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第4話

 加瀬(かせ)部長と(ラン)主任の、2人だけの初めての出張先は、北京だった。  北京で開催予定の国際見本市に参加する日本企業に向けて、協賛の大使館からの説明会が2日間に渡って開催されることになっていた。  大使館からの指名ではなかったが、日系ホテルの利用を推奨されていたので、候補となった3つのホテルから、やはり百瀬(ももせ)の意見で日系合弁の老舗ホテルに宿泊することになった。 「予約、入れておきましょうか?」  自分のアドバイスが受け入れられたこともあり、百瀬が気を利かせて言った。 「いえ。エアチケットと一緒に私が手配します」  上司との出張で、部下である郎主任が自ら手配することはなんら不思議はない。そして、シングルルームが手配できないことが多い中国で、ダブルルームを1人1部屋で予約することが許されている桜花企画活動公司(サクライベントオフィス)だったが、今回は部屋数に限りのある日系ホテルを推奨されていたことで、郎主任がツインルームを予約したことも、あながち不自然とは言えなかった。  けれど、加瀬部長はちょっと気になっていた。  部長個人としては、できればそれぞれダブルルームの個室にして欲しかったし、日頃の有能な郎主任であれば事前に確認をしてくれそうなものなのに、それが無かった事も納得がいかない。とはいえ、説明会に参加する他の日系企業の人たちもツインルームを利用していたし、ダブルルーム2部屋は予約がいっぱいで取れなかったのか、くらいに考え、特に何も言うことなく、加瀬部長と郎主任はチェックインを済ませてツインルームに入った。  そして、その夜のこと。  先にお風呂に入った加瀬部長は、ベッドに寝転んでテレビを観ていた。  中国語が分からない志津真は、イギリスBBCのニュースを観ることなしに観ている。父親の仕事の関係で、幼少期は海外で過ごしていた加瀬志津真は、英語はネイティブ並みに使えるのだ。 (おもろいニュースも無いな~)  退屈し始めていた加瀬部長は、大きな欠伸(あくび)を1つした。今日は上海から移動して、百瀬おススメの、ホテルの近くの美味しい北京ダック店で夕食を食べただけで、決して疲れているわけでは無かったが、今夜は余計なことを考えずに済むよう、早く寝ようと思った。  バスルームからは、シャワーの水音が聞こえていた。 (あの「(ラン)威軍(ウェイジュン)」がシャワー中ってか…)  イケナイ妄想をしそうになって、加瀬部長は慌てて頭を振った。  その時、シャワーの止まる音がして、郎主任がバスルームから出てきたのを察したが、加瀬部長はとてもそちらを見る勇気がない。  気配が近付くのを感じてはいたが、その次の郎主任の思わぬ行動に、加瀬部長はギョッとした。 「あの、郎くん?ベッド、間違ってるみたいやけど?」  加瀬部長が横たわっているベッドの端が、少し沈み込んだ。なんの許可も無く黙って郎主任がそこに腰を下ろしたのだ。  思わず指摘した加瀬部長に、郎主任はいつも通りの淡々とした声で答えた。 「いいえ。間違えていません」  当然だとも言うような、余りにも冷静な郎主任の返事に、加瀬部長も返す言葉が無く一瞬たじろいた。 「え~っと、ほな、俺が間違ってる?」 「いいえ。当然、間違えていません」  郎主任は、先ほど同様に端的に返事をして、ベッドに手を着いてグッと身を乗り出し、自分の方を見ようとしない上司の顔を覗き込んだ。 「誰も、何も、間違っていません」  じっと見つめる郎威軍の思い詰めた表情に、加瀬志津真はその意味を察してしまう。しかし、若い部下とは違い、経験を積んだ上司は、そう簡単に状況に流されたりはしない。 「あんな、郎くん。オトナの男をからかうと、エライ目に()うで」  物わかりのいい大人の振りをして、ニッコリと優しい笑顔を浮かべた加瀬部長は、乱心したかのような若い部下を牽制(けんせい)した。 「どんな目に遭うのか…」  だが、郎威軍の強い気持ちは揺らぐことは無かった。 「教えて欲しいです…」  理性を越えた熱い視線が、郎威軍の心の内を語っていた。けれど、それを素直に容認するほど、部長は未熟では無い。 「郎くん…。本気にしてまうやん」  笑いながら、何もかも冗談にしてしまおうと加瀬部長は思った。誘惑的な威軍も、気持ちが揺らぐ自分も、傷つくことの無いように。 「これは、私の本気です」  そう言って、郎威軍はゆっくりとその美貌を上司に近づけ、そのまま唇を重ねた。 「郎くん…」  まるで、時間が止まったかのような瞬間だった。神聖で、甘やかで、うっとりと酔わせるような、優しく艶やかなキスだった。  ほんの少しだけ離れて、睫毛の長い、深く煌めく瞳で郎威軍は愛しい相手を見詰めて、切なげな声で囁いた。 「名前を呼んで下さい…」  それだけを言うと、身を任せるように加瀬志津真の体に重なり、ねだるように縋りついた。 「威軍…くん」  目の前の美貌に、着崩れたバスローブから現れたうっすら上気した肌の肩に、体に掛かる重さに、郎威軍という人間の現存を加瀬志津真は意識してしまう。  こんな綺麗な人間が、自分の腕の中に居るという現実が、加瀬志津真を動揺させる。 「私は、貴方と付き合っていると思っていましたが?」  哀し気な表情を浮かべてそう言うと、妖艶に小首を傾げて威軍はもう一度上司の唇を奪った。 「い、いや、ちょ、ちょっと待って…郎…威軍くん」  だんだんと拒む自信が無くなってきた加瀬部長は、なけなしの勇気をもって威軍の麗身をなんとか自分から引き離した。その弾みで、威軍のバスローブが上半身から滑り落ちる。その時ふわりと感じた威軍の体臭が爽やかで、そこに含まれる濃艶なフェロモンも加瀬志津真は確かに感じた。 「今日まで、待ったのに?」  志津真の拒絶など全く無視するように、威軍は恋人に迫った。 「イヤ、ですか…?私では」  そう言った威軍が、泣き出しそうな表情なのに気付いて、志津真は何も言えなくなった。 「私では…、貴方をその気にさせる魅力に欠けるのですね…」  絶望的な目をして傷ついた様子の威軍に、志津真は慌てて否定する。 「それは無い!断じて無い!絶対に無い!」 「なら…」  その先は、威軍の美しすぎる瞳が語っていた。今夜は、抱いて欲しい、と。 「お前、俺を舐めてると、泣きを見るぞ」  さすがに腹を据えた志津真が、意地悪く笑った。 「泣かせてもらいたくて…」 「アホやな…」  一途な威軍の求めを、ようやく志津真は受け入れた。今は出張先で、上司と部下の関係をなし崩しにしてはならないと思っていた理性よりも、誰よりも愛しい相手を安心させることの方が大切だと気づいたのだ。  志津真は威軍をしっかりと抱き寄せ、今度は自分から濃厚な口づけを与えた。

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