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第3話「略奪」

 涙は塩辛いものではなかったか。反対側の頬にも唇を寄せる。頬を伝う涙は、やはり甘い。その味をいつまでも味わいたくて、ダヴィッドは頬に舌を這わせた。 「あっ…」  くすぐったさに身をよじるモリスを、ダヴィッドが抱きしめる。ダヴィッドがうつむくと、鬢の辺りの髪が一房落ち、モリスの巻き毛を撫でる。顎の下に、モリスの頭頂部が当たる。息を大きく吸うと、蜂蜜に似た甘い香りがした。  不思議な感覚だった。今まで何を味わっても味覚はせず、匂いにしても呼吸をするのに邪魔なだけで、心地よい香りというものに出会ったことはなかった。  モリスの手を取り、ダヴィッドは指先に唇を当てた。そのまま噛みつきたい。牙を立てて、その甘いだろう血液を飲み干したい。さらには、肉まで食らいつきたい。  しかしダヴィッドはその衝動を抑え、モリスの両肩に手を置き、鳶色の瞳を覗いた。 「お前は今日、死んだことにする」 「…えっ?」  意味がわからず目を丸くするモリスに、“ここで待っていろ”と伝えると、広間に入っていった。 「兄上」  グラスを持ったガブリエルが振り返る。 「どうした、ダヴィッド」 「気分がすぐれませんので、先に帰ります」  ガブリエルは長い金髪をかき上げ、小さくため息をついた。パーティーの途中で、ダヴィッドが帰ると言い出すことは珍しくない。 「わかった。馬車は」 「いえ、跳んで帰ります」  ヴァンパイアは跳躍力に優れている。鳥のように飛ぶのは無理だが、屋根から屋根、木から木へと跳躍しながら早く移動ができる。さらに視力も優れていて、灯りがなくても迷うことがない。 「そうか。人間に見つからないようにな」  ダヴィッドは一礼をするとテラスから庭に出て、少し離れた木の陰で待っていたモリスを抱きしめる。 「しっかり私につかまっていろ」  モリスの手が背に回り、強くつかむのを確認してから、ダヴィッドは地面を蹴って勢いよく跳んだ。 「ひっ…!」  いきなりのことでモリスが驚く。屋根や木の高さまで体が舞い上がる恐怖に、黒い絹にシワが残るほどモリスが必死にしがみつく。  噴水のある中庭から、城の屋根を蹴り東屋、馬屋の屋根を伝い、城を囲む堀へと来た。 「すまないが、ここで待っていてくれ」  ダヴィッドは堀を渡る橋にモリスを置いて、地面を蹴った。城門を跳び越え、城の外に出た。木から木へ、屋根から屋根へ跳び移り、ガス灯がきらめく小さな街についた。夜遅くまで酒場が賑わっている。夜風が冷たい、この気温にも関わらず壁にもたれて座りこんで、眠っている男がいる。  ちょうど、モリスと同じような髪色だ。若い男で、体格差もごまかせる範囲だ。男の前にひざまずくと、ダヴィッドは首筋に牙を刺した。傷口から玉のように赤い鮮血がぷっくりと盛り上がる。首筋に食らいついた。何年ぶりだろうか、人間の血は。だが、甘くも何ともなく、うまいとも思わなかった。モリスが特別なのだろうか。しばらく血を吸い続けると、赤かった男の顔はみるみる青くなり、痙攣をし始めた。しばらく震えた後、ぐったりして動かなくなる。ダヴィッドは懐からナイフを出した。この男は髪が長い。モリスと同じ長さ、襟足あたりで髪を切り落とす。男の死体を担ぐと、また屋根伝いに城を目指した。  橋の上で、モリスが空を見上げる。大きなカラスが飛んだのかと、錯覚するような葉ずれの音。風を切り、屋根を走り、ダヴィッドが何かを担いで来るのが見える。  ダヴィッドはモリスのいる場所につくと、死体を橋の上に寝かせ、服を脱がせ始めた。 「寒いかもしれないが、この服に着替えろ。お前の服をこいつに着せる」  モリスはそばでガタガタと震えていた。 「そ…その方は…な、亡くなっているのですか…」 「説明は後だ。こいつをお前に見せかけて、堀に沈める」  モリスは腰が抜けて、尻餅をついてしまった。 「ひいっ…! ま、まさかダヴィッド様…あなたが…」  ダヴィッドは死体を丸裸にし、服をモリスに渡す。 「お前がここから逃げるには、こうするのが都合いいんだ。どのみち、この男は死にかけていた」  それは真っ赤な嘘だが、モリスを大人しく着替えさせるには、そう言うしかない。  死人で青ざめているものの、外傷は無く遺体はきれいだ。モリスは服を脱ぐと、急いで男の服を着る。ダヴィッドがモリスの服を男に着せ、濃い緑のフロックコートまで着せてボタンを止めた。 「向こうを向いていろ。こいつを沈めるまで、こっちを見るな」  モリスは震えながら、後ろを向いた。ダヴィッドが大きめの石で顔を殴る。鼻の骨が砕ける音がした。目がくぼみ、口が裂ける。何度か石をぶつけると、顔の判別がつかなくなった。これで瞳の色はわからない。男はずっと目を閉じていたため、何色の瞳かわからないが、青や緑だと別人とわかってしまう。モリスと見せかけて堀に沈めるには、残酷だがこうするしかない。  ダヴィッドは死体を担ぎ上げて、橋から放り投げた。ドプン、と鈍く重い音がして、死体は暗い水の底に沈んだ。そのうち死体は浮かび上がり、誰かに発見されるだろう。そして、モリスは堀に落ちて死んだ、ということになる。  モリスはアルマン伯爵の元から、自由放免となった。  ダヴィッドはモリスを抱きしめ、跳躍する。夜明けまでにはまだまだ時間はある。モリスをかくまうのに、打ってつけの場所があった。 「あ…あなたは何者なんですか」  高さに震え、しがみつきながらモリスが尋ねる。この跳躍力は、並みの人間ではない。冷たいほどの美貌でさえ、人間離れしているように思える。 「私はヴァンパイアだ」  噂でしか聞いたことのない名前に、モリスはさらに震え上がる。 「では…私は…どうなるのですか」  頬を切りそうな夜風にさらされ、不安げに尋ねるモリスに、ダヴィッドは跳躍を続けながら微笑む。 「安心しろ。殺しはしない。仲間にもしない」  物心ついたときから、ほとんど笑った記憶がない。少し強張るものの、その笑みはモリスを安心させるのに充分だった。 「ではなぜ、私をあの城から出してくださったのですか」  ダヴィッドが着地する。アルマン伯爵の城から南へ遠く離れた、村外れの林に囲まれた屋敷だ。林の中からは、夜行性の鳥の鳴き声がする。 「ほんの少しだけ、血をわけてほしい。命を奪うほどは飲まない」  錆びついた鉄の門を開ける。きしむ音がして、蝶番の間から鉄錆の粉が落ちる。アーチには枯れた蔓草と、枯れ葉のくずだらけのクモの巣が絡んでいた。膝まで伸びた雑草も枯れ、歩くたびに乾いた音がする。何を植えていたのか見当もつかないほど荒れた花壇。中央の噴水は水が枯れ、苔で覆われている。ただ、セイヨウミザクラの木だけは、その節くれ立った枝に咲きかけの蕾をふくらませている。まっすぐ歩くと、取っ手を何重もの鎖で巻かれた両開きの扉があった。重い鎖を外し、ダヴィッドは静かにドアを開ける。後からモリスもついてきた。  鉄格子のはまった窓は全てカーテンがかけられ、明かり取りの小窓も無い。中は真っ暗闇だ。ほこりとかびの匂いで、中もまったく手入れされていないことがわかる。  暗闇でもヴァンパイアの目は、迷わず蹴つまずくこともなく歩いていく。ついた所は玄関からすぐの小部屋。執事などが来客に備えて控えている部屋で、ここならノッカーの音が聞こえる。机の引き出しを開ける音、火打ち石をぶつける音。金属の皿に乗せられた藁に、火が移る。ダヴィッドがその火をロウソクに移す。今はマッチがあるのだが、この屋敷が使われていた時代には、火打ち石しかない。黄色い光がその場を照らす。ダヴィッドは小さな燭台にロウソクを挿し、それをモリスに渡す。ダヴィッドが先に立ち、緩やかなカーブを描く階段を上がっていく。 「ここはビーンスタック家が昔、拠点としていた屋敷だ。ヴァンパイアは寿命が長い。ある程度活動した後身をひそめ、しばらくすると住居や名前を変えてまた世に出る。そうしないと、人間に怪しまれるからな」  長い階段を上がり、モリスは燭台で辺りを照らした。同じようなドアばかり。部屋がいくつも並んでいる。 「今の屋敷に移る前に使っていた屋敷だ。数十年後に使う可能性があるから、処分せずに放置しているが、今は誰も来ない。私とモリスは、ここで暮らす」  ドアを開けると、そこは寝室だった。やはりカーテンがかかっていて月明かりも差しこまない窓、天蓋つきのベッド。ソファーにローチェスト、書き物用の小さなデスクにスツール。  ビーンスタック家がこの屋敷を使っていたのはガブリエルも産まれる前で、両親から屋敷のことを聞いたガブリエルに、一度だけ連れてきてもらったことがある。一族の思い出が何もないこの屋敷は、ダヴィッドにとって住みやすい。

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