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 ――お前は、俺にとっての聖域であり、傷ついた心を癒す唯一のオアシスだった。  講堂の窓から見える桜並木が大きく揺れている。例年に比べ急激に気温が上昇したせいで、いつもよりも開花が早かった桜。枝先にちらほらと新緑の葉を纏いながらも、まだ花を咲かせていたピンク色の花弁が突然吹き抜けた強風に煽られ、空に舞い上がっていく。  それはまるで、何かの訪れを予言するかのように荒々しく、眠っていた遠い記憶を呼び覚ましていく。なぜだろう。脆く儚く、哀しげな光景にも見えてくる。  つい先程、入学式を終えた私立R高等学校の講堂は、新入生と入れ替わるように新年度を迎える生徒たちが入場を開始していた。それを、講堂に続く渡り廊下の途中でぼんやりと眺めていた養護教諭の広瀬(ひろせ)(みのり)は、着ていた白衣のポケットに浅く両手を入れると小さくため息をついた。 「広瀬先生、そろそろ始まりますよ」  背後から声をかけられ「はい」と短く応えた稔は、眼鏡のブリッジを指先で押し上げてから講堂へと足を踏み入れた。  高校を卒業し十年経った今、どうして彼の事を思い出したのか分からない。置き去ったままの記憶がより鮮明になっていくのを感じ、胸の奥が軋むように痛む。  始業式の前に、今年度からこの学校に赴任してきた教諭たちを紹介する着任式がある。講堂後方にある扉が開き、整然と並べられた椅子に座る生徒たちの間を縫うように設けられた通路を、スーツ姿の教諭たちがステージに向かって歩いていく。  県内でも数少ない男子校である私立R高等学校。しかし、以前は男女共学だった。ここ数年の少子化と、志望者の激減により規模を縮小する代わりに、希望者は理事長が運営する大学への推薦が約束されている。規定以上の成績持続と出席率、警察沙汰になるような問題を起こさないという条件をクリアすれば、基本的にエスカレーターで難なく進学できるというシステムだ。  ここで勤務する教師もまた、本人が希望する以外は公立高校のような移動はない。運営者が破綻、もしくはマスコミが騒ぎ立てるような問題を起こさない限り、高額給与で長期間働くことが出来るし、塾講師などの副業も許可されている。教師の中には、もう二十年以上ここに籍をおいている者もいる。  大学を卒業し、新たに着任する者はもちろんだが、元公立高校の教師だった者もいれば、教師から塾講師を経て、再び教師として舞い戻る者もいる。そういう者たちを快く受け入れてきたのは、理事長の手腕であり懐の深さともいえよう。  年齢も性別も様々な教師が壇上に並び、司会進行を務める女性教諭が一人ずつ紹介していく。稔は、自身のデスクの上に無造作に置かれていた着任者の資料を見ることなくここに来てしまったことを少し後悔していた。細いシルバーフレームの眼鏡越しに目をすっと細め、何かを見定めるかのように視線を動かした。  ふと、その目が一人の男性教師をとらえた。濃紺のスーツに、シンプルなストライプのネクタイを合わせた、誠実で真面目な印象を与える長身の男性。さっぱりと整えられた黒髪に、意志の強そうなこげ茶色の瞳が筋肉質の体躯と相まって、生徒から見れば頼りになりそうな教師といえよう。  だが、稔はその男性の姿に既視感を覚えていた。忘れたくても忘れられない。自分にとって、彼こそが唯一無二の友達だったのでは――と思えた存在。 「――では、続いてご紹介いたします。全学年の国語を担当していただきます、池波(いけなみ)優吾(ゆうご)先生です」  女性教諭の声に、稔は薄い唇をキュッと噛みしめた。 (同じ名前だ……)  壇上でマイクを受け取った彼は、深々とお辞儀をし自己紹介を始めた。滑舌よく、低いがよく通る声は、教師として理想的だ。あの声で教科書を朗読すれば、クラスの何人かは相手が男性教諭であっても、間違った気を起こしてしまうかもしれない。 「いい声……だな」  無意識に呟いてハッと息を呑み、周囲を見回した稔は誤魔化すように小さく咳払いをした。  高校時代。制服だった紺色のブレザーが良く似合う同級生。成績は常に上位をキープし、先生から一目置かれていた。身体能力も高く、バレンタインになると女子生徒から抱えきれないほどのチョコレートを貰っていた。そんな自身を衒うことなく、クラスでも浮いた存在だった稔に普通に接してくれた彼。ウザいほどの世話焼きでお節介。そして――密かな想いを抱いていた相手。  稔は眩しいものでも見るかのように目を細め、十年ぶりに再会した同級生の姿をじっと見つめた。  これが初恋である――といったら誰もが失笑するであろう稔の素行は、中学時代から良いとは言い難かった。両親が会社を経営してこともあり比較的裕福な家庭で育った稔は、幼い頃から誰かを支配したい欲に駆られていた。言動も傲岸不遜で、気に入らなければ平気で痛めつけた。元モデルだった母親の遺伝子を受け継いだ彼の外見に惑わされる者も多く、男女問わず交際を求められたが、自分が満足するまでセックスすると何事もなかったかのように関係を終わらせた。それを知っていながら、稔の妖しげな魅力に憑りつかれて近づく者が絶えず、数日後には必ずと言っていいほど「彼に泣かされた」と騒がれるのが常だった。  誰かに従うことや束縛を嫌った稔は、女性だけに限らず男性とも関係を持った。それがいつしか、男性しか受け付けない体になり、今ではお望みとあらば相手に合せてタチにもネコにもなれる。  その場の雰囲気や空気に身を任せ、セックスする時は意思を捨て、頭を空っぽにして快楽を貪った。  そんな稔が、初めて『欲しい』と思ったのは優吾だった。でも、それを彼に伝えることは出来なかった。いつでも何かにつけて気に掛けてくれる彼を煩わしく思い、邪険に扱っていた。それなのに、彼と話せない日は不安に押し潰され、夜になれば制服の下に隠された彼の体を思い描いては自慰を繰り返す日々。  いつか自分のものにしたい、そして自分も彼になくてはならない存在になりたい……。  だが、その願いは叶うことなく卒業を迎え、二人は別々の大学へと進学した。目を閉じれば浮かぶ優吾の笑顔は非情にも一瞬で消え去り、街ですれ違い振り返ると白昼夢が見せた幻に過ぎなかった。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない彼への恋心は、離れてから大きな炎となって稔を焼き尽くしていった。  その傷は癒えることなく稔を苦しめ続けた。叶わぬ恋に終止符を打つと決め、弱った心を癒してくれる誰かに縋りつきたい一心だった稔は、あの男と出逢ってしまった――。  紺色のブレザーを着た、まだ幼さを残す顔立ちの優吾と、壇上でスピーチする大人びた彼が重なった瞬間、稔は息を呑んで自身の左手を右手でグッと押えこんだ。ひやりとした金属の感触が右手の指に広がっていく。それを強く押えこんだまま、壇上に立つ優吾からスッと目を逸らした。  今更、後ろめたさなど何もない。思春期特有の移ろいやすい恋を、大人になった今まで引き摺っているなんて、気持ち悪くて吐き気がする。大人には大人の恋愛がある。そのレールに従って走っただけなのに……。  胸が締めつけられるように痛む。息が途切れ、うまく酸素を取り込めない。  優吾との十年ぶりの再会は、忘れかけていたあの時の恋心を思い出させてくれた。しかし優吾に、今の自身を曝け出せるかと問えば、それは否――だ。知られるのが怖くて堪らない。もし暴かれたらと思うだけで足が竦み、全身が震え出す。  心から「逢いたかった」と言える日が、稔に訪れることはない。稔は、左手の薬指に嵌められた銀色の指輪を忌々しげに見つめ、再び唇を噛んだ。  あの男につけられた枷は外れない。たとえ、もう終わっていたとしても……。  講堂の窓から差し込む光が粒子を纏って優吾に振りそそぐ。風に舞った花弁がその光を遮るように影を落とした。  そう――出逢ってはいけなかった。まして、あの時の想いを再び呼び起こしてはいけなかった。  外は春の嵐。荒々しく花弁を散らす風と、地面に舞い落ち汚れていく桜。それを拾い上げ、胸元に仕舞い込む者は誰もいない。  稔は穢れた花弁に自身を重ね合わせ、重々しく息を吐き出した。  眩いばかりの光を纏う優吾へはどれだけ手を伸ばしても届かない。それが自身に科せられた罰。彼に嘘をつき通すことが最良の逃げ道。稔にとって茨の道であっても構わない。でも――。  もしも、ここが運命の分岐点であるとするならば、足を止めて穏やかな春の日差しにも似た彼の手を掴みたい。 『助けて――』  自身を圧し潰す見えない影に、小さく身を震わせた。限界が来る前に気づいて欲しい――そう願った。  もう一度、あの時と同じようにそばにいてくれたら……。  照れたように笑いながら他の教諭たちと共にステージを下りた優吾。その姿が稔の視界から外れた時、指先が白くなるほど拳を握りしめ、ただ俯くことしか出来なかった。

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