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告白(2)

「蜻蛉!」  詰るように叫んだつもりだったが、からからの喉から絞り出された声は嗄れ、囁きにもならなかった。  蜻蛉は――蜻蛉の姿をした皇帝は、烈しい凌辱を受け身動きもできない体を胸元に抱き起こし、手にした瑠璃杯から水を含むと口移しで飲ませた。喉を滑り落ちる水を鼻を鳴らして飲み込む梟が、もういいと弱々しく退けるまで、何度もそれを繰り返した。  瑠璃杯を小卓に置き、梟の口の端から零れた水を舌で追い吸い取っても、蜻蛉は腕の中の体を離そうとはしない。度を超した荒淫のせいで青白い頬に手を添え、ぬくもりを移すように包み込む。 「閉じられた信仰の世界に生き、外を見ようともせず、皇帝の声すら関わりのないことと拒絶する。欲したものはすべて手に入れてきた余にとって、そなたは唯一、手を触れることすらかなわぬ天上の花であった」  声が蜻蛉のものに変わっていることに、梟は気づいた。皇帝という至高の地位にありながら、声色の名手なのかもしれない。 (私一人を騙すのに念の入ったことだ)  すべては――帝都に攫われてから今まで、他の男の前で見せしめのように抱かれ心が引き裂かれるような思いをした昨夜の狂宴までも、すべて茶番だったのだ。  帝都への拉致も、近衛への強引な勧誘も。皇帝の代理人として行った数々の模擬試合も、三年前の犯人として皇帝の影をちらつかせ、梟の警戒を煽ったのも。  強姦という形で果たされた復讐に耐えるために呑み込んだ悲しみも、その直後に恋情を吐露されて放り込まれた混乱も。悪霊の呪いに怯えながら受け入れさせられる交わりに対する罪悪感も、自分を抱く腕に安らぎを覚え胸に生まれた困惑も。  そして昨夜、梟の心を完膚無きまでに押し潰した絶望も。  すべて意味のないことだったのだ。振り回された自分が馬鹿みたいだ。 (私を罪人呼ばわりするなら、法に照らしてもそっちの方がよほど重罪人だ!)  傷害、拉致、事実無根の誹謗中傷、強姦、暴行の一言では片付けられないほどの暴行、詐欺の一言では片付けられないほど悪質な詐欺。  枚挙に暇がないとはこのことだ。  ふつふつと沸き立つ怒りを感じながらも、こんな男を皇帝に戴くこの国の行方が不安になる。花街で聞いた為政者としての評判は、悪くなかったものだが。 (賢君と暴君、著しい二面性を持つ皇帝なのか?民に害が及ばなければいいが)  この期に及んでそんな心配をしている梟だからこそ、大陸の三分の一の版図を擁する帝国の頂点、『大陸の黒き鷲』と畏怖と尊崇を集める皇帝が、賢君の顔を脱ぎ捨て、蜻蛉として己を剥き出しにし想い人を追わざるを得なかったのだと、当然思い至ることはない。 「頑なで人馴れせず、寄せられる想いに気づかぬほど無垢で、なのに少しでも心許した相手には驚くほど無防備で愛らしい。思い余って腕に抱けば、甘く感じやすい体で余を芯から蕩かし骨抜きにした。欲しいと思う心のままに毎夜のように可愛がって、体は余を受け入れてーーそれでも心は馴染むことはなかったな。余を、そなたの世界を乱す闖入者くらいにしか思っていなかったであろう」  寂しげに微笑まれ、初めて見る男の弱々しい表情にずくりと胸を衝かれた。  他の男のために自分を犯す蜻蛉を知った時、かつて受けた背中の傷のように、心が血を流したことを思い出した。  この気持ちの揺らぎが何なのか、何という名の情熱に育つものなのかーーまだ梟は知らない。 「たおやかで儚げなその姿に鬼神のような闘気を秘め、帝国の最強騎士『青龍』ーー余を打ち倒したそなたの瞳が、勝利の瞬間でさえ凍てついていることを知った時、余の中で何かが弾けた。玉座にあるに相応しく生きてきた余を、初めて衝き動かした情動であった。憑かれたように求め、どんな手を講じてでも欲しいと思ったのは、そなただけだ。これほどまでに愛しく、その凍てついた瞳を溶かしてやりたいと思ったのも」  山ほど文句を言いたいのはこちらの方なのに、先んじるように放たれた告白と眼差しはどこか切なげで、十の年から外の世界を拒絶してきた梟の心の琴線を撫でるように爪弾いた。  『すべて』を失い、この世で手に入るものなど何もないという諦念の中に生きてきた梟を、この世で手に入らぬものなど何もない男が、度を超した執着で切望している。  笑えない冗談、何という運命の皮肉。  そう断じてみるものの、失ってなお欲していた人の腕のぬくもり、記憶の中のそれを遥かに凌ぐ肌の熱、そしてこれまで知らずにいたすべてを押し流すような情熱は、恐慌と背中合わせの、痺れるような心地好さを梟に注ぎ込むものだった。  未知の熱、未知のぬくもり。  今思えば、悪霊の呪いは梟にとって都合がよかったのかもしれない。抗うことができずに流されているだけという状況と言い訳がなければ、いまだ戒律に縛られる精神は、穏やかに蜻蛉の腕に包まれることさえ許さなかっただろう。兄のようにも思っていた椿と違い、蜻蛉は最初の印象が最悪で、その後も警戒を要する相手だったのだから。

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