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あなたの番(つがい)でした
きっかけは一冊の推理小説。
たまたま訪れた本屋で、新刊を手に取ろうとした。重なり合う骨ばった手のひら。
見上げると、すぐに恋に落ちた。長い足に絶妙なゆとりのパンツ。濃紺色のベストで強調される背中からウエストのラインに分厚い胸板。バニラのような香りが鼻孔にあふれ、鼻筋の通った目元の涼しい顔立ち。完璧な容姿が瞳に映った。一目惚れだった。
好きだという熟々 とした懸想 に魂消 てしまう。あいつも同じことを口にしていたが、まともに見るのが恥ずかしくて俯いて、笑って受け流した。
これが運命の番というのだろうか。
いつまでも傍にいたいと切ない願いが心にくすぶる。片時も離れたくない。あいつの姿が脳裏に張りついて、仕事中でさえ吸いついたように想いが溢れでる。
すぐに告白されて、首をこくりと縦にして頷いた。一緒に住んで、テレビも買って、木目のついた新しい食器棚を狭いキッチンに並べて、子供にも恵まれた。拍子抜けするほどあっさりと笑いの絶えない家族を手に入れ、初めてオメガというバースに感謝した。
『かげ、ですか……』
ちいさなクリニックの検査結果を隣町にある大学病院に持っていくと、ポリープだと思っていた腫瘍は癌と判明する。ステージはすでにⅢ。がん五年生存率は高くない。食道の後ろにある悪性肉腫は切除不可能で、外科手術は困難。放射線治療、化学療法にすがるしかない。何事も早期発見・早期治療が重要で、後ろを振り向いていられない生活のせいか、気づくのが遅かった。
あと半年。
無常の風は時を選ばすなんていうけど、あまりの唐突さに二の句が継げない。
一瞬のうちに事態を把握できるわけもなく、銀縁の眼鏡をかけた不愛想な医者を前にして黙り込んでしまう。
帰り道、頭の中に思い浮かべたのは子供の顔。二人とも大きく育ったが、まだ高校生と大学生。落ち着いて伝えたら、受け止めてくれるのだろうか。慌ただしい受験が終わったのは幸運でしかない。
……あいつ驚くかな。
そして次に心に浮かんだのは、あいつ。おれの番 。溺愛ぷりが半端ない。おれに惚れている。運命の番だと毎日脈絡もなしに口ずさんで、子供たちも拍手するほど呆れている。
二つ年下で、優しくて、料理上手。黙っていれば恰好いいのに、いつもデレた間抜けな顔つきをしている。そして、おれの気持ちの方があいつより上回っていて、ベタ惚れなのは誰一人知らないでいる。
数日前まで大丈夫だと伝えていたけれども、夜も眠れないほど心配していた。大丈夫、すぐに治るからと明るく接して励ました。
喋ったら倒れそうだ。
とりあえず、なんとかしよう。そして、残った時間を有効に過ごすしかない。
すぐに会社に健康保険の限度額適用認定証の申請をして、保険会社へも一報を入れる。
『もしなにかあったら、お父さんをお願いします』
その日はあいつは仕事で遅いので、先に帰っていた兄妹に深々と頭を下げた。子供たちは顔を見合わせた。寝る前にあいつに話したら仕事を辞めてそばにいると、咽び泣いて大変だった。
保険金の手続き、学資保険、衣服の整理、断捨離はしつくした。まだその時は食欲もあったし、動けるし、余裕かなと甘んじていた。
繰り返す治療と検査。しばらくして、すぐに入院しましょうと宣告される。慌てて荷物を整理しだす。
唐突に手紙を書きたい、そう思った。
でも、いざ書こうと筆を持ったら言葉すら浮かばない。
子供たちへはすらすら書けた。あいつのだけなんて残したらいいかわからない。
あんまり暗いと、たまったもんじゃないし、言葉がでない。
あれだ。もっと、愛していると言えばよかった。
あいつみたいに、息を吸うように好きだ。愛しているとイタリア人みたいに言えばよかった。
ぺらぺらと好きだと言えばよかったと、おれは反省した。セックスのときでさえ、そんな余裕もなくていつも伝えることすらできなかったのは別とする。
だから、愛しているの文句はいれよう。そうだ、それと、幸せになって欲しい。こんな平凡なおれをかけがえのない番 として接してくれた。
死んでいく人間より、残された奴がつらい。そんなに重くなく、極めてシンプルに残した方がいい。あとを追ってくるな。いや、だめだ。生きろ! それもなんか違う。散々悩んで、一行だけしたためた。
絶対に幸せになってくれ。
離れたくない。忘れて欲しくない、でも幸せになってほしい。
再婚して、新しい家族も作って、長生きして欲しい。おれのことはほんの少しだけ記憶に残してもらえばいい。矛盾だ。震える指先とぼとぼとと落ちる涙で八十円のボールペンを動かした。
愛している。
ずっと、ずっと、それは変わらない。
あのときの本に封筒を挟んだ。覚えてるんだろうか、あいつ。もうちょっとヒントを与えた方がいいのか悩んだ。推理小説に謎解きを追加する自分もアホくさいのでやめた。
テレビのうらの埃を取り除いてひとつ紙をかくす。次に一緒に選んだ食器棚。テープに張りつける。犬のようにあとを追ってくるあいつを想像してちょっと笑ってしまった。いつも笑いながら、待ってよ~! とのんきな表情をするあいつが好きだった。
あとはどこにしようか。
家の中を見回す。
やっぱりあそこしかない。
クローゼットを開いて、あいつの匂いがむせ返るように刺激する。心の奥に痛みが走る。
右端には準備しておいた喪服一式が目に入った。
あいつのスーツ姿が一番好きだ。深い艶のある上品な黒で誂えた喪服も似合うに違いない。
背が高く、胸板も厚いのでスーツを着ると男の色気が数倍上がる。
にやけた顔はマイナスだが、黙ってるとモテるから、喪主のときは寡黙な男を演じて欲しい。
それと、そうだ、息子や娘の晴れ姿も目に焼き付けたかった。太めのストライプがはいった紺色のスーツに顔を埋めて、匂いを嗅いだ。覚えておきたいのは自分だった。
ずっと一緒にいれるもんだと思っていた。あとどれくらいなのだろう。
好きがいっぱいつまったこの家にはもう帰れない。
それからおれは闘病生活にはいる。入院生活は快適だった。
十年以上勤めていた会社へ退職届をだして、面倒な手続きも終え、ベッドで寝ているだけの生活。着替えもタオルもすべてレンタルして、甚平型で、水色がかった浅葱色の入院着に身を包んで、ずっと本を読んでいた。
お気に入りのあの本を持って来ようか? と何度も喋るあいつにお茶を濁した。あいつは仕事終わりに顔をだして、面会時間の最後までいようとする。泣きそうな潤んだ目で見てくるもんだから、患者であるおれが泣けないでいる。
それでも、不吉な予感は隙間風のように吹き込んでやってくる。
抗がん剤を点滴し始めたときだ。
自分の薄命に笑いそうになった。
吐きまくって、毛も抜ける。ああ、ヤバイと不運の底に突き落された気がした。
放射線治療も化学療法も試した。場所が悪いのか、たちまち癌細胞は増殖して、浸潤と転移を繰り返す。幸せを食べるようにがん組織はどんどんと栄養にして奪っていく。体は鉛のように重くなり、あいつの笑顔は太陽のように眩しくみえた。
見ていられなかったのか、あいつは怪しい療法を毎晩調べているようだ。下の娘がLINELINE で教えてくれた。寝ないでネットにかじりついているらしい。
あいつは病室に顔をみせるなり、早口で説明する。クリニックに予約したらしく、外出許可をもらって、一緒に足を運んだ。長い医療相談をして、分厚いパンフレットを手渡される。アフェレーシスだっけ? 成分採血をして免疫細胞を培養して身体へ戻すようだ。二、三週間おきに七回ほどワクチンを投与するらしい。一ターンあたり百万以上かかる。全然頭に入らなかった。
帰りは喫茶店によって一休みした。手にした資料に真剣な眼差しを注いでいるあいつ。のんきにアイスコーヒーを啜りながら、惚れ惚れとその凛々しい顔を眺めているおれ。やめようぜと、上手く言い出せない。
軽い足取りもだんだんとよろめいて、ふらふらと寂しい夢でも見るように歩くようになった。そろそろ外出許可も厳しくなってきたころだ。
あいつは犬のように鼻を膨らませて、また新しい民間療法を見つけた。あまりにも必死で喋るもんだから、口をきく気力もないまま首を横に振った。
一緒にいたいと、一言だけ口を割る。
あまりにも悲愴感を漂わせるので、眠くなるんだと慌てて誤魔化した。あいつは多分だけど、怒ってもいたんだと思う。
残された時間はあと少し。くびれたガラス管のような砂時計から砂粒がなくなるまえに、もっと一緒に過ごしたい。あいつは休みをとると言い出し、繁忙期なのに一週間だけ休みをとった。
夢のような七日間。病室も大部屋から個室に移動した。二人でたくさん想い出話に花を咲かせて、笑い合った。手を繋いで抱きあってキスもした。
この上ない幸せ。
悔いはないといえばウソ。ある。そりゃ、たくさんある。
あいつがおれのアイス半分も食べたこともそうだ。初めて喧嘩しようとした。でもこんなに素敵な番はいない。おれと子供のことしか考えていないところが心配だ。
きょうは二人で寄り添って、病室で面会時間開始の午後から夕方まで映画を鑑賞した。フランス映画の少女漫画のような悲恋のラブストーリー。女優の美しさにうっとりして、見終わると疲れたのか、おれは心地よい眠気に誘われる。
薄目を開けるとあいつが隣で窓に視線を向けて座っている。
夕暮れの西の空、煌びやかな冬の星がほんのりと輝いて見えた。外には出ていない。この四角い窓が季節を知らせてくれる。あいつの横顔が美しくてじっと眺めていた。
「綺麗だね」とあいつの声が水の響きのように耳に入り込んだ。
幸せでした。
子供のことは頼みます。
どうか、家族がこの先ずっと、満ち足りた生活を送れますように。
どうか、どうか、長生きしてください。
神様、お願いします。
おれの人生を半分あげるので、幸せにしてあげてください。
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