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蜻蛉(2)

 それを了承と取った蜻蛉が、夜も更けた今、梟の居室――悪霊憑きの部屋の扉を小さく叩いている。  夜着の上に部屋用の長衣をまとい、梟はくだけた私服姿の蜻蛉を迎え入れた。皇宮内をこの格好で歩いてきたのかと呆れたが、この客室は皇帝の居住区から遠く離れている上に、夜も更けている。特に咎められることもなくここまで辿り着いたことだろう。  灯りの下に立った蜻蛉の手に酒瓶を見つけ、梟はさらに呆れた。 「蜻蛉…」 「酒もなく男二人が過ごせるほど、夜は短くない」  そううそぶいて、勝手に備え付けの棚から酒器を取り出し、二人分注いでしまう。梟は元々酒に強くなく、また剣と体が鈍るのを嫌って、自分から飲もうとしたこともない。神殿にいた頃は当然酒など口にできるはずもなく、椿の晩酌に付き合わされて初めて酒の味を知った。  夜を持て余したことはないと言っていた椿。今も縁台に横になり、月見酒星見酒花宵酒と繰り言を並べながら、杯を重ねているのだろうか。  何となく懐かしくなり、蜻蛉に勧められるまま、梟はあまり得意ではない酒に手を伸ばした。 「そういえば気になっていたんだが、三年前ユリウスを斬った下手人は捕まったのか?」  舌にのせた途端、かっと口内に広がる辛さにも似た熱を持て余しながら訊ねると、 「それが酒を飲みながら訊くことか」  これだから酒の飲み方も知らない神聖騎士は、と呆れる相手に淡々と応じる。 「こんな時でもなければ、口にもできないことだ」 「…それもそうだな」  至聖神教の大使付き武官が皇宮内で斬りつけられた事件は、国を束ねる上で信仰の力を軽視できない帝国にとって、扱いを間違えば教団を敵に回しかねない大事件だった。直ちに箝口令が敷かれ、傷も癒えないうちに多額の契約金を伴う梟の帝国騎士への引き抜き話が持ち上がったのは、甘い餌で梟の口を塞ぐためだったのだろう。 「この件については、帝国騎士の無能を好きに罵ってもいい。陛下のおわす皇宮で、賓客が斬りつけられるなどあってはならない事件だし、その下手人も挙がらないなど言語道断だ。それにその傷が、結果的に貴様を騎士団から追いやったのだろう?」  見舞いに来た教団の大使の態度は、表面こそ労わりに満ちていたが素っ気ないものだった。梟を引き抜こうとする帝国から、教団に何らかの取引が持ち掛けられていたのかもしれない。 「どんな状況にせよ、闇討ちに遭う間抜けな騎士など、信仰の守り人たる資格はない」  皇宮では武器の持ち込みが厳しく制限され、神聖騎士であっても帯刀は許されない。闇の中、殺気もなく突然後ろから斬りつけられたあの夜も、梟は丸腰だった。状況はあまりに不自然で、最強の神聖騎士と謳われた梟の技量を疑う者は誰もいなかったが、それでも梟は神殿を去った。 『闇討ちに遭った無様な神聖騎士』  そんな誹りを受ける者の居場所など、誇り高き神聖騎士団にはない。大陸最強の聖なる騎士団と尊崇を集めるがゆえに、どんな言い訳も許されないのだ。  皮肉な口調でさらりと返した梟に、何故か蜻蛉は口を閉ざした。らしくもなくしばらく躊躇した後、今度は意外なことを訊いてくる。 「憎くはないのか、貴様から神聖騎士の名を奪った犯人が」 「憎い、か。考えたこともないな」 「貴様から地位も名誉も、すべてを奪った相手だぞ」  ――すべて。口の中で小さく転がしてみる。  梟にとって『すべて』を意味するのは、父と兄とともに過ごした十年間。二度と会うことはない、過去に封印した人々だ。  帝国を振り切り教団を離れ騎士の名を捨てても守りたかったのは、父と兄が守るあの家。  帝国の誘いを受け入れれば、名より実、聖より俗を選んだ誇りなき神聖騎士と後ろ指を差されることは目に見えていた。世間の蔑みが、自分一人だけではなく、十年以上も前に縁の切れた生家に及ぶことも。  貴族社会は名誉を重んじる。父と兄に迷惑を掛けることだけは絶対にできない。ユリウスから梟へ、名を変え身を変えても、生家に戻らず連絡すら取らずにいるのは、心に立てた誓いのためだった。 「一度神にすべてを捧げた身には、神聖騎士も娼館の用心棒も大差はない。守るべきものを守って日々を過ごすだけだ。環境が違うだけで何も変わらない。…父上、兄上に会えないことも」  小さく続けた言葉は、蜻蛉には届かなかったようだ。久しぶりに飲んだ強い酒のせいで、舌が上手く回らなかったのかもしれない。  剣術を肴に、ささやかな酒宴は続いた。  今日の模擬試合の相手は素晴らしい技術を持っているから、前線での実戦経験を積ませれば大きく成長するであろうこと。兵舎で見かけた剣の手入れの仕方が人によってはおざなりで、いずれ持ち主の命取りとなるであろうこと。帝国騎士団は重装騎馬隊が主体だが、軽騎兵の練度を上げることも重要であること。  酒の作用もあり、梟にしては珍しく饒舌だったが、その内容は堅い上にも堅く、娼館の用心棒の皮を被った神聖騎士の正体を露呈してしまっている。そんな有り様に時に毒づきながらも、蜻蛉は愉快そうに梟の慎ましい酔態を眺め、忌憚なく自分も意見を述べた。穏やかな時間が流れ、杯を重ねて――気づけば梟はうつらうつらと船を漕ぎ、その瞼はくっつきそうになっていた。 「…天下の神聖騎士が、こんなに無防備でいいのか?」  低い苦笑とともに、ふわりと体が浮き上がるのを感じる。心地好い酩酊感が、覚醒を妨げる。  今この部屋にいるのは、蜻蛉だ。悪霊ではない。この腕は悪霊の腕ではない。そう思った途端、安堵した体から力が抜ける。  やさしく抱き寄せる腕に懐かしい兄を思い出し、梟は素直に身を任せた。

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