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告白(3)

「もしかして、悪霊も蜻蛉の仕業か?」  今更陛下と呼ぶ気にもなれず、これまでと同じ口調で引っ掛かっていた問いを口にすると、何故か皇帝は嬉しそうに目許をゆるめた。 「皇家に伝わる秘薬だ。焚けば無色無臭の煙が体の自由を奪う。口にすれば意識も失い仮死となる。慣れた余には効かぬがな」 「そうして卑怯にも無抵抗の怪我人を嬲り、悪霊を恐れる相手を強姦したわけか」 「冷感症の己の所業を棚に上げて、人聞きの悪いことを言うでない」 (今度は冷感症呼ばわりか)  内心で冷たく毒づく。口にしたところで、この唯我独尊を地で行く男は、蚊が止まったようにも感じないだろう。 「己の所業を棚に上げているのはどっちだ。闇夜に後ろから斬りつけるなど、剣を取る者のすることではない!」 「正々堂々挑んでも、水のように受け流してしまう。記憶にすら残さぬ無情な天上の生き物を捕らえるには、羽をもぎ地上に留めるしかあるまい。それでも逃げられたと知った時には、|何故《なにゆえ》脚を斬らなかったかと己の浅慮を悔いたものよ」  淡々と口惜しそうな口調。  それが意味する情念の深淵に、梟は胃の底がせり上がるような戦慄を抑えられなかった。 (――一体、何を、言っている…)  この男は、梟を痛めつけてでも捕らえることに、一切のためらいがない。三年前、重傷を負い苦しむ梟を知っていて、なお脚を斬ればよかったと悔いている。  それは、人の枠を超えた奇形の思考ではないのか。そんなに強い――猟奇的とすら言える感情を、梟は抱いたことがない。想像することすら不可能だ。男女の欲が渦巻く花街であっても、厄介な客の病的な執着として、海千山千の娼館の主達ですら眉をひそめるだろう。  その狂気が自分に向けられていることに慄然とする。 「それに『背に斜め十字の傷を持つ美貌の剣士』、そなたを探す良い目印にもなったぞ」 「…傷の痛みで幾晩も眠れず苦しんだ私に、それを言うのか…?」 「だから毎晩舐めに行ってやったであろう」  艶めかしく細められた眼差しに操られ、男が隠し持っていた狂気に竦んでいたにもかかわらず、全身に散る愛咬の痕が疼いたような気がした。快楽に弱いはしたない体は、情けなくも持ち主の意志を無視して、自身を抱き翻弄する男になびこうとする――その妄執を目の当たりにしても、なお。  それでも、ただ怯え犬のように従う訳にはいかない。いくら蹂躙され男としての自尊心を根こそぎ奪われても、梟には死ぬまで手放すことはない剣士の矜持がある。対峙する相手が正体を現しやり口を明らかにした以上、ただ背を向けて逃げるのはその矜持が許さない。  何度敗れても性懲りもなく向こうが望むなら、正々堂々剣を交え、足元に下すだけだ。 「神聖騎士がまさか花街などにいるとは思わず、見当違いの捜索をして、そなたを見つけるのに三年も掛かった。余自ら迎えに行って、声色も駆使して、近衛も巻き込んでの大捕り物だったのだぞ」  恩着せがましい言い様も、もはや梟の心には水一雫ほどの波紋も生じない。  その、|撓《しな》う弓に張りつめた弦のような|勁《つよ》さ、踏みにじられても|罅《ひび》一つ入らぬ冷たい神聖騎士の気品が、この国で最も高貴な人物に猟犬の嗜虐心を呼び起こすものであることなど、もちろん梟のあずかり知らぬことであり、数々の災難の源泉でもあるのかもしれなかった。 「今度こそ逃がさず側に置き、正面からそなたの視界に入り余を認めさせようと思っておったのに、余を――青龍を覚えていないわ、ユリウスではないと言い張るわ、俗世に下ってもそなたはそなた、以前と変わらずつれない神聖騎士のままであった。そんな想い人の気を引くためにあれこれと策を弄して――皇帝アルフレート三世をこれほど手こずらせる者など、この大陸に他にはおらぬぞ」  言うなり鼻の頭に噛みつかれ、児戯のようなその仕草に、梟は驚いて目を瞠る。仄暗いもう一つの顔とはかけ離れた朗らかさで、梟の鼻先で愉快そうに頬をゆるめた皇帝は、けれど不意にその眼差しを剛いものにすると、決然とした調子で言い切った。 「これほど手を尽くして捕えたのだ、そなたには一生余の側にいてもらう。側にいて、皇帝たる余にこれほど無様な真似をさせた責任を取れ」 「…慰み者として、か」 「想い人としてだ。綺麗なだけの抱き人形など、望めば他にいくらでもいる」  そのわりには、しつこく無抵抗の体を求められたような気がするが、と梟は冷めた一瞥で厚顔な男の言葉を切り捨てる。 「私の意志を無視してか」 「では聞こう、梟の意志とは何か?娼館の用心棒に戻り、怠惰に日々を過ごすことか?」 「私は…」  未来を決める意志など、これまで持つことは許されなかった。  神殿の静謐な時間も、扇屋のぬるま湯のような日々も、梟には同じ凪いだ水面のように思えた。信仰を守るために剣を振るい、生家の名誉を守るために身を潜める。  失った『すべて』を心の支えとする、ただそれだけの人生。  扇屋には兄のように接する椿がいて、心身ともに随分慰められたけれど、それで心に波が立つほどではなかった。  突然現れ、身も心も梟を滅茶苦茶にした、破天荒な行動様式を持つこの男を、理解できる日が来るとは到底思えない。それでも未来を問う言葉は、十歳で時を止めた梟の心にするりと入り込み、揺り動かす。その先にある何かを見てみたいと思わせる。  ただ、これまでの仕打ちが非常識のそのまた上を行くもので、その『何か』も梟を満たすものになるのかわからない。何より、病的な執着を隠そうともせず、梟を搦めとろうとする皇帝の側にいることで得るものよりも、被る不利益の方がよほど多い気がする。  世間の評判は知らないが、梟の前ではいつも、蜻蛉と名乗るこの男は、火傷するような情熱を武器に容赦なく梟を翻弄する、嵐の暴君だった。 「蜻蛉の要請を受け入れたところで、私にどんな益がある。それにあれほどのことをしておいて、恋人気取りとは片腹痛いぞ」 「初恋もまだの恋愛不感症が、生意気な口を利くでない。それにこれは要請ではない。愛の告白とわからぬか」  闇討ちで後ろから斬りつけ一生残る傷を負わせるのも、花街一の業師を使い煉獄のような責め苦を与えるのも、求愛行動の一環と言って憚らない。そんな相手に、何をどう説いても無駄なのだろう。やはりこの男にはついていけない、とため息が洩れる。 「…断れば、生家に害をなすか?」  それでも相手がこの国で一番の権力者で、梟に守りたいものがある以上、選択肢は残されていないように思えた。 「やはりそれか、近衛入りを頑なに拒んだ理由は」 「わかっているはずだ。体面を保てなければ、貴族は貴族として存在できない」 「そなたは貴族ではない。扇屋の梟、ただの娼館の用心棒だ。その腕を見込まれ、表舞台には出ず、誰もその素性を知ることのない余のためだけの騎士、皇帝の『影』となるのに、何の支障もあるまい」 「…『影』?」 「余がそなたの光となる」  目を見開いた梟の唇に、皇帝のそれが降りてくる。  動けない体にまた欲望を押しつける気かと、気持ちがささくれ体は怯んだ。しかし、なだめるように差し入れられた舌の動きは穏やかで、頑なな心をときほぐすように口腔を愛撫された。やわらかく抱き締める腕も、揺り籠のようにやさしい。  愛しい者にようやく堂々と愛を告げた皇帝に、追い詰められた獣のような重苦しい気配はなく、満たされた者の余裕があたたかい空気のように梟の体を包み込む。口づけと抱擁の心地好さと、全身を包む倦怠感、そして甘やかそうとする言葉に、十の年から凍えていた梟の心がおそるおそる解けて動き出す。 「そなたの道を照らし、ぬくもりを与える光となる。もう二度と冷たく閉じた世界に逃げ込めぬよう、余のすべてで満たしてやる。だから余を受け入れ、有無を言わさず余を引きずり込んだ底無しの沼に、そなたも――溺れて沈め」

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