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【第1部 カフェ・キノネ】3.錫のスプーン(前編)

「忙しくなりそうなの?」  トーストと炒り卵の皿の横にカップを置きながら、マスターが唐突にたずねた。 「え? いや――それほどでも」  俺はバターを塗る手を一瞬とめて、また動かす。 「そう」 「いままでにないタイプの仕事が入ったけど、それだけ」 「そう?昨日の彼、なかなか……」マスターは言葉を探しているかのようにわずかな間を置いた。「説得的、だったね?」  冗談をいわれたわけでもないのに、俺はなぜか吹き出しそうになった。 「そうですね」 「説得されちゃったの?」 「断りづらくて。もちろん条件はつけるけど」  この話題は気が乗らない。話をそらすために俺はカウンター横の壁ぎわに積んだ段ボールを指さす。 「あの荷物、次の展示ですか?」 「うん。あ、そうだ。これ――」  マスターは運んできたばかりのカップに添えたスプーンをとりあげた。 「ごめん、交換させて」  待ってて、といいながらマスターはカウンターの奥へ消えた。カフェ・キノネは開店したばかりで客は俺ひとりだ。ガラス窓の向こうの庭の芝生は清潔な光で他の時間より明るくみえ、そこにユリノキがどっしりとそびえ立つ。  ひとりでこの店に来るのはきまって朝だった。  午前中の光の中、自転車で走るのが好きだった。坂道を下る疾走感と全能感、ペダルの先からタイヤまでが自分の体の一部になるような感覚、上り坂で自分の内側がばくばくと息をつく気配がうれしかった。  しかし俺にとって汗をかきすぎるのは問題があることで、加えてこのあたりは坂道が多い。だから上り坂では自動で加速がかかる電動アシストつきのロードバイクに乗っているのだった。中途半端だと暁はからかうが、本格的な自転車趣味を持っているわけでもないから、このくらいでいい。  ほとんど山の中といっていい住まいからこのカフェまで走るのは、エクササイズとしても手頃な道のりだった。途中で抜けなければならない峠道も、数年前にバイパスが開通してから大型車両の通行量が減ったため、明るいうちならそれほど危険ではなくなっている。 「こっちを使ってみてよ。ゼロは朝のコーヒーならミルクと砂糖、使うでしょ」  白銀に輝くコーヒースプーンがカップに添えられた。周囲に誰もいないとき、マスターは俺を昔アルバイトしていたころのあだ名で呼ぶ。そのたびになぜか俺はこそばゆい気分になる。  ごまかすかのようにスプーンを指先でつまむと、思いのほか手ごたえがあるのに驚いた。ステンレスではないし、シルバーの色でもない。 「これ、素材はなんですか?」  見上げるとマスターはいたずらっぽく微笑んでいる。少し表情を変えるだけで柔らかい雰囲気がただよい、ふっと場の空気がゆるむ。たぶんこれが、便利な場所にあるとはいえないこの店が、なぜか経営できている理由のひとつだ。 「(すず)だよ。週末からはじまる作家さんの作品だけど、気に入ったから僕もいくつか買ってしまった。店では使わないけどね」 「錫……って、こんな金属なんですね」  俺は繊細な輝きを帯びた表面をしげしげとみつめた。 「知らなかった。触ったのもはじめてです」 「錫には抗菌作用があって、柔らかい。子供が使うにもいいらしい。ファーストスプーンとして新生児の贈り物にも使われるそうだ。そのスプーンも曲がりやすいから気をつけてね」 「出産祝いですか。そういえばスプーンをくわえて生まれてくる、という話がありますよね」 「それは『銀のスプーン』だね。銀は財産の象徴で魔除けでもあったというから。まあ昨日の彼なんてまさに、銀どころか黄金のスプーン、っていう感じだけど」  また話が戻ってしまった。俺はカップにミルクと砂糖を入れ、白銀に輝くスプーンでそっとかきまぜた。 「アルファの名門ですから」 「そんな雰囲気だったね」  マスターは俺の前の椅子をひいて座った。まだ常連客も姿をみせないし、のんびり話したいらしい。肘をついて俺をみつめる。 「黒崎が彼をみたら、腰を抜かしたかもね」 「黒崎さんが?」  俺は筋骨隆々としたマスターのパートナーを思い浮かべる。ごくたまにこの店でみかけるときはいつも、みるからに高価でセンスのよいスーツを着て、マスターを護るように物陰に立っている。たまになれなれしくマスターに近寄る客がいると無言の迫力がこもるので、そのたびにマスターは苦笑して「黒崎、ちょっとどいてて」というのだ。見た目の威圧感は藤野谷に勝つだろう。 「それはないでしょう。あいつと同じアルファなのに」 「そんなこともないらしいよ。オメガの僕にはうすうすとしかわからないけど、むしろアルファ同士の方が牽制しあったり――」マスターはいきなり言葉を切った。 「いや、もしかしたら黒崎がもっと驚くのはきみかもしれないよ」 「どうして?」 「だって今きみ、その名門のアルファを『あいつ』呼ばわりしたじゃない」 「そうでしたっけ?」俺はしらを切った。 「そうだよ。あ、ごめん。卵、冷めちゃうね」  気にせずに食べて、とマスターはいい、なのにいっこうに席を立とうとしない。俺はあきらめてトーストをかじった。彼が好奇心まるだしでいろいろなことに首をつっこみ、問いただすのは俺にかぎったことでない。  もちろんカフェの客に対してそんなことはしないが、すこし親しい相手なら、何かのきっかけでマスターの「なぜなにスイッチ」にひっかかったら最後、際限なく質問責めにされるのだと、パートナーの黒崎さんがぼやいていたこともある。 「学生の頃、何度か藤野谷と一緒にプロジェクトをやって」  炒り卵にケチャップをまぶしながら、あきらめて俺は説明した。 「大学を出てからは接点がないんですが、昔からこんな感じだから」 「へえ。プロジェクトってどんな?」 「学生向けの企業CMコンテストや大学祭のプロモーション企画とか……しょせん大学生がやることだからたいしたものじゃないですよ。俺もあいつも専攻はアートと関係なかったし。ただの遊びです」 「そうなんだ」  マスターは眼をほそめた。好奇心は猫を殺す、という言葉が頭に浮かぶ。  大学時代に藤野谷と組んだプロジェクトをただの遊びというのは、半分正しくて、半分まちがっているが、俺は考えないようにする。はためには喧嘩にしかみえないような議論の数々、無限に交換されるメールとテキストメッセージ、徹夜の作業を越え、パイロットフィルムを公開した朝の充実感と満足。あれを遊びと呼ぶのは正しくない。けれど仕事というわけでもなかった。  そして同様の経験は、その後の俺には一度たりとも訪れなかった。  藤野谷と組むとき、順番はいつも同じだった。はじめは藤野谷の方に目的があり、実現したいことがあり、そのための企画やコンセプトを考えて、俺に実行を持ちかけてくるのだ。俺は最初、藤野谷の話にしぶしぶ乗る。なのに、作りはじめると他のことを忘れてのめり込みだすのは俺の方だった。  夢中になるあまり、俺は藤野谷のコンセプトや方法に文句をつけるようになる。俺たちは制作のための果てしない試行錯誤と激論に突入し、馬車馬のように働く。そして制作を完了する。  今回、藤野谷が持ってきたプロジェクトでも、同じことが起きるのだろうか。  怪しいものだな、と俺は思った。八年ぶりに再会した藤野谷にはとっくに学生時代のナイーブさなどなくなっているだろうし、俺の方も同様だ。おたがいもう学生ではないから、対等な立場にはけっしてなり得ない。  もっとも学生のころも、藤野谷のようなアルファと対等なんてあり得るはずはなかった。だから俺はできるだけ避けていたのだ。そこを毎回、土足もなにも気にせずにずかずかとやってきては俺をひきずりだし、渦中に落としこむのが藤野谷の得意技だった。 「それだけなの? 昨日の様子だとずいぶん好かれてるようにみえたけど」  俺は皿の上を片づけるのに集中してマスターの方を見なかった。「あいつのいつもの冗談ですよ」といいながら、ろくに噛みもせずに卵を飲みこむ。 「昔から迷惑してるんです。友人としても腐れ縁のたぐいですね」 「へえ。学生のころからの友達つきあいだからって、ずいぶん遠慮のない関係だと思ったけどなあ。少なくとも僕から見ると、彼はきみにずいぶん参ってる感じだけど」 「やめてくださいよ」 「アルファだから嫌だとか? それとも女の子じゃないとだめなんだっけ?」 「朝っぱらからなにをいってるんですか」 「ほら、ベータは同性が対象にならない人も多いでしょ。僕や黒崎みたいなのはそういうの、あまり問題じゃなかったりするんだけど、きみはベータだし、子供の問題もあるしね」 「いや――その……そんなことないですけど」  俺はぼそぼそとつぶやいた。  つぶやきながら、いったいなにが「そんなことない」んだよと内心で自分につっこんでいた。ふだんは忘れているうしろめたさがかすかに胸の底を刺す。いつまでも無視できないのはなぜなのだろう。偽装しているうしろめたさ、何年もつきあいのある人と話しているのに、彼がみているのは本当の俺ではないというむなしさ。 「とにかく藤野谷はちがいますよ」と俺は答える。 「あいつが俺をかまうのはある種の反発だから」 「反発って?」 「『運命のつがい』という考え方があいつは嫌いだから。それにその……アルファとオメガは出会ってカップルになるべきだ、みたいな世間の風潮も」  空になったカップの中で白銀のスプーンをくるくる回すと、チリンと澄んだ音が鳴った。 「藤野谷の実家は名門なだけにもともと『運命のつがい』をめぐるトラブルが多かったようで、そういう話題を避けるためにあえてベータの俺に絡むんです」  嘘ではなかった。藤野谷家に『運命のつがい』をめぐる問題はあったし、藤野谷自身も知らないが、その問題には俺も関わりがある。誰にいうこともできない秘密だから、逆にごまかすのはうまくなった。重要な嘘を貫きたければ、偽りの核心のところで、つねに本当のことを話していればいいのだ。  そうすることで自分自身すら騙せるようになれば御の字だが、俺はまだまだ修行が足りないらしい。 「ふうん」マスターの眼が俺を観察するかのようにさらに細くなる。 「名族となるといろいろあるそうだからね」  ためらいを感じ取ったのか、この話題に飽きたのか、聞きたいことを聞き出したからか、マスターはやっと立ち上がった。 「そのスプーンの作家だけど、土曜の夜がオープニングレセプションなんだ。実用品から大きな彫刻まであって、けっこういいよ。時間があれば来てよ。黒崎もいるし」 「ええ――そうですね……」  曖昧に返事をしたとき入り口の扉が開いた。入ってきたのは年輩の男性で、これまたカフェ・キノネの常連だ。以前、大学教授だとギャラリーレセプションで紹介されたことがある。大学町という土地柄、住民は学生のほか教師や職員など学校関係者が多く、この店の常連客もたいていそうだ。 「おはようございます」  挨拶しながらマスターはカウンターの裏側へ入り、俺も立ちあがって支払いをすませた。財布をしまっているとマスターが顎をあげ、薄紙の包みを押しつけてくる。無言のままにこりとして、包みをふところに入れるしぐさをする。  俺はとまどったが、胸ポケットに包みを押しこんだ。

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