の近衛と剣を交えたことはない。確かに彼は、請われて模擬試合や指南役に駆り出されることもあったが…」  それらはむしろ、名高い神聖騎士の矜持をへし折ってやろうと、手ぐすね引いて待ち構えていた帝国騎士団の悪意の現れだったように思う。当時、教団の大使付き武官として帝都に駐留していた神聖騎士ユリウスは、彼らの格好の標的だった。職務を全うすること以外に興味はなかったが、断る理由を考えるのも面倒で、請われれば剣の相手を務めたものだ。しかしその中に、近衛に相応しい腕を持つ騎士などいなかった。  楽しいとはいえない思い出は、何故か目の前の男の機嫌をも損ねたようだった。 「青龍と剣を交えたことはない…?」  茫然と低く呟いた男は、しばらく言葉を失っていた。何かおかしなことを言っただろうかと内心で首を傾げていると、短い自失から立ち直ったらしい男の、獰猛な意志の輝きを孕んだ双眸が、突き刺すように梟を射抜いた。 「陛下は貴様の出仕を望んでおられる。もちろん青龍への就任が一番だが、他の手がないわけでもない」  怒りにも似た熱い何かに満ちた眼差しに、そんなものを向けられる理由がわからず、梟は僅かに怯む。 「あの娼館で会った時、色っぽい潤んだ顔をしていたな。用心棒といいながら、その細腰で男を悦ばせてきたのだろう。どうしても青龍になるのを拒むなら、陛下の寝所に侍るという手もあるぞ」 「あの花街は女街だ、男を買う輩は東の男街へ行く。女街で男に手を出す馬鹿はいない」  的の外れた反論を封じるように、男は梟から強引に体を覆う掛布を引き剥いだ。  半ば昼夜逆転の生活で日に当たる時間も少なく、その白さが更に深みを増した肌が、朝の光の中で露になる。うつぶせの状態で悪夢に晒されたせいで、胸元や腹部は無事だったが、背後から届く限りの首筋や脇腹、腕の付け根、そして背中一面に赤い痕が花弁のように散り、色白の肌を艶かしく彩っている。  鏡を見なくても、目覚めてすぐ確かめた手首と、三年前の記憶が自分の有り様を脳裏に描き出し、梟は頭から血が引いていくのを感じた。 「これでは何を言っても説得力がないな。相手の男がこれほどしつこく痕を残すほどに貴様の具合がいいのなら、陛下にもご満足いただけるだろう」  自分の手で全裸にした体を値踏みするように、男は冷たく目を眇める。 「騎士として陛下に仕えるか、娼館の犬として陛下に仕えるか。道は二つに一つ――選ばせてやろう、貴様に」

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