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第2話「邂逅」

 家族から疎まれていることが、ダヴィッドから居場所までをも奪う結果になった。乾いた心で毎日図書室にこもる。文字を追い、時間が過ぎるのを待つ。ネズミが出ると、捕まえて血を吸う。明け方になれば、部屋に戻って眠る。元来、ヴァンパイアは夜に活動するのだが、一族はみな、芸術家としての務めがあるため、昼間に活動する。日光が直接当たると灰になって死んでしまうため、帽子や日傘を使い、手袋や外套で体を覆う。  ダヴィッドは何の活動もしないため、日没とともに起き、夜明け前に眠る。ヴァンパイアらしいのはそこだけだと、一族の者はダヴィッドを蔑み笑う。  しかし、ガブリエルだけは違った。何の感覚も持たない末弟を心配し、こうしてパーティーに誘うこともあった。人間の血にありつける上に、交流による刺激で何か芸術的センスが開花するかもしれない。だが、ダヴィッドは人間に興味を持たず、人間の血を飲もうとはしない。動物の血で飢えをしのいでいれば、それだけでいいのだ。  ガブリエルはダヴィッドの背中を押し、テラスから広間へと戻った。シャンデリアの明かりがまぶしく、灰色の目が細められた。 「ガブリエル! どこにいたんだね。まったく、今日の主役は引っ張りだこだから、なかなか話ができないね」 「申し訳ございません、アルマン伯爵」  ガブリエルが、胸に手を当ててお辞儀をする。紋章の刺繍が入ったマントを羽織った大柄な初老のアルマン伯爵は、上機嫌で口髭を持ち上げんばかりの笑顔を見せた。  ガブリエルと話が弾むアルマン伯爵の後ろで、栗色の巻き毛の青年が静かにたたずんでいる。緩やかな巻き毛は襟足で切りそろえられ、鳶色の瞳はおくゆかしそうに伏せられ、濃い緑のフロックコートを羽織っている。伯爵の跡取り息子ではない。執事にしては若すぎる。フットマンかもしれないが、公の席で主のすぐそばに控えることはない。それに、コートもお仕着せには見えない、高価なものだ。  青年は、ダヴィッドと目が合った。ただのガラス玉のように物事を映すだけだったはずの灰色の瞳が、かすかに揺らいだ。凍っていた氷が、春の陽で溶け出す、そんな瞬間だ。青年が会釈をする。そのはにかんだ笑顔が、いつまでも胸に焼きついてしまう。産まれて初めての衝撃に、ダヴィッドは戸惑っていた。瞳は煙水晶に似て、落ち着いた透明感を持つ。面長だが、白桃を思わせる薄紅がさした頬。唇は薄く儚げな印象を持つが、どこか凛とした雰囲気を出すのは、きりりと線の美しい眉が全体を引き締めているからだろうか。  食事が用意されたテーブルに、アルマン伯爵とガブリエルが移動する。それについて、ダヴィッドと青年も移動する。 「地中海の料理はどうかね」  “いただきます”というガブリエルの返事を聞き、青年が皿にオリーブやトマトや牛肉を乗せる。その手つきも美しい。ダヴィッドは料理にではなく、サーヴァーを持つ手に釘づけになっていた。それをガブリエルに渡すと、もう一つ皿を手に取った。ダヴィッドの方を向いて、にっこり笑う。  心臓に杭が刺さったような衝撃に足元がふらつきそうになったが、何とかこらえると片手を挙げて断った。青年は笑顔のまま、皿を元に戻す。  ずっと、ダヴィッドは青年を見つめたままだった。本来ならば、不躾だと思われるくどい視線に、青年はにっこり笑って答えてくれる。  何度目か目が合ったときに、ダヴィッドは首を傾け、顎で“外に出よう”と合図する。先に歩き出すダヴィッドについて、青年も歩き出した。  テラスに出た。ゆっくりと歩を進める。テラスから遠ざかるにつれて明かりがなくなる。ダヴィッドにとっては、落ち着ける空間だ。ガブリエルに血を吸われた男は、赤ら顔のままベンチで眠っている。ダヴィッドの灰色の目が、噴水をとらえた。水の流れを反射して、研いだばかりの刃のように輝いている。後ろの青年を振り向いたダヴィッドが尋ねた。 「私はダヴィッド・ビーンスタック。お前の名は?」 「私は、モリス・ド・アルマンと申します。アルマン伯爵の養子にございます」  ダヴィッドは目を見開いた。アルマン伯爵に養子がいたとは聞いていない。侯爵には、今年で三十歳になる跡継ぎの息子がいる。 「…伯爵に養子とは初耳だ…。申し訳ございません。無礼をはたらきました」  ダヴィッドは胸に手を当て、口のきき方を詫びた。ビーンスタック家は男爵の爵位を持つ。伯爵家よりは格下だ。 「いえ、そんな――私はダヴィッド様のように由緒正しい産まれではなく、元々は平民の出なのです」  それも驚きだ。いくら昔ほど貴族が社交界でも幅をきかせなくなったとはいえ、家名を重んじるものだ。跡取りがいるのに、わざわざ平民を養子にする理由がわからない。 「差し支えなければ、アルマン伯爵の養子になった経緯を教えてくれないか」  今まで何に対しても興味を持たなかった空虚なヴァンパイアは、鳶色の瞳の青年に出会って生まれ変わった。理由はわからなかったが、ダヴィッドはモリスをもっと知りたくなった。血が欲しい、それ以上に何か惹きつけるものがあった。 「父は私が産まれてすぐに亡くなりました。十四歳で私は母も病気で亡くし、パリの街で靴磨きをして日銭を稼いでおりました。そのとき、伯爵様が偶然お客様としていらっしゃったのです」  モリスを一目見て気に入った伯爵は、そのままモリスを連れ帰って養子にした。 「伯爵様は私に家庭教師をつけてくださり、一般教養や礼儀作法を学ばせていただきました。今の生活があるのは、伯爵様のおかげです」  そこまで話し、モリスは目を伏せた。どこか悲しげに見えるその表情は、軽くウェーブがかかった栗色の髪まで、色あせてしまいそうだ。とても今の生活に満足しているようには見えない。 「アルマン伯爵に、何かをされたのだな」  心の中を察したダヴィッドが尋ねる。モリスはうたた寝から覚めた猫のように、ハッとダヴィッドを見上げた。 「あ…、その…」  モリスが言葉にしづらそうに顔を背ける。否定はしない。ダヴィッドはすべて悟った。アルマン伯爵は美少年だったモリスを、夜伽のために引き取ったのだ。養子、ということにすれば、四六時中ともにいても怪しまれない。 「モリス、お前はそれでいいのか? 今はいくつだ」 「十八…です」  四年もの間、年老いた男に抱かれてきたのだ。着る物や食べる物に不自由なく、教養まで身につけてくれた恩として、体を差し出す。  モリスの目から、涙が頬に伝い落ちる。灰色の目は、その涙を映す。鍾乳石に映る地下水ではない、春の雪解け水を迎える小川のように優しかった。 「は…伯爵様だけではないのです…」  誰にも言えなかった胸の内を、なぜか初めて会ったこの銀髪の青年には話せる。 「貴族の権力がほとんど廃れてきている昨今、それでもアルマン伯爵は貴族同士の繋がりを大切にされております」  家を守るための政略結婚が多い。貴族はみな、親が決めた相手と結婚をする。 「私は特に、伯爵様より爵位が上の――侯爵家に貢ぎ物として献上されます」  ダヴィッドの腕に鳥肌が立った。モリスはアルマン伯爵だけでなく、侯爵連中に食い物にされている。侯爵家との友好関係を保つための、いわば調印なのだ。 「モリス、お前はそれが嫌なんだな」  モリスは答えない。伯爵に世話になっている以上、拒否はできない。常に笑顔でいろと命じられている。  ダヴィッドの腹のうちに、何か煮えたぎるものがある。いくら家族や親類に馬鹿にされ、無視されてもわかなかった感情が今、アルマン伯爵に対してわき起こっている。 「何も言わなくても、その涙が答えだ」  ダヴィッドは考えるよりも先に、モリスの頬を両手で包んだ。ヴァンパイアは体温が低い。モリスがその指先の冷たさに驚いて身をすくめた。  ダヴィッドの唇が頬に触れ、涙を吸い取る。自分でも、初対面の人間になぜそうしたのかわからない。けれど、涙を舐めてみたい衝動にかられた。ダヴィッドの唇が震える。 (甘い――)

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