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蜻蛉(1)

 部屋続きの浴室で手早く湯浴みを済ませると、楽な夜着に着替えた梟は寝台に浅く腰掛けた。  この部屋――悪霊憑きの部屋を仮の住まいとして、すでに二ヵ月が経っていた。悪霊の呪いは毎夜律儀に梟を訪れ、その眠りを妨げている。 (どうしてこんなことに…)  頭を抱えても後の祭りだ。  今更皇帝の近衛になるくらいなら、三年前に騎士の名を捨てたりしてはいない。かといって、皇帝の寝所に侍るなど論外だ。そう断じた梟が提案したのは、より強い騎士の発掘だった。  皇帝は、一度でも敗者となった者を近衛に据えることはないという。ならば梟が近衛に相応しい騎士を見つけ、その者と戦って敗者となればいい。扇屋の用心棒となってからも剣の鍛錬は欠かさなかったが、神聖騎士に相応しい技量を今も留めているかと問われれば、正直なところ応と答える自信はない。  皇帝が記憶しているのは三年前までの梟、神聖騎士ユリウスの姿だ。その名に相応しい者はこの世から消え、彼以上に強く『四神の近衛』に適する騎士は他にいることをわからせる。そうなったら梟もお役御免、椿が迎え入れてくれれば扇屋に戻り、これまで通り用心棒として花街の日々を送るだけだ。  その提案は、梟を帝都に攫った男によって皇帝まで届き、認められた。蜻蛉《かげろう》と名乗ったその男は、以来目付け役として梟の周囲に出没している。 「帝都の名立たる騎士を打ち倒した気分はどうだ」  今日の午後、兵舎の一室で椅子にもたれ肩を落としていた梟に、蜻蛉は口の端を吊り上げながら訊ねた。  この二ヵ月の間、梟は自分に勝る騎士を求めて剣の模擬試合を繰り返し、その度に勝利していた。今日の相手は帝国騎士団本部所属の精鋭とのことで、その剣筋は確かだったが、実践経験に乏しいことが明らかな技量だった。  その相手を難なく下したことで、梟を取り巻く声にも変化が生じ始めている。模擬試合には必ず蜻蛉が同行し、他の騎士たちから梟を遠ざけているが、それでも今日の試合後、梟のまわりには手合わせを望む輩で人だかりができたのだ。  予想していなかった展開に焦燥の色を濃くする梟を知っていて、蜻蛉は人の悪い笑みを浮かべる。 「薄々勘づいている者もいるようだぞ。今日もおまえの試合を見ていた老将軍に、あれは大陸最強と謳われた神聖騎士ユリウスではないのかと訊ねられた」 「否定してくれたのだろうな」  神殿を去った時、神聖騎士の象徴でもある長い髪をばっさり切った。以来怠惰に伸ばしては椿に小言を言われ整えてもらっていたが、皇帝の代理人として人前に出ることになり、肩まであった髪を帝国騎士風にうなじの長さに切り揃えていた。ユリウスとばれないようにするための小細工だ。  膝裏にも届く神聖騎士の長い髪は誰の目にも印象的だから、それを短くしてしまえばかなり周囲を欺ける。一応念を入れて黒く染めようとしたのを、何故か蜻蛉が非難するような目つきで止めたので、白金の髪の色は元のままだ。  帝都を離れたのは三年も前だし、似たような髪の男はごまんといるから髪の色で素性がばれることもないか、と自分の容姿に頓着がない梟は反対を受け入れた。それを聞き咎めた蜻蛉が、「己を知らないにもほどがあるぞ」と眉をひそめた理由は、今もわからずにいる。 「否定しようと姿を変えようと、貴様の華麗な剣筋は隠しようもないだろうが」 「…帝国騎士が揃いも揃って腑抜けなだけだ」  忌々しく吐き捨てるのではなく、しみじみと落胆しての発言に、自国の精鋭を腑抜け呼ばわりされた蜻蛉は、渋い顔をしながらも皮肉な気配を消した。  掴みどころのない、不思議な男だ。  蜻蛉という明らかな偽名で名乗った時、怪訝な顔をした梟に彼は言ったものだ。 「貴様同様、私も過去に名を捨てたんでな」  出会い方は最悪、皮肉に走りがちなところは難点だが、慣れてしまえば人柄もそれなりに付き合いやすい。梟が青龍に相応しい騎士の発掘を申し出、それが達成されるまで帝都に留まることを誓約すると、頑なな岩のようだった態度を軟化させて、帝都での生活をあれこれと整えてくれた。  今も蜻蛉がどのような立場にいるのかは謎だが、叩き上げの騎士上がりというわけではなさそうだった。武骨そうに見えて上流の生まれらしく、蜻蛉の指示により、梟の食事も居室の設えも衣服も、かつてない豪奢なものを与えられている。  没落貴族に生まれ神殿で育った身には過分だと何度も伝えたが、蜻蛉は一向に耳を貸さない。人の話を聞かず、自分の意志を押し通すことを一切ためらわないその尊大さ、似た者同士のあの部屋の悪霊も祓ってくれたらいいのにと思う。 「帝国騎士が腑抜けなのは、貴様のせいではないのか?」  いかにも皇宮の女官たちの秋波に慣れていそうな、精悍に整った顔を何となく眺めていると、それを不快に感じたのか、蜻蛉はぶっきらぼうに言葉をついだ。 「衛兵には厳しく言い含めているのに、貴様の体からその痕が消えることはない。どうにも男が欲しいなら、陛下の寝所に侍ればいいだろう。貴様ほど美しければ、きっとお情けをいただけるぞ」  酷い誤解と侮辱だったが、蜻蛉の指摘は間違っていない。夜毎訪れる悪霊のせいで、梟の肌から赤い斑点が消えることはなかった。 「…蜻蛉は、悪霊を信じるか?」  進んで臆病者と謗られる気にもなれず、今まであの悪夢のことは言えずにいた。けれど娼館の用心棒ということで、妙な先入観を持たれるのも耐え難い。家の名を捨て騎士の名を捨てても、梟は男相手に足を開くような人間ではない。 「悪霊?何だ突然」 「毎晩あの部屋に現れて、私に呪いの痕を残していく。三年前も今回もそうだ。――あの部屋は、悪霊に憑かれているんだ」  滅多にないことだが、蜻蛉は虚を衝かれたように目を見開き、まじまじと梟を見つめた。 「…それは冗談のつもりか?ここは笑うべきところか?」 「そう言いたくなる気持ちはわかるが、私は真面目な話をしている」 「高潔な神聖騎士が、夜な夜な悪霊に襲われその肌を貪られていると、貴様は言うのか?」  呆気に取られた口調に皮肉の色合いは欠片もなく、それだけに蜻蛉が純粋に驚いて――呆れていることがわかる。 「…他人の口から改めて聞かされると、悪霊に呪われた我が身も滑稽なだけだな」 「貴様、本気で言っているのか」 「からかうつもりでこんなことを言うほど、私は冗句に通じている人間ではない」  物哀しい気持ちになりながら、半ば八つ当たりも込めて蜻蛉を睨みつける。その拗ねたような眼差しに、蜻蛉は一転、さも愉快そうに笑い出した。 「これはいい!最強の神聖騎士が悪霊に脅かされるとは!だが悪霊に罪はないぞ、貴様の色艶がそいつを惑わせたんだろうからな。あの部屋は皇宮建設当初からある由緒正しい客室だが、悪霊が出たという記録はない。貴様がよほど美味そうだったんだろう」 「蜻蛉!」 「それでも貴様が、その肌の情痕を悪霊の仕業と言い張るなら、私が宿直して確かめてやろう。夜這いを掛ける男がいれば追い払い、貴様の言う通り本当に悪霊が出たなら――私のすべてで守ってやる」  悪霊祓いは、至聖神教騎士団の特殊部隊のみに可能な霊的な作業なのに、蜻蛉はためらいもせずに言い切った。慰めのつもりか揶揄しているのか、唐突に梟の頬に触れた手は思いがけずやさしく、遠い記憶の兄のそれに重なったその手を、梟は払うことができなかった。

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