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【10】
一年後――。
この学校の教頭であった梅津は、保健室での決定的証拠を突きつけられ、自身の罪を認めると共に依願退職した。梅津の退職に際して保護者から反対の声があがったが、病気療養を理由に納得してもらったようだ。彼が着服した金は責任を持って返金するということで、理事長は警察沙汰にはしなかった。
稔が何より心配していた優吾の方は、梅津を殴ったことは稔を助けるための正当防衛とみなされお咎めはなかった。だが、監視カメラの解析から優吾と稔がそういう関係であると、理事長に知られてしまった。男子校の教諭――しかも男同士である。それは決して悪いことではないが、生徒に刺激を与え、何らかの影響が出るのでは? と危惧されることを覚悟していたが、優吾の伯父である理事長は実に寛大で、二人の交際を手放しで喜んでくれた。
晴れて恋人同士となった二人。梅津が去ってすぐ新しい教頭が着任し、学校内は何事もなく穏やかに時が過ぎていた。
眩い光が降り注ぐ管理棟に、始業開始五分前を告げるチャイムが鳴り響いた。職員室から出てきた男子生徒が慌てたように教室に向かって走っていく。
「おいっ。授業で使うプリント、先に配っておいてくれ!」
彼らを追いかけるように響いた声に、一人の生徒が足を止めて振り返った。
「はーい! 先生も授業に遅れないでねっ」
腕時計を見ながら苦笑いを浮かべた優吾の後ろから、白衣のポケットに浅く手を入れたままの稔が近づいた。明るい栗色の髪も、柔らかな表情も、トレードマークであるシルバーフレームの眼鏡も変わっていない。だが、稔は変わっていた。
「――生徒に言われるようじゃダメだな」
クッと喉の奥で笑った稔を嗜めるように、優吾は振り返りながら軽く睨みつけた。今日も、朝日が部屋に射し込むまで肌を重ね「怠い、眠い、休む」と口癖のように文句を言っていたとは思えない稔の姿に、優吾はわずかに目を見開いた。
「お前、大丈夫なのか? 今日は休むって……」
「子供じゃないんだからさ。俺だって仕事あるし……」
「でも、今朝は……」
「そう思うんなら、ちょっとは手加減しろっ。毎回、毎回……種馬みたいに発情しやがって」
ムスッとして眉根を寄せた稔だったが、本気で心配している優吾の顔を見て思わず吹き出した。
二人が誓いを立てたあの日から一年が経とうとしていた。今日は、記念日のお祝いをすると張り切っていた優吾の顔を思い出し、稔は頬が熱くなるのを感じた。
「――今日は、早く帰るんだろ?」
「もちろん! 何があっても帰る」
「さっき、高成さんから連絡あった。全部、片付いたって……。島村の事務所に強制捜査入ったみたいで、詐欺罪での立件も視野に入れているらしい。俺以外にも被害にあった人、結構いたようだし……。あと、植山の行方は相変わらず分からないみたいだけどな……」
「そうか……。まあ、面倒な事は高成さんに任せておけばいい。あの人は魔法使いだからな」
優吾の言葉に、彼の事務所にいた奥部のことを思い出す。ウリをやっていたという過去を持つ彼は、高成に想いを繋いでもらったと言っていた。今はその人と幸せに暮らしているらしい。
人を素直にさせる魔法。嘘を見破る魔法。そして――想いを繋げる魔法。
稔は彼の魔法によって、優吾との想いを繋いでもらった。優吾もまた、母親の件以降何かと頼りにしているようだ。
「お礼しなきゃ……だな」
「あぁ、高成さん。そういうの苦手な人なんだよ。それより、現状を報告した方が喜ぶと思う」
「現状って……」
稔が首を傾げた時、優吾の手が白衣のポケットに入ったままの左手を掴みあげた。そして彼は、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと素早くカメラを起動させた。
「お、おいっ。何をする気だ?」
「いいから、いいから! 指、揃えて顔の前……そう!」
彼の勢いに圧され、言われるままに左手の指を揃えて掲げたカメラに向ける。優吾もまた、自身の左手を並べると、頬が密着するくらい顔を寄せてきた。
「優吾っ。なんだよ、これっ」
「はい、笑顔~っ!」
カシャッ。軽やかなシャッター音と共に写真データが保存される。アルバムアプリを開き撮影したものを展開すると、左手に銀色の指輪を嵌めた二人の姿が映し出された。満面に笑みを浮かべた優吾、状況が分からず困惑気味の稔。それを高成宛てのメールに添付して送信した優吾は、茫然と立ち尽くしている稔にキスをした。
「二人の結婚記念日……。どう?」
「どうって……。高成さん、絶対舌打ちしながら毒吐くよ」
「俺もそう思う。けど、その毒を魔法の力に変えて、また誰かの想いを繋いでくれる。そういう人、だから……」
無邪気に笑う優吾につられ、稔も口元を綻ばせた。二人の頭上にあるスピーカーから始業を告げるチャイムが鳴り響いた。スマートフォンを仕舞いながら、もう一度キスをしようと顔を近づけた優吾の頬を掌でブロックすると、稔は抑揚なく言い放った。
「――てか、お前。さっさと教室に行けよっ」
稔の言葉にハッと我に返った優吾は、慌てた様子で廊下を走っていった。その後ろ姿を見送りながら「廊下を走るなって言ってんだろうが……」と、呆れ顔でため息まじりに毒づいた稔だったが、彼の広い背中が角を曲がるまで目が離せなかった。
桜の季節はとうに過ぎ、木々は新緑に彩られている。吹き抜ける風は少し汗ばむ肌に心地いい。
管理棟から伸びる渡り廊下に目を向けた稔は、優吾と再会した日のことを思い出した。
終わりかけの桜の花弁が突然吹き抜けた強風に煽られ、空に舞い上がっていく。それが何かを予感させ、十年前の事を思い出させてくれた。
もしも優吾のことを忘れていたら、どうなっていただろう。彼への想いを貫き続けなかったら、自分は植山の疵を引きずったまま、どんな男に逃げていただろう。自責の念に圧し潰されながら、毎晩のように涙を流していたかもしれない。
でも、今は違う。同じ涙でも、嬉しさと幸福感がぎっしり詰まった涙は何度流してもいい。それを優しく拭ってくれる最愛の伴侶もいる。
二人の間には、目に見える契約も保証もない。ないからこそ、他の誰にも負けない覚悟と誓いがある。
稔は左手の薬指に嵌められた銀色の指輪に唇を寄せ、わずかに目を伏せた。叶わぬ想いを封じ込めてもいなければ、自分を苦しめる枷でもない。これは正真正銘、愛だけを詰め込んだ誓いの証。
白衣のポケットの中でスマートフォンが振動した。メールの着信を告げるランプが点滅している。指先でタップしアプリを開くと、高成からメッセージが届いていた。苦情か、はたまたお叱りか。あの綺麗な顔立ちが冷酷なものへと変わるのを思い浮かべ、背筋に冷たいものが流れるのを感じながらメールを開いた。
メールは宛先にCC と表示され、優吾と稔、両者に送信されていた。画面をスクロールし、高成からのメッセージを目にした稔は一瞬驚き、その後で自然と笑みが込み上げてきた。
「クッ! 魔法使いの威信にかけて……か」
肩を揺らした後で、稔はじわじわとこみあげてくる笑いに堪えきれず腹を抱えて笑った。通りかかった職員が怪訝そうに稔を見ていく。それでも、稔は笑うことをやめなかった。
こうやって素直な気持ちで笑える日が来ることは、もう二度とないと思っていた……。
もう一度スマートフォンの画面を見つめ、それを胸に強く押し当てた。
『別れたら殺すぞ……』
優吾と出逢ったことは後悔していない。むしろ、それが運命であったなら大歓迎だ。
高成の言葉に勇気づけられ、稔は改めて想いを繋いだ魔法使いに誓った。
「別れるわけないだろっ! 死んでも一緒にいるって決めたんだからっ」
Fin
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