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第5話「魔性」
数日後、庭の雑草はすべて取り除かれた。門の錆を落とし、大理石の噴水を磨く。痩せた土を耕して灰をまく。
日が傾いてセイヨウミザクラの影が伸びてきた。暗くなるため、モリスは今日の作業を終えることにした。体中の土を払い井戸水で手を洗い、テラスから居間に入った。
「ダヴィッド様、おはようございます」
まだ日が沈むには少し時間はあるが、ダヴィッドは珍しく居間で本を読んでいた。
本を閉じ、ダヴィッドが微笑む。
「日が沈んでから、お前が手入れした庭を見ようと思って」
「まだ何も植えていませんよ。雑草がなくなっただけです」
モリスも微笑み返すと、着替えをするために居間を通り抜けようとした。
「待ってくれ、モリス」
ダヴィッドはモリスの手首をつかみ、そのままソファーまで引っ張る。モリスの体は自然とダヴィッドの隣に座る形になる。つかんだ手は離さない。そのまま唇に近づけ、指の一本一本にキスをする。
「ダヴィッド様…」
頬を染め、モリスはなすがままにダヴィッドのキスを受ける。
「どうぞ、私の血を」
モリスの微笑みが嬉しい。ダヴィッドはモリスに見惚れていた。今までこんなに優しく微笑まれた記憶は、母親にすらなかった。そのためダヴィッドは気づかない。モリスの顔色がよくないことに。
薄い唇から覗いた白い牙が、ほんの少しモリスの右の人差し指に刺さる。すぐに鮮血がにじみ出て、艶やかな赤瑪瑙の玉となって指の表面に現れた。
その玉を口に含む。暗い色をしていた唇は、血色を取り戻す。甘いシロップをいつまでも舐める子供は、叱る親がいなければ瓶ごと食べてしまう、そんなふうにダヴィッドはいつまでも唇を離さない。離さないどころか、モリスの人差し指をくわえる。牙を立てて肉をむさぼりたい気持ちが、体の底からわいてくる。血がシロップに似ているならば、肉はザクロの果肉だろうか。
指を甘噛みしていた歯に、徐々に力が入る。このままでは、指を食いちぎってしまう。わかっていても、この甘さには誘惑される。
ダヴィッドの肩に、モリスの額がぶつかった。舌でザクロを味わっているところへ、髪からの蜂蜜の香りが混じる。めまいを起こしそうになったダヴィッドは気づいた。モリスの様子がおかしい。くわえていた指を離し、モリスの両肩に手を置いて体を離したが、モリスの首はうなだれたまま。まるで力が入っていない。
「モリス!」
青ざめたモリスは、気を失っていた。
ダヴィッドの寝室の隣、モリスの寝室で、蝋のように青白く生気のないモリスがベッドの上で身じろぐ。薄くまぶたが開く。潤んだ鳶色の瞳が、ダヴィッドの顔をとらえた。
「私…どうしてベッドに…」
スツールに腰掛けていたダヴィッドは、モリスの手を握る。モリスの人差し指には、包帯が巻かれていた。
「すまない、私が血を飲み過ぎた」
青白い顔のモリスが、ゆっくり起き上がる。
「もう少し、私が栄養を取らねばなりませんね」
弱々しく微笑まれても、ダヴィッドには笑みを返すことができない。やはり、人間とヴァンパイアは共存が無理なのか。獲物が何人もいないと、人を殺めてしまうのか。
例え何人もの人間がいたとして、モリスのように狂おしいほど甘く美味な血に出会えるだろうか。
青白い顔を見ても体調のことを考えず、血を飲みたい衝動がわいてくるのを恐れ、ダヴィッドは寝室を出た。
深夜。細い月と小さな星々がわずかに光る。モリスが磨き、油を差したおかげで開閉に手間取らなくなった門を開け、ダヴィッドは林を目指す。
フクロウが鳴く。野ネズミかイタチだろうか、カサカサと葉を鳴らす音も聞こえる。その音に向かい、ダヴィッドは音も立てず疾走する。鋭い爪を立て、草むらにいるものをつかんだ。イタチだった。首筋辺りに刺さった爪は、獲物の動きを止めた。痙攣を起こしたイタチをつかみ上げ、爪を抜いて傷口から血を吸った。
飢えはしのげる。だが、満たされない。味がしないのだ。獲物の血をすべて飲みつくした。今までなら、これで満足だった。息絶えた獲物を無造作に投げ捨てると、ダヴィッドは林の奥に消えた。
もう血などいらない、そのぐらい動物たちの血を飲みつくせば、モリスへの衝動が消えると思ったダヴィッドは、夜通し狩りを続けた。月が沈むころには、マントもシャツも泥と血まみれだった。ダヴィッドは叫んだ。それでも苛立ちは残り、モリスの姿ばかりを思いえがいてしまう。明け方近くまで、林には叫び声がこだましていた。
数日間、ダヴィッドは寝室から出なくなった。ベッドでブランケットを被り、ガタガタ震えて一日中を過ごす。モリスが手を差し伸べても、その手を取れない。モリスはすっかり回復したが、また血を飲み過ぎてしまう恐れから、手を出せなくなってしまった。
ドアをノックする音が聞こえる。
「ダヴィッド様」
寝室に入ってきたモリスは、銀の盆を持っていた。盆の上には、焼いた豚の腸詰めの皿が乗っている。
「あなたがお料理を召し上がらないのは存じておりますが、少しでも血の代わりになるかと…」
モリスはサイドテーブルに皿を置く。起き上がったダヴィッドはしばらく皿を見つめていたが、顔を手で覆い、首を横に振った。
「駄目だ…生き血でなければ…。それに、人間の食べ物は、ヴァンパイアにとって何の栄養にもならない」
パーティーなどで付き合いとして物を食べるヴァンパイアには、たとえ動物の血液を使った料理を食べたところで、渇きを癒せない。ましてや、腸詰めなら火が通ってしまっていて、生き血の代わりにはならない。
「では、私の血を飲んでください。私なら大丈夫です」
モリスがベッドに腰かけ、袖をまくって腕を差し出す。手を伸ばしたダヴィッドだが、背中を丸めてうずくまってしまった。
「…飲めない…! 自分に制御がきかなくなって、またお前を危ない目に合わせてしまう…!」
「ダヴィッド様」
モリスの温かい腕が、ダヴィッドの震える背中を包んで抱きしめた。
「ならば…血の代わりになるかどうかわかりませんが、私の体であなたを癒やしてさしあげます」
ブーツを脱ぎ、シャツのボタンを外す。その仕草がなまめかしくて、灰色の目は釘づけになってしまった。サッシュベルトを外す衣擦れの音で、心臓が跳ねてしまう。肩からシャツがすべり落ちると、ダヴィッドの唾を飲みこむ音がやけに大きく響いて、ダヴィッドは恥ずかしそうに顔を背ける。
ズボンを下着ごと脱いだモリスは、ダヴィッドの頬を両手で支えて上向かせた。
一糸まとわぬ姿のモリスがまぶしくて、ダヴィッドは目を細める。白い肌はダヴィッドのように青白いものではなく、温かいミルクを思わせる色だ。香りも味も甘いモリスには、よく似合う色だった。
ダヴィッドの唇に、モリスがキスをする。何度か唇が触れるだけのキスをした後、モリスが舌を入れてきた。その甘くとろける味は、噛み砕いてしまいたくなるほど美味だ。舌に絡んでは口の中を暴れ、焦らすように引く。そんなお転婆な動きをするのが可愛く思えて、ダヴィッドもそれに答えて舌を動かす。
甘い唾液に酔う。舌を絡ませると、美味な蜜にありつける。甘い味を求めるための舌の動きが、徐々にエロティックさを増してきた。舌先でモリスの舌をくすぐり、歯をなぞる。
息が徐々に荒くなる。互いの気持ちが高ぶる。モリスがダヴィッドの股間を柔らかく握った。
「うっ…!」
初めて他人に触れられ、ダヴィッドはすぐに反応した。温かい……。生き血で飢えを満たすのとは違う、この充足感の正体がわからないまま、ダヴィッドはあお向けになった。
モリスにされるがままに、ダヴィッドも全裸になった。青白い肌は陶器にも似ていて冷たい。その青白い肌の上に、モリスのミルク色の肌が重なる。
「ダヴィッド様、そのままじっとしていてくださいね」
モリスは体をずらし、半勃ちになっているダヴィッドの中心を口に含んだ。
「な…何を…モリス…!」
柔らかに蠢く舌と、ほどよく締まる唇、淫靡に絡まる指に翻弄され、ダヴィッドは大きく勃ち上がった。生理現象として勃起することはあったが、ダヴィッドはそれを処理することはなかった。虚ろな心は感動も味覚もダヴィッドから奪ったが、性欲も奪われていた。
ダヴィッドは、股間にあるモリスの顔を見下ろす。あの儚く清純な表情ではなく、恍惚の表情を浮かべた小悪魔だった。そんな魔性をはらんだモリスは、時折ダヴィッドを見上げながら赤い舌を出す。それはザクロの赤い実を思わせる。男を惑わす、赤い実――
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