3 / 9

第3話

 翌日、貴陽(クイヤン)の五つ星ホテルで行われる「国際漢方研究会」に、加瀬(かせ)部長と(ラン)主任は参加することになっていた。  山に囲まれ、交通も不便で、昔は中国一貧しい省と揶揄された貴州省だったが、漢方薬の材料の産地として知られていた。漢方薬剤を主原料にした製薬会社や工場もあったが、やはり豊富な薬草で知られる東北地方にはかなわず、中国全土から見れば大きなシェアとは言えず、これまではさほど注目されてこなかった。  だが、貧しさゆえに政府から経済新区として指定され、工場や高層ビルが次々と建設され、高速道路などの交通網が整備され始めると街も活気に溢れた。  その象徴として注目されたのが、高層ビルから滝のように水が流れ落ちるという大掛かりな建築デザインだったが、水しぶきが周囲に迷惑だと批判され、膨大な放水による水道代の負担もあって、もう名物の「滝」は見られない。  そんな経済的な成長途中にある貴州省の省都・貴陽は、今後の発展が期待されていた。  今、日本の企業が注目しているのが貴州省の漢方薬剤である。日本製の漢方薬がインバウンドで来日した中国人の間で大ヒットしたこともあり、日本製の漢方薬を大々的に中国でも販売しようとしているのだ。ただ、日本国内でも漢方薬剤は十分だとは言えず、古くから漢方材料の産地として知られる貴州省に注目が集まるのは自然な流れだった。  この漢方学研究会に桜花企画活動公司から、加瀬部長と郎主任が参加しているのも、日本の製薬企業からの依頼があったからだった。  この学会には日本の研究者も多く参加する。薬学系の大学関係者もいるが、漢方薬を研究する製薬会社所属の研究者も少なくない。それらの日本企業からの依頼で、貴州省の製薬工場や漢方薬研究家と連携し、日本向け薬剤輸出ルートを検討したり、将来的に日中合同の漢方薬研究センターの設立の準備を打診したりするのが、加瀬部長と郎主任の今回の仕事だった。  貴陽の研究会への出張が決まった時、加瀬部長は迷わず郎主任を同行者(あいぼう)に指名した。通訳としてももちろんだが、博識の郎主任なら国際法などにも通じているため、製薬会社や製薬工場と日本企業との提携の可能性の話をする時に、専門的な意見が参考になるのだ。  だが、貴陽という地名に何となく覚えがあった加瀬主任が、郎主任の部下である百瀬(ももせ)茉莎実(まさみ)に声を掛けた。 「なあ、百瀬くん?(きみ)、貴陽に知り合い居たんちゃう?」  何の気なしに訊いてみただけの加瀬部長だったが、予想以上の答えが返って来た。  「あ、友達がいますよ!何?貴陽へ出張ですか?ホテルとかレストランとか、オススメを訊いてみます?」 「さすが…」  この、日本人でありながら現地採用の契約社員という、非常に不安定な立場であるはずの百瀬には謎の人脈がある。中国人以上にあちこちに中国人の友達が居たり、日本の企業や官公庁に知り合いが居たり、時々職場の面々を驚かせるようなコネを披露することさえあった。 「今、貴陽でレストランっていうより、小さい食堂を経営してるんですけどね。彼女が料理の勉強をするのに上海に来てた時に、同じアパートに住んでたんですよ。あ、今のアパートじゃなくて、虹橋(ホンチャオ)地区に住んでた時ね」 と、ペラペラしゃべっているうちに、百瀬は手際よくスマホのアドレス帳を開き、貴陽に居るという友人のページを開いた。 「はい。彼女の連絡先は、今、部長のスマホに送りました。よかったら、すぐにホテルとか訊いてみます?」  あまりの段取りの良さに、部長もキョトンとしていたが、横から郎主任が声を掛けた。 「今、百瀬くんのスマホに今回の出張の日程と会場をメールしました。参考までに」 「おお!」  割と手際の良い百瀬以上に、さすがに人造人(サイボーグ)主任は完璧な仕事ぶりだった。  そして、すぐに百瀬が連絡を取り、地元の友達が3つの宿泊先の候補を出してくれた中から、百瀬がおススメのホテルを選んだ。 「この中なら、絶対ココがおススメです!空港からも近いし、街の中で便利だし、それでいて貴陽の有名な甲秀楼(こうしゅうろう)って観光名所がある南明河の河畔(かはん)で、お散歩にもいいんですよ。あ、ホテルの朝ご飯も美味しいし」  最後の一言に部長が食いついて、主任が予約を入れたのだった。  百瀬おススメのこのホテルは、南明区という貴陽市でも空港に近い東側にあるのだが、研究会の会場となるのは、風光明媚な観山湖地区の高級リゾートホテルで、ホテルの隣にはコンベンションセンターもある。  宿泊先のホテルからはタクシーで30分程度の距離なので特に不自由は感じないが、参加者の多くは会場となるリゾートホテルに宿泊している。景色も良い高級リゾートホテルに、研究会の参加者だけのお得な割引料金で宿泊できるからだ。 ***  宿泊先のホテルから、会場へ向かうタクシーに乗り込んで周囲の景色を楽しみながら、加瀬部長がボソリと呟いた。 「このホテルにして正解やったな」 「はい?」  意味が分からず、郎主任は加瀬部長の顔を見つめた。 「ホテルの設備もサービスもエエし、何より研究会の関係者に会わへんやん」 「確かに、日本人客は見かけませんでしたね」  日本人だけではなく、欧米にも漢方薬剤を研究している者はいるし、韓国やベトナムなど中華文明の影響を受けている地域からも、今回の研究会の参加者はいる。  だが、中国国内からの参加者と、中国の自然や高級リゾートのサービスを好む欧米人は会場であるリゾートホテルで宿泊することが多く、アジア系の参加者は食事や交通が便利な都会的で、価格の安いホテルを好んでいた。ちょうどどちらにも当てはまらないホテルに宿泊しているのは、桜花企画活動公司(サクライベントオフィス)の2人くらいだ。  だが、リバーサイドで景色もよく、ショッピングセンターも隣接していて、河畔周辺に感じのいいレストランもあるこのホテルを、加瀬部長はすっかり気に入っていた。 「なあ、今日の研究会の後の懇親会ってビュッフェ形式やろ?抜け出しても分からへんのちゃう?」 「抜け出す気、満々ですね」  呑気(のんき)な部長の提案に、有能な部下は呆れたように言った。 「せっかく百瀬の友達が紹介してくれたレストランもあるし~。あの河畔の散歩道がエエ感じやし、お前と2人で歩きたいなあって思って」  確かに河畔にある遊歩道から観光名所の甲秀楼の周囲の辺りまで、夜になるとライトアップが為され、とてもロマンチックな雰囲気に見えた。 「まるでデートですね」  冷ややかに部下が言うと、上司は嬉しそうに答えた。 「まあな」  無邪気な笑顔を浮かべ、部長はチラリと素知らぬ顔をしている主任へ視線を送った。 「じゃあ、最終日まで待って下さい」 「最終日?」  部長と主任は前入りで、木曜の午後に上海を出発して、夜にホテルに到着した。そして研究会の初日は今日・金曜日。明日の土曜の午前中に全体の報告会があって研究会は終わる。  内容的には金曜の発表会で終わるので、桜花企画活動公司としては、その日の内に上海に戻っても良いのだが、念のために最終日まで出張予定に入れていた。 「午後からは、休みです。翌日は日曜だし、上海への便は日曜の午後にしてあります」  しゃあしゃあと答える有能な部下に、部長は破顔する。 「今週末は、貴陽でデートか!」

ともだちにシェアしよう!