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【2】

 三階建ての建物が連なる私立R高等学校の校舎は、男子校に編成したのを機に大規模な改修工事が行われた。以前のような薄暗く冷たいイメージを払拭するように、自然光を取り入れるための窓を多くし、内部の壁や床には暖かみのある杉材を使っている。清掃やメンテナンスには少々手間がかかるが、冷たい無機質の白い壁ばかりの空間よりは何倍も居心地がいい。  正面玄関や事務所・職員室などがある管理棟の一階に、稔が常駐する保健室がある。授業中は、比較的人の出入りは少ないが、稀に静寂を破るかのように突然の来訪者がある。  体育の授業中に怪我をしたという生徒が、ジャージ姿の男子生徒と共に保健室にやってきた。幸い軽い捻挫のようで応急処置を手早く済ませると、稔はつとめて柔らかな声音で言った。 「今日一日はあまり動かさない方がいいね。痛みが増すようなら病院に行くように」  怪我をした当人は照れたように頭をかきながら笑っているが、一緒にいた同級生からは厳しい声が飛んだ。 「だってよ! 無茶するなっていう俺の忠告を聞かないからこうなるんだろ?」 「だって……。俺が動かなきゃ、あの試合は絶対に負けてた」 「ばーか。怪我したら、勝っても負けなんだよっ」  コツンと後ろから小突かれて、当事者である彼はバツが悪そうに唇を尖らせている。その後で、付き添ってきた彼が怪我をした男子生徒の手をそっと握るのを稔は見逃さなかった。 「はいはい、そこまで。君も、怪我人をあまり責めないように。でも、彼の言うことも一理ある。無茶はいけないな……。担任の先生には、俺の方から伝えておくよ。早く授業に戻りなさい――って言っても、見学になるけど」 「は~い。広瀬先生はいつも優しいから好き。俺、先生の奥さんは幸せ者だと思うよ。カッコイイし、頭もいいし、何よりいい匂いがする」  何げなく生徒が口にした言葉に、稔の表情が一瞬だけ曇る。悟られまいと、すぐに大仰なため息をついて見せると、座っていた椅子を軋ませて彼を見下ろすように体を乗り出した。 「生意気なこと言ってないで、早く授業に戻りなさい。ほら、君も手を貸してあげてっ」  自分の好きな人――いや、この場合はもう恋人同士という関係なのか。自分以外の男に思わせぶりな言葉を投げかけるのを目の当たりにした同級生。稔の声掛けに反応することなく、ムスッとしたまま怪我をした生徒に肩を貸してドアの前まで歩いた彼は、稔を威嚇するように肩越しに睨んだ。その目には嫉妬の色が濃く滲み、年上でありながらも稔は小さく息を呑んだ。  ドアが閉まったあとで、稔は大きく息を吐き出して肩の力を抜いた。 「難しい年頃だよな……」  ゲイとはいえ、高校生に手を出す気は毛頭ない。まして、手近なところで済ませようなんてリスクが伴うことなどするものか。  今の彼らと同じ、多感で、些細なことに動揺し、影響されていたあの頃。自分はどうだったのかと問われれば、他の男子生徒たちに比べドライだったと言える。思春期にありがちな恋バナにも興味がなかったし、他人の行動にも無関心だった。優吾に対してもそれは変わらなかった。彼が誰とつき合おうと関係なかったし、優吾に付き纏う女子生徒に嫉妬していたかといえばそうでもなかった。それなのに――彼をただ漠然と『欲しい』と思った。  思わせぶりな言葉も、肌の触れ合いもない。ただ、友達として付き合ってくれていた彼に対して抱いた仄暗い欲望。でも、それを知られることを何よりも恐れていた稔は、自己矛盾を抱えたまま成長した。  窓際に置かれた執務用のデスク。換気のために少しだけ開けた窓から入り込んだ風が、白いレースのカーテンを揺らした。  朝から晩まで仕事に追われる毎日。時に、多忙を極め昼食もままならない時がある。でも、その方が稔にとっては都合が良かった。そうしていれば、面倒なことを考えずに済むからだ。  しかし、その日常はあの日から変わった。  コンコン……。控えめなノックの音と共にドアが開き、顔を覗かせたのは優吾だった。 「生徒に人気の広瀬先生、お時間よろしいですか?」  揶揄するように入ってきた優吾は、露骨に顔を顰めた稔に気づくことなく、向かい合うように置かれた丸い回転椅子に腰を下ろした。 「――毎日、ここに来るけど……暇なのか?」 「暇なわけないだろ。思った以上に充実してる」 「じゃあ、職員室にいればいいだろ?」 「あそこは息が詰まる。次の授業の準備も終わったし、お前といろいろ話したくてさ」  嬉しそうに微笑みながら覗き込んでくる優吾は、尻尾をゆさゆさと振りながら懐く大型犬にも見える。そんな彼の視線から逃げるように顔を背けた稔は、デスクの上の書類に視線を落とした。 「俺は……話すことは何もない」 「十年ぶりに会ったっていうのに? まさか、お前が高校の養護教諭になっているとは思わなかったよ。ホントに驚いた。クラスの問題児って言われてたけど、なんだかんだいって成績もそれなりに良かったし。どうしてわざと悪名を広げるような真似をしていたのか不思議で仕方がなかった。それに……雰囲気、変わったよな」 「雰囲気?」  走らせていたペンを止め、首を傾けながら何気なく優吾の方を見た稔の視線が、真っ直ぐにこちらを見ていた彼のこげ茶色の瞳とぶつかる。戸惑いに再び目を逸らすと、優吾は薄い唇を考え深げに開いた。 「あの頃より柔らかくなったっていうか……。ただ柔らかいだけじゃない。脆くなった……? それも違うな。なぜかな、あんなに強気だったお前が、時々すごく儚く見える。放っておくと何をするか分からないっていう危うさは、あの時と変わらない。でも……」  書類を押えていた稔の左手に優吾の視線が注がれる。それに耐えきれなくなった彼は、隠すように白衣のポケットに左手を突っ込んだ。不自然な動きだと思われても仕方がない。でも、この指輪の事には触れて欲しくなかった。 「――結婚して、幸せな生活を送っているんだろう? 羨ましいな……。俺には未だに運命の人が現れない」  苦笑いしながら、窓越しに遠くを見つめた優吾を見た稔は、自身の胸が締めつけるような痛みを発していることに気づいた。 『結婚がすべてのゴールではない』と言った人がいた。それに付け加えたい言葉がある。結婚することで幸せになるとは限らない――と。  神聖な場所で、神々の祝福を受けて生涯の愛を誓ったわけではない。ただ、口先だけの約束でそういう関係になり、セックスして、誓いという名の『枷』を嵌められただけ。  永遠の愛なんてどこにもない。まして、死ぬまで一緒にいることなんて不可能に近い。 「――なあ。稔が選んだ人って、どんな人? すごく興味がある……」 「フツーの人」 「職場で知り合ったのか? 芸能人に例えるとどんな感じの人? 稔が結婚したの知らなかったから、遅くなったけどお祝い渡すよ。何か欲しいモノ、ある?」  矢継ぎ早に質問してくる優吾に、稔は呆れたように大きくため息を吐くと、椅子を回転させて彼と向き合った。 「そんなこと知って何になるんだ? あれから十年も経ってる……。俺もお前も立派な大人だ。――そういったことを詮索されることは好きじゃない。そうやって他人に余計な世話ばかり焼いてると、いつか嫌われるぞ。それだからお前には彼女が出来ないんじゃないか? 高校時代はバカみたいにモテてたのに……」 「お節介……。昔、お前によく言われてたよな。その度に機嫌悪くさせて……。十年経っても、まだ治ってない」  優吾はわずかに目を伏せて自嘲気味に笑うと、トーンを抑えた声でボソリと呟いた。 「お前のこと、知りたかった……。今も、俺の知らないお前を、知りたいと思ってる」 「え?」  優吾の言葉に、稔はペンを握りしめたまま黙り込んだ。何気ない言葉にしては含みのある、かといって思わせぶりと勘ぐるのは自意識過剰か。  両親の地位と自身の容貌を武器に、好き勝手なことをして「俺は自由だ!」と主張し、憧れを抱く者たちに羨望されたい。傅き、崇め、セックスさせてくれと懇願する奴らを見下し、自分は与えられる快楽に酔いながら腰を振る――。そんな奴のことを知ってどうなる。優等生であった優吾から見れば、自分とはタイプの異なる人間に興味があっただけじゃないのか。  やり場のないストレスと、思ったことを素直に口に出せないジレンマに圧し潰されて、稔の行動はよりエスカレートしていった。幼い頃から英才教育を施され、将来を有望視され続けて来た稔はある日、初めて両親に口答えをした。ただ、自分がやりたいと思ったことを口にしただけなのに、彼らの逆鱗に触れた稔はそのまま家を飛び出した。両親からのプレッシャーに耐えきれなくなった精神と心……いっそ壊してしまった方が楽になれると考えた。悪い友達とつるみ、いろんな遊びをした。仲間に囲まれて、一緒に騒いでいる間は楽しくて仕方がなかった。でも、一人になった時、強烈な虚無が稔を襲った。  壊したくても壊れない。中途半端につけた体や心の傷は、痛みを伴うだけで治ることはない。後に残るのは心にポッカリと開いた穴と自己嫌悪だけだった。自身が動けば動くほど居場所を失っていく恐怖。その恐怖から逃れたいから、また同じことを繰り返す。  高校生になっても、それは変わることがなかった。しかし、浮いた存在であった稔に臆することなく声をかけてきた男子生徒がいた。 「今日は数学の小テストがあるらしいよ。あぁ、それと……購買部は休みだからパンは買えない」  なんだコイツは――というのが、優吾に抱いた初めての印象だった。同じ教室内にいても、悪名高い稔と目を合わせる者は誰一人としていなかった。それなのに、曇りのない真っ直ぐな目で稔を見つめた彼は微笑みながら言った。 「稔って呼んでもいいかな? 俺は優吾でいいよ」 「は……はぁ? お前、いきなり友達ヅラしてんじゃねーよ」  突っぱねた稔だったが、毎日のように声をかけてくる優吾のペースに巻き込まれるように、気がつけば普通に彼と話すようになっていた。他人と関わりたくない。警戒心丸出しで威嚇し続けた稔の鎧をたった一言で砕いた男――池波優吾。  だから彼には、少しだけ恐怖心を抱いていた。いつか自分が丸裸にされ、隠してきたことも言えなかったことも、彼に誘導されるように告白してしまうのではないかという恐怖。  稔はゴクリと唾を呑み込んで、先程から一寸も目を逸らさずにいる優吾を探るような目で見つめた。 「――知られたくないことは誰にでもある、だろ」 「あぁ、もちろん。でも、俺はお前という人間を知りたい」 「どうして……?」  早鐘を打つ心臓の音が煩い。急激にめぐる血流のせいでこめかみにツキンとした痛みが走る。 「友達として……。会えなかった十年間、何があったのか知りたいんだ。お前のことばかりを知りたいと言うのはフェアじゃない。もちろん、俺の十年間も全部話すつもりだ」 「友達って……。俺は、そう思ったことなんて一度もないし、別に……聞きたいとも思わない」  優吾は自身のジャケットのポケットから煙草のパッケージを取り出しかけて、ここが保健室であることを思い出したのか、バツが悪そうに苦笑いを浮かべてそれをしまった。無意識に手を入れたところをみると、かなり長く吸っていることが伺える。 (あの優等生が煙草を吸うのか……)  彼は一生、喫煙者に対して「健康に良くない」と言い続けるものだと思っていた。自分が知ることのなかった彼の顔を垣間見た稔は、驚きと共にとてつもない高揚感を覚えた。だが、それを見透かされまいと虚勢という名の鎧を纏った。 「そっか、そうだよなぁ……。お前、俺のこと嫌いだったもんな。でも、聞きたくなったらいつでも話すぞ? そのかわりお前も――」 「聞かないから……話さない。ってか、そろそろ始業のチャイム鳴るぞ? 行かなくていいのか?」  稔の言葉に腕時計を見た優吾は、慌てて椅子から立ち上がると広い歩幅でドアへと向かった。そして、名残惜しそうに振り返ると、目を細めて柔らかく微笑んだ。 「今夜、空いてるか?」 「忙しい……」 「明日の夜は?」 「予定がある。――ナンパなら、外でやってくれ。それに俺は既婚者だ」 「あぁ、そうだったな。奥さんに許しを貰えるよう、俺も頑張らなきゃ」 「あー、煩いっ! さっさと行け!」  稔は勢いよく席を立って優吾のもとに近づくと、ドアを開けながら彼の背中を廊下に押し出した。そこに通りかかった男子生徒の怪訝そうな目を苦笑いでかわした優吾は、稔に向かって「またなっ」と小さく手をあげると小走りに去って行った。 「――廊下を走るなって言われてるだろ。子供かっ」  小さく毒づいた稔はドアを閉めると、そこに背を凭せ掛けたままそっと施錠した。  少しだけ一人になりたかった。再会して、まだ一ヶ月も経っていない。それなのに、高校生の時と変わらない勢いで稔の中に踏み込んで来る。だが決して、土足で蹴散らすような乱暴な真似はしない。稔が嫌がるギリギリのところを突き、危うくなるとするっと身をかわす。そういう彼とのやり取りが心地いいと感じ始めていた。――いや、正確にはハッキリと思い出してきたと言った方が良いだろう。あの頃もそうだった。何かにつけて苛立っていた稔を手懐けるように、絶妙な距離を保っていた優吾。その距離感が心地いいと感じる反面、もどかしさに苛立つこともあった。  稔は自身の左手を見つめ、皮肉気に唇を歪めた。 「既婚者――って。俺、何を言っているんだろ……」  結婚なんてしていない。それなのに、こんな小さな金属のリングに拘っている自分がバカバカしく思えてくる。それでも『既婚者』を貫く理由がある。優吾を忘れるために縋った彼が残していったもの――。それを片付けない限り、この『枷』は外れない。 「お節介……。思わせぶり……。また、俺を苦しめるのか……お前は」  窓から吹き込んだ暖かな風がデスクの上の資料を床に落とした。それを見るともなしに見ていた稔は、ゆっくりと白い天井を仰ぐと、目を閉じて呻くように呟いた。 「偽善者め……」

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