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第1話「饗宴」

 シャンデリアのクリスタルに反射する火が、目を刺すほど痛い。むせかえるスミレやムスクの香水と、耳障りなほど飛び交う世辞。ルネサンス様式の、等間隔に並んだ柱に支えられたドーム状の天井には、天使の天井画。この広間は教会を連想させるようでうんざりする。兄であり有名な彫刻家であるガブリエルの広い背の陰で、ダヴィッドは眉間にシワを寄せて、その美貌を歪ませていた。 「ムッシュ・ビーンスタック、後ろにいらっしゃるお方は?」  胸元が大きく開き、レースをふんだんに使ったドレスの中年女性が、口元に扇を当て、興味深そうにガブリエルの背後を見る。 「我が弟、ダヴィッド・ビーンスタックにございます、モンテクレール伯爵夫人」  紹介されて、ダヴィッドは仕方なしに会釈をする。 「まあ! 銀の髪に灰色の瞳…作曲家であるお父様の、ビーンスタック男爵によく似ていらしてよ」  父に似ているなど、蔑みの言葉に聞こえる。いつもダヴィッドをできそこないだと、青筋を立てて怒鳴りつける父。  一族はみな、真っ直ぐな長髪だ。無造作にリボンで結んだ銀の長髪は、いつも怒鳴り立てる父親に似ていて、腹いせに切り落としてしまいたくなる。だが、またすぐに伸びて元通りになるため、諦めている。  兄のガブリエルは、右目が灰色、左目が青、髪は金髪。青い目と金髪は、母親である詩人のビーンスタック男爵夫人の血を受け継いでいる。母は怒鳴らないが、いつまでもしつこくダヴィッドに対して愚痴を並べ立てる。こうして兄の背を見ていても、その長い金髪が母を連想させてダヴィッドは吐き気を覚える。  ダヴィッドはパーティーが苦手だった。人間の顔を見るのも苦手だ。古びた本だらけの図書室で、じっと本を読んでいる方がはるかにいい。たまにネズミが顔を覗かせる。痩せぎすなダヴィッドが飢えをしのぐには、そいつでちょうどいい。  顔をしかめているダヴィッドの前で、ガブリエルは周囲の人間から賞賛を受けていた。  “十九世紀に蘇ったミケランジェロ”  “稀代の天才彫刻家”  アルマン伯爵の城で、ガブリエルの彫刻のお披露目パーティーが開かれている。ガブリエルの作品、『聖騎士ローラン』を気に入ったアルマン侯爵がそれを買い取り、貴族連中に見せるために開いたパーティーだった。  もっとも、王政復古を果たしたものの各地で暴動が起き、目まぐるしく変わる体制の今では、もはや貴族とはお飾りでしかなかった。古ぼけた羊皮紙に記された家系図と、名前が刻まれた黒ずんだ真鍮板の墓碑にしがみついている風刺画でも浮かびそうだ。  ガブリエルがダヴィッドの背中を軽く叩く。 「少し庭に出るか」  テラスからは噴水が見える。上部が過剰なほど装飾された、コリント様式の柱にもたれ、ガブリエルは腕を組む。春まだ浅く、夜風は寒い。燕尾服では襟をかき合わせたところで、防寒にならない。 「ダヴィッド、お前も俗世に触れれば少しは変わると思ったんだがな」  ダヴィッドの灰色の目には、噴水の流れる水が映っていた。ただ移しているだけにすぎないその目は、ほとんどまばたきもしない。 「我々ビーンスタック家をはじめとする一族には、代々芸術家の血が流れている。お前にも然りだ」  父親のビーンスタック男爵は、作曲家として、イギリスやロシアなどにもその名声は轟いている。母親のビーンスタック男爵夫人は詩人で、印刷技術が発達した昨今、海外にも詩集が輸出されている。  ガブリエルは彫刻家、その妹のベアトリスはピアニスト、その弟マルセルは画家。それぞれ異なる才能を発揮している。  だが、末弟のダヴィッドだけは、何の才能も芽生えていない。今年で十九歳だ。今から何かを始めるには、歳を取りすぎている――というのは、普通の人間の感覚だ。 「才能に目覚めて活躍ができれば、おのずと人が集まる。このようなパーティーにでも出れば、獲物が見つかるというものだ」  シルクハットが斜めに傾いた、燕尾服のボタン穴が悲鳴を上げそうなほど恰幅のいい中年男が、グラスを片手に千鳥足で歩いてくる。酔いを覚ましにテラスに出たのだろう。  ガブリエルはその男に近づき、手を取って長身をかがめた。 「失礼、ムッシュ。あちらのベンチまでご案内いたします」  しゃっくりをしながら礼を言う男を、噴水の向こうのベンチに連れて行き、座らせた。男はまぶたが重そうで、今にも眠りそうだ。ガブリエルは男からグラスを奪うと、ベンチの背もたれ側に回る。男の後ろでしゃがむ。軽く口を開け牙をむき出し、男のうなじにその牙を当てた。  男はガクンとうなだれ、そのまま気を失った。ほんの数秒の後、ガブリエルは男から離れた。男のうなじには、小さな赤い跡が二つついていた。ガブリエルの薄い唇が動いた。人間なら、これだけ距離をおけば聞こえないその小声が、ダヴィッドには聞こえる。 「血を吸わなければ、我々ヴァンパイアは生きていけないということを忘れるな」  ビーンスタック家は代々、芸術家である以前にヴァンパイアの一族だ。ヴァンパイア同士で婚姻を結び、人間の血が交わることを許されない。  ヴァンパイアの命は、永遠ではない。ただ、人間より少し寿命が長く、歳を取りにくいだけだ。それでも数十年変わらない姿で芸術家として活動しては、人間に怪しまれる。そのため、しばらくすると身をひそめ、名を変えて親戚や息子、娘として再び世に出る。  ヴァンパイアの主食といえば生き血だ。人間と交流するため、建て前上は食物を取ることはある。ヴァンパイア一族はみな正体を隠して人間のふりをしているため、屋敷では料理人を雇って料理を作らせている。だが、人間の食物からは栄養分を取ることはできず、生き血を飲まなくては生きていけない。だが、死人が出ると騒ぎになってしまう。ヴァンパイアは、複数の人間から血を少しずつ飲む。吸われた人間はしばらく気を失い、虫に刺されたか何かぐらいにしか思わない。 「ダヴィッド、お前も飲め」  ガブリエルは口元をポケットチーフでぬぐうと、ダヴィッドを呼んだ。だが、噴水しか移さない灰色の瞳は、人間の男を一瞥もせず、相変わらず水の流れしか移さない。地下水の水を映して光る、鍾乳石の冷たさしかない。 「いりません。今日は敷地内のキジを撃ち、その血を飲みました」  ヴァンパイアは嗅覚、聴覚、視覚、身体能力が人間よりはるかに優れている。ダヴィッドは早朝、ビーンスタック家の敷地の森にライフルを持って出かけた。直接日光が目に入ることがないよう、帽子を深くかぶり、体にも日光を浴びないようマントを身につけ、森に入った。  ゆっくりと弟の元に歩み寄ったガブリエルは、先ほどと同じように背中を軽く叩いた。 「人間の血の方が数倍は美味だというのに…。お前の味覚障害が何とかなればな」  ダヴィッドには味覚がなかった。元々なかったわけではないが、両親や兄たちから芸術の手解きを受けるたびに、心の中には虚無が広がり、あらゆる感動や感覚もダヴィッドから奪っていった。絵画を見ても音楽を聞いても苦痛でしかなく、ついにはその苦痛さえもなくなり、何も思わなくなった。  人間の血も動物も違わない、味覚まで奪われたダヴィッドは、そう感じてしまう。こうして早春の夜風にさらされても、ダヴィッドはあまり寒さを感じない。  《この、できそこないが! ベアトリスは曲を一度聞いただけで覚えて、完璧にピアノを弾きこなせるというのに》  《ダヴィッド、本ばかり読まないで何かご自分でも創作をなさいな。まったくこの子は、ただ文字を追うだけで何の感動も持たないなんて》  ビーンスタック家の図書室の蔵書は、国立図書館とまではいかないが、個人が所有する量とは思えない数だ。ダヴィッドは四六時中、図書室にこもっている。別に本が好きなのではない。文字を追っていると、面倒な一日が過ぎてくれるからだ。  叱責を受けたのは、両親からだけではない。  《ガブリエルお兄様、ダヴィッドってば、ピアノの前に座らせても、ただじっと座っているだけですのよ。不機嫌な顔で。あれならば人形でも座らせた方がマシですわ》  《何か描いてごらん、と木炭を持たせても、じっと木炭を見つめているだけなんです。ダヴィッドよりも兄上の彫刻像の方が、はるかに生き生きとしてますよ》  ベアトリスもマルセルも、何もしようとしないダヴィッドに愛想をつかしてしまい、匙を投げた。今やダヴィッドは、ビーンスタック家においてただの人形同然だ。

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