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第4話「甘美」
天井の隅やテーブルの脚の間など、ほこりだらけのクモの巣が張り巡らされている。その巣の主が息絶えてから何年たっただろうか、屋敷は人が住める状態ではなくなっていた。
一階、玄関ホールの奥に広間がある。広間の向かって左側は居間、応接間、ピアノ室になっている。居間からは庭へと続くテラスに出られる。広間の右側には食堂、喫煙室がある。食堂の奥は、渡り廊下になっている。ほこりをかぶった絵画と、錆びた壁掛け燭台が交互に並ぶそこを通ると厨房だ。その地下には貯蔵庫や使用人の部屋があった。
二階には寝室のほかに、客間や書斎や衣裳部屋などがある。
「私の食事はいらないから、モリスが自分の分だけ用意するといい。村に出れば、食べ物が買えるだろう。金は、この屋敷の調度品を売ればいい。絵画や壺、飾り物の甲冑などがある」
十八世紀のロココの調度品や宝石などが多いが、中には先代から引き継いだバロック時代の美術品まである。再びビーンスタック家がここを使うころには、その時代の物をそろえるだろう。一族には不要な物ばかりだった。
部屋を案内しながら、ダヴィッドは調度品の場所も教える。
「化粧用のドレッサーなども私たちには不要だ。売るといい。衣類はさっき案内した衣装部屋に、父が昔に着ていた服があるが、デザインが古臭い。村か街で買うのを勧める。…ああ、それとこの屋敷は古い時代のものだから、マッチが無い。それも村で買うといい」
モリスは部屋じゅうを見回す。アルマン伯爵の城よりも規模は劣るが、美術品は収集家にとっては垂涎ものだ。
「何だか…ダヴィッド様の許可があっても、申し訳ないような気がします」
寝室に戻ったダヴィッドは、天蓋つきのベッドのカーテンを開けた。ほこりが宙に舞う。湿っぽいベッドカバーを外し、無造作に丸める。
「気にするな。そうでもしないと、お前は生きていけないだろう。その代わり、代償として私はお前の血を毎日わけてもらう」
「では、ダヴィッド様」
ダヴィッドからベッドカバーを受け取ったモリスはそれを丁寧にたたみ、枕を整える。
「私がこの屋敷の掃除や、庭の手入れなどをします。それに、私の血をダヴィッド様に捧げます。それならば、報酬として調度品をいただきますから」
うなずいたダヴィッドはジャケットを脱ぎ、ベッドに横たわり、モリスの方を向く。
「一つ約束してくれ」
「はい、何でしょう」
「窓は開けないでほしい。直接日光を浴びると、灰になってしまうのだ」
ヴァンパイアに日光は厳禁だ。ビーンスタック家でも使用人に、家族は代々日光に弱い体質だと伝えて、分厚いカーテンを窓にかけさせている。
「かしこまりました。ほかに禁じられていることはありますか?」
「特にない。ヴァンパイアは病気をしない。怪我は手足を切り落としたり、内臓まで損傷するようなものでなければ、即座に治る。ほとんどのヴァンパイアは、老衰で亡くなる。日光だけが駄目なのだ」
人間たちの間で伝わるような、銀の弾丸も十字架も苦手ではない。聖水なども科学的にはただの水であり、ヴァンパイアには害は無い。特に難しい条件もなく、モリスは安心する。
「モリスは好きな部屋で休むといい」
「はい。では、隣の寝室を使わせていただきます。ご用があれば、すぐに呼んでください」
「モリス、待ってくれ」
ダヴィッドは起き上がり、モリスの腕を取る。その腕を引っ張り、ベッドに腰かけさせると栗色の巻き毛を撫で、うなじに手を当てた。そのまま首を引き寄せ、モリスに唇を重ねる。少し唇を開けると、舌を侵入させた。甘い。今まで味わったことのない甘さだ。舌がとろけそうで、そのままモリスに支配されても構わない、そう思えるほど甘美で中毒性がある。
鋭い牙が、モリスの舌の端に当たる。
「うっ…!」
モリスが眉をしかめ、うめき声を上げた。それでもダヴィッドから離れようとしない。新たな主の望みだから、だろうか。
傷は深くない。唾液に血が混じり、それをダヴィッドが自分の舌に乗せる。ザクロのシロップ。まだ味覚があった遠い昔に、食べた記憶がある。だが、それがどういったものか、はっきりと思い出せない。いくらでも飲みたくなる味だ。貪欲な舌は、美味な蜜に吸いつく。足りない。まだ血が足りない。別の場所にも牙を立てようとして、ダヴィッドは気づく。人間は、回復が遅い。あまりにも血を吸いすぎると、モリスを死なせてしまう。名残惜しそうに唇を離すと、甘味を忘れまいとするかのようにモリスを抱きしめた。
「傷口からばい菌が入らないよう、口をすすいで眠るといい。井戸の水は使えるはずだ」
「はい、ダヴィッド様」
蜂蜜に似た甘い香りをかいで心を落ち着けようとするが、一度覚えた甘い蜜は、体中を苛む。もっと血を飲みたい衝動にかられてしまう。その気持ちを無理やりに鎮め、ダヴィッドは体を離した。
「…ありがとう、お休み」
「はい、お休みなさいませ」
モリスが部屋を出ると、ダヴィッドは再びベッドに寝ころんだ。
外は夜が明けようとしていた。兄や家族には何も言わずにいるが、誰も心配はしないだろう。ただ、兄だけは様子を見にくるかもしれない。もしや、様子を見るだけではなく、モリスを引き離すのでは――ダヴィッドはそんな予感に胸騒ぎがして、まんじりともしなかった。
結局、ダヴィッドはほとんど眠ることなくほぼ半日をベッドで過ごし、日はもう沈もうとしている。不思議と気だるさはない。モリスと、モリスに見せかけるために殺した男の血のおかげだろうか。シャツとズボンを身につけ、上着を着ずにブーツを履くと寝室を出た。
「こんにちは…いえ、おはようございます、ですね」
手すりから下を見下ろすと、モリスが大荷物を運んでいる。
「村で調度品と食料を交換してきました。今から厨房をお掃除します。後でダヴィッド様の寝室もお掃除しますね」
「ああ、頼む。私は書斎にいる」
現在のビーンスタック家にある図書室ほど大きくはないが、この屋敷には父親や祖父が使っていた書斎がある。
ほこりだらけの飴色の机には、羽根ペンとインクの壺、燭台、鉄製の丸いペーパーウェイトがあった。壺のインクは、もう乾いているだろう。
いくつもある書架は文学、歴史書、伝記、といったふうにきちんと分類されているが、やはりほこりまみれだ。
適当に書架から本を一冊手に取る。革表紙の分厚い本は、歴史書だった。色褪せたゴブラン織りの布が張られた椅子に座る。ダヴィッドは灰色の目で文字を追った。とりわけ面白い内容ではないが、ただ文字を追うことで時間が過ぎればいいのだ。
少しの間そうしていたが、モリスが気になって本を閉じた。いや、正しくはモリスの血が欲しくなったのだ。
ダヴィッドは階段を下りた。思わず目を細めてしまう。シャンデリアが煌々と輝いていた。モリスが掃除をしたのだ。
厨房を覗くと、きれいに磨かれた水瓶は水で満たされていて、かまども調理台もほこりどころか油汚れなどもない。
モリスは、ダヴィッドの寝室も掃除をすると言っていた。階段を上り寝室を見ると、モリスがシーツを替えていた。
「ダヴィッド様、リネン室にカーテンやシーツなどがありましたので、替えておきました」
見るとカーテンも取り替えられている。さっきまでのほこりを被ったかび臭いカーテンではない。使用人はよほど丁寧に洗濯をしていたのだろう。
「モリス」
返事を聞く前に、ダヴィッドは細い体を抱きしめていた。蜂蜜に似た匂い。かつては呼吸をするのに邪魔でしかなかった匂いというものが、ダヴィッドの中で甘く優しく広がっていく。
ダヴィッドはモリスの首筋に唇を這わせた。
「…あ…」
小さな声に合わせて小さく震える喉元に惹かれ、喉仏の辺りに舌を当て、その舌を小刻みに蠢かせる。
「んっ…ダヴィッド…様…」
シャツにしがみつくモリスの手が震えているが、恐怖を感じているというよりは恍惚の表情を浮かべている。ダヴィッドは動脈の無い辺りに牙を立て、一口分の血を飲んだ。甘美なザクロのシロップが、口いっぱいに広がる。
もっと味わいたい。もっと噛みつきたい。ダヴィッドはもう一度大きく口を開けるが、思い止まった。
ダヴィッドは顔を背け、何の感情も持たないふうに冷たく言った。
「ここはもういい。部屋で休め」
そう冷たくあしらわないと、また抱きしめて血を飲みたい気持ちがわき起こってしまう。
冷たい指先で喉の傷口をしっかり押さえる。少しふらついたモリスだが、顔色に異常はない。
「はい、お休みなさいませ。明日から、庭の手入れをいたしますね」
庭など眺めることがないダヴィッドにはどうでもよかったが、モリスが日がな一日することが無ければ気の毒だ。庭仕事はいい気晴らしになるだろう。それに、モリスが手がけた庭ならば見てみたい気もした。部屋を出るモリスを見守るダヴィッドの口元は、自然に笑みの形になっていた。
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