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第9話

 志津真(しづま)は自分の情けない恋愛遍歴をすべて語ったわけでは無いが、それら全ては偽りで、威軍(ウェイジュン)への気持ちだけが本物だと言いたかった。 「で、お前は?」  これまで、志津真は威軍の過去について問い(ただ)したことは無かった。  生まれて初めて威軍が体を許した相手が自分だ、という自覚はあった。ただ、それからの数年間、威軍にも何かがあっても不思議ではないのだ。 「もちろん、ファーストキスも、初恋も、初体験も、全部同じヒトですよ」  威軍はそう言って、志津真の目をじっと見つめた。  けれど、威軍はその「ヒト」が誰なのか言葉にせず、遠い過去を懐かしむように語り始めた。 「初めて抱かれた人に心惹かれていたのですけど、会えなくなってしまったので、最初は感情を持て余して混乱しました」 「!」  志津真が、あれからのことを、威軍の口から聞くのは初めてだった。 「たった一度の、通りすがりの行為だったはずなのに、忘れられなくて、切なくて…。やっと、あれが恋だったのだと気付いた時には、もう、どうやって彼を探せばいいのか分からなくて…」  遠い追憶に、威軍は当時の感情が思い起こされて、頼りなげな顔になる。それが志津真の保護欲を刺激し、堪らなく愛しさを感じた。 「忘れようとしました…。彼を忘れて、他の人と新しい恋を始めるべきだと…」  顔には出さなかったが、志津真は胸を突かれた。威軍が、自分以外の誰かと恋をするなどと、考えたくなかった。 「頭ではそう分かっているのに、出来なくて…」 「え?…そうなん?」  ホッとして、思わず頬が緩む。そんな分かりやすい志津真を理解しているのか、威軍は何も言わない。 「本当は、好きになってはいけない人なのだと分かっていました」  小さくそう言って、威軍は目を伏せた。  諦めるべきだと、誰よりも賢明な威軍は分かっていた。それでも理屈ではなく、心が諦められなかった。そんな風に自分で自分がコントロールできない事実に、生まれて初めて威軍は苦悩した。  そして、その痛みこそが人を好きになることなのだ、と知ったのだ。 「それなのに、偶然に再会してしまった」  そう呟いて威軍は頬を染める。 「ずっと、忘れようとしていたのに、その人を知れば知るほど、惹かれていくのを止められませんでした」  威軍の浮かべた自嘲的な笑みが、志津真には気になる。先ほどから、威軍は俯いたまま、志津真の方を見ようともしない。恥ずかしくて顔も上げられないのかと志津真は思うが、まるでこの場に居ないかのように扱われていた。 「…ウェイ?」 「彼が、いい人過ぎて、諦め切れなかった」  眉を軽く寄せ、泣きそうな顔をする恋人が志津真には切なかった。もっと早くこの気持ちに気付いてやればよかったと、志津真もまた後悔しているのだ。 「だから、卑怯な事をしました」 「え?」  思い当たることが無い志津真は、思わず声を出してしまった。 「どうしても欲しくて、取引を申し出ました」  自分のしたことが耐えられなかったのか、威軍は不意に志津真の首に縋って、その表情を見られないようにして、先を続ける。 「頼まれた主任職を引き受ける代わりに、付き合って欲しいと言いました」  生真面目な威軍の深刻な口調にも関わらず、志津真は口許に笑いを浮かべる。 「一緒に出張する代わりに、同じ部屋にして欲しいと言いました」  志津真は、思い詰める恋人の背中を、(いたわ)るようにポンポンと優しく叩きながら、黙って聞いていた。 「欲しかったんです、どうしても」  威軍の腕に力が込められる。それが、彼の気持ちだと思うと、志津真の胸も熱くなった。 「そんな大事な恋人がいるなんて、羨ましいな」  思い詰めた恋人を、和ませようと、志津真は冗談めかして言った。 「そやのに、こんなに不安にさせるなんて、アカン奴っちゃな」  ギュッと抱きしめると、威軍も腕に力を込めた。それだけで同じ気持ちだと分かる。 「そんなん、ただの体目当ての、スケベな中年ちゃうんか?そんな奴やめて、俺に乗り換えたらどうや?」 「いいえ。優しくて、頼りがいがあって、部下からも信頼されてて、慕われてる素晴らしい人なんです」  率直な気持ちを告げてから、改めて志津真のおふざけに威軍も同調することにした。 「それに、ベッドの中がスゴくて…」  悩ましい声で威軍が志津真の耳元に囁いた。 「体目当てなのは、私の方なんです」  そう言って、我慢できなくなった威軍はクスクスと笑ってしまい、甘い語らいはそこまでとなった。 「こんなに思われて、幸せやな」  2人は顔を見合わせ、楽しそうに声を上げて笑った。  そんな幸せを噛み締めながら、ふっと志津真の脳裏に忘れようとしていた人の声が浮かんだ。 (もっと早く、君と出会いたかった)  それは志津真も同じ気持ちだった。  けれど今なら分かる。あの人との出会いは偶然だったけれど、別れは必然だったのだ。そうでなければ、志津真が威軍に出会うことは無く、こうして幸せに愛し合うことも無かったのだから。  ただ、志津真は思う。  あの人にも、こんな風に幸せになって欲しかった、と。  そして、あの人の分まで、目の前にいる大切な恋人を幸せにしなければ、と志津真は決意を新たにするのだった。 「愛してる、郎威軍。お前だけやで…」  愛情を込めた暖かい口づけを、志津真は威軍の額に落とした。 「はい。私も、こんなに誰かを愛することが出来て、愛されて、幸せだと思います」  生真面目で、頑固で、融通の利かない気難しい子どもだった威軍は、誰かを愛するという意味が分からなかった。なのに、そのままの自分を愛してくれる相手に巡り合い、こんなにも変わった事を自分でも驚いていた。 「ずっと、愛してるから」  志津真は祈るような気持ちで、恋人の柔らかく甘い唇を塞いだ。 「ずっと、愛されててな」  音が聞こえそうなほど長い睫毛を持ち上げて、黒目勝ちのキラキラと潤んだ瞳で威軍が志津真を真っ直ぐに見詰めた。 「貴方が、恋人で良かった」  隣にある広々とした空のベッドに見向きもせず、きつく抱き合って窮屈な体勢のまま、2人は幸せを噛み締めて朝まで眠った。 明日は、貴州省の豊かな自然に囲まれたデートの予定だった。 《おしまい》

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