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【第1部 カフェ・キノネ】4.錫のスプーン(後編)

(逃げるのか、サエ)  クラクションが鳴り、はっと我にかえった。信号は青だ。ぼんやりしていた。  俺はあわててペダルを踏む。国道から脇道にそれ、左右に森をみながらしばらく走る。やがてたどりついた小さな門の間では、茶色く枯れた草に石畳が埋もれている。夏に一度刈った草がしぶとくまた生えてきて、秋になって死にかけている。  小道の先に家がある。  コンクリートの箱のようなそっけない形をしているが、頑丈な家だ。俺がここに住めるのは一族に情けをかけてもらっているようなものだったが、場所も広さも、それにこの家によって得られる孤独も、俺にはありがたかった。  ロードバイクをガレージへ入れ、ヘルメットを脱ぐ。ガレージから直接家の中へあがった。正面の玄関を俺はめったに使わない。この家は全体の気密性が高く、空調は完全だ。ヘルメットの下にかぶっていたキャップをとり、靴下を脱ぎ、さらに他の服も脱ぐ。  シャワーブースのドアをあけたとき、キノネのマスターがくれた薄紙の包みを思い出した。とりあえず洗面台に置いて熱いシャワーを浴びる。満足いくまで全身を洗い、歯を磨いた。  シャワーの栓をとめ、顔に垂れるしずくを両手でぬぐう。自分の匂いを嗅ぎたい衝動がつのってくるが、我慢する。どうしてなのかわからないが、これはいけないことだと思うのだ。  洗面台の前で体を拭き、アルミパウチの封を切った。半透明のパッチを首のうしろと腋の下に貼り付ける。青と白のカプセルを水無しで飲みこむ。  カプセルは発情周期を調整するホルモン剤で、パッチは中和剤だ。薬剤は皮膚から徐々に体内に浸透し、時間をかけてゆっくり溶ける。そしてオメガ特有の匂いを他人に気づかれないレベルにまで下げる。貼るには多少コツがあるが、俺は長年このパッチを使っていて、いまや医者や看護師よりうまく貼れる。  それから香水瓶の蓋をあけ、一滴ずつ体につけた。これが最後の手順だ。足首。肘。ウエスト。首筋。六角形をした濃い紺色のガラス瓶に浮き上がるTEN-ZEROの文字から俺は眼をそらす。藤野谷は気づいただろうか。  儀式めいた一連の手順がおわると、やっと、肘をあげて鼻に近づけ、匂いを嗅ぐ。自分の匂い――正しくは、俺が自分の匂いと「決めた」匂いを確かめるために。  鏡に映る俺の顔はすこし骨ばって尖っている。体型は大柄でも筋肉質でもない。いくらトレーニングしてもそうなれないのだ。かといってカフェ・キノネのマスターのような柔和で中性的な雰囲気もない。  主治医によればこれは中和剤の副作用なのだという。パッチを貼るのをやめれば徐々にオメガらしい容姿に戻るだろうというのだが、そもそも俺が持っていたかもしれない「オメガらしい容姿」が何なのか、自分ではまったく想像できなかった。中和剤をやめるのは|発情期《ヒート》の間だけだが、この時期は自分の外見にかまっている余裕などなくなる。  それに現代社会ではアルファやオメガ「らしい」容姿とか、|多数派の《よくいる》ベータ的な外見などは重要なことではないとされている。匂いと能力、つまりオメガは男性でも時期によっては妊娠することができ、アルファは集団の方向性をまとめるのに秀でているなどといった違いがあるにしても、容姿や外見は服装やしぐさ、生活スタイルに依る部分が多く、オメガはこうだとかベータは平凡だとかいえない、ひとそれぞれなのだ、といわれている。  みんなそれぞれ自分らしく、もって生まれた本来の自分として、幸福に健康に生きるべきだとされている。ひとつの性が抑圧されたり、奴隷化されるような、かつての悲劇的な時代はもう去った、と。  だが世の中にはまだそうは考えない人々もいて、俺の一族はその一例だった。しかしこれも俺が一族の最後のひとりになれば終わるだろう。ベータに偽装したままでパートナーを作ったり、結婚して家族を持てると考えられるほど、俺は楽天的な性格ではなかった。  髪を拭きながらリビングに戻るとホームAIのランプが点滅していた。ビデオ通話で呼び出しがかかっているのだ。俺はシャツを羽織っただけの恰好で液晶画面を覗き、アカウント名に思わず舌打ちした。藤野谷だ。連絡は暁を通せとあれほどいったのに。 『なに』  ビデオをオフにしたままチャットの画面をひらき、キーボードを叩く。  ほとんど秒速で返事がきた。 『サエ、どうして出ない』 『取り込み中だった。何の用』 『確認したくて』 『メールをくれればいい』 『顔をみて話したい』 『あとだ』 『悪いがあまり時間がないんだ。ちょっとでいい』 『時間がないならメールにしろ』 『サエ、頼むよ』  俺はためいきをついた。藤野谷の実物がいなければあの〈色〉や匂いに惑わされることはないから、ネットはまだましというものだ。シャツのボタンをとめてビデオをオンにする。世間はとっくの昔にオフィスタイムだ。スーツ姿の藤野谷が画面にあらわれる。タイムラグはほとんどなさそうだった。間髪入れずにこういわれたからだ。 「もしかして起きたばかり?」  俺はカメラを切った。「出かけて帰ってきたところだ」 「サエ、画像切るな!」スピーカーから慌てた声が流れる。 「こっちの画像もオフにしただろ!」 「声だけで十分だろう」 「顔をみて話したいんだ」 「おまえが寝起きだとかいうのが悪い」 「髪が濡れてるから聞いただけだ」  思わず髪をかきむしる。ブロウなんて洒落た真似はしないのだ。 「藤野谷、おまえ忙しいんじゃないの? どこみてるの?」 「サエ、カメラつけて」 「やだね」 「サエ」  藤野谷の口調がわずかに重くなった。スピーカーの性能を落としたほうがよさそうだ。聞こえすぎる。  俺は眼を閉じ、深呼吸をひとつする。カメラをオンに戻す。藤野谷の満面の笑みがみえ、胸の奥底がさわぐ。いいかげんにしろと思った瞬間、つい口走っていた。 「どうしてそんな顔なんだおまえ」 「俺の顔に問題あるかな」藤野谷は快活な口調でさらりという。 「これまで文句をつけられた経験はないが」 「顔の話じゃない」 「顔っていったじゃないか」 「どうしてそんなにヘラヘラしてるのかっていったんだ」 「感動の再会を果たしたから」 「俺は感動してない」 「そう」とたんにすっと藤野谷から笑みが消えた。 「本当のところは、俺はサエに再会したことを感動なんて軽いものではなくて、もっと真剣に考えている」  ためいきをつくつもりなどなかったのに、そんな息がもれていた。 「そういうのをやめろと昔から何度も……」 「ああ、わかってる」  藤野谷は手をふる。目線に威圧感がこもる。  「またサエと一緒に何かできると思って嬉しいんだ。ふざけているわけじゃない。依頼を受けてくれてありがとう」  素直に礼をいわれてとっさに返事につまった。仕事だからな、とつぶやいた言葉は相手に聞かせたかったわけではない。だが藤野谷は聞き逃さなかったらしい。 「内容が退屈だったらやる気なんてないくせに」といった。 「そんなことはない」  反射的に否定して俺はやっとパソコンの前に座った。もうひとつのモニターに昨日受け取った資料を呼び出してページを繰る。 「もらったものは全部読んだ。コンセプトは悪くないが、この資料だけだと、俺がこれまで公開した動画をどう使えばいいのかはよくわからなかったし、俺の作品がどういう形でここに組み込まれればしっくりするのか、いまいち不明だ」 「サエ、」  藤野谷が何かいいかけるが、かまわず続ける。 「TEN-ZEROは創業当時からいままで広告代理店を使っていないともっぱらの噂だが、ほんとうか? これは社内で作っている? プレゼンシートはレイアウトのおかげで洒落てるが、一歩間違えるとよくある内容をいいかえてごまかしただけのものになりかねないぞ。三性の縛りからの解放だとか、もう隠れなくてもいいなんて話はこの十年色々なやり方で手を変え品を変えていわれているからな。みんないいかげん飽きていると思わないか? ただの差別化ではなくて根本的に新しい考え方やライフスタイルを提案したいなら――」 「サエ、ありがとう」  モニターからビデオ画面に視線をもどす。藤野谷の眼が笑っている。 「相変わらずなのが嬉しい。それに顔をみて話す方がいい」  俺は唇をかんだ。学生時代と同じようにまくし立てた自分に気がつき、一瞬しまったと思った。だが藤野谷はそんなことは気にしていないようだ。 「実はTEN-ZEROは、広告部門に関しては、声をかけたフリーランスは全員入社するよう誘っている」藤野谷は一瞬目線を横に動かした。時間を気にしているのかもしれなかった。 「サエの代理人に連絡をとったときも最初に考えていたのはそれだった。もしうちのAIチームが間違っていて、断片(フッテージ)の作者が別人だったとしても、相手が腕のいいデザイナーであることは確かだから問題はなかった。だがあのカフェに来たのはサエだった」 「おまえの会社になんて入ら――」俺は反射的に声をあげたが、ふと耳にとまった単語をくりかえした。 「AIチーム?」 「アニメーションの作者を特定するために社内で独自AIを設計した。商業的な制作物を何も手掛けていない作家という可能性もあったが、解析結果をみてAIはそう判断しなかったからな。それでネットのデザインアーカイブにある成果物も解析して、結果を比較した」 「――頭がおかしいんじゃないか」  言葉を選べなかった俺の顔を藤野谷がみている。俺は彼の視線をはずそうと努力する。下唇のまるみや、あごの形から。藤野谷の唇のはしがかすかにあがる。造作はどこからみても絵に描いたようなハンサムだが、表情が加わるとその度合いが数倍になる気がする。俺の胸の内側がばくばくと脈打つ。  だから嫌なのだ。 「褒め言葉として受け取るよ」  藤野谷はさらりと答えた。本気でいっているらしかった。 「AI研究は製造開発で必須だから、流用しただけだ。――サエ、悪い。時間切れになってしまった」  その瞬間、足元から残念な思いがわきあがってきたようで、俺は困惑する。藤野谷と話すといつもこんな気分になるから嫌なのだ。ずっと顔をみていたい気持ちになる。馬鹿げている。  そもそも俺がこんなふうに誰かと話したのは何年振りだろうか。第一それ以前にも――他にこんな相手がいただろうか。 「何の用だったか聞いてないぞ」  引きとめるような調子にならないよう、ぼそぼそと俺はつぶやいた。 「確認だっていっただろう」 「何を」 「昨日会ったのが夢でないことの確認」 「藤野谷、」  俺は画面から顔をそらそうとしたが、うまくいかなかった。藤野谷はまだ俺を見ていた。 「昨日は俺にとっても不意打ちだった」という。「何しろ十四歳のアートキャンプ最終日にすっぽかされて以来、何度もサエに振られているからな。もう会えないと思っていた相手に会えたら、一度じゃ信じられないだろう?」 「藤野谷、周囲が誤解するだろうが」  ビデオ画面を相手にしているせいか、ひとりごとをいっているような気がした。 「学生の時の話はもういい」 「サエ、ごめん」 「謝らなくていい。おまえの落ち度ではないし」 「その前も」 「その話はやめてくれ」  俺は頭をふった。立ち上がって画面に背を向ける。スピーカーから藤野谷の声が聞こえる。 「サエ。俺は今回は絶対にいい結果に終わらせるつもりだ」  そして通話は切れた。  急にからっぽな気分になった。  俺は手を洗いに行き、水音を立てた。マスターがくれた薄紙の包みは洗面台に置きっぱなしだ。破ると白銀色のスプーンが出てきた。形と重さから予想はしていたが、困惑もした。実用品といっても作家が手作りした食器だからそれなりの値段がするはずで、ぽんとくれていいものではないものだろうに。  スプーンの形がカフェで見た時とすこしちがうような気がした。曲がりやすいから気をつけてとマスターにいわれたが、さては胸ポケットに突っこんだときにさっそく曲がってしまったのだろうか。  スプーンの柄を水平にもって眼の前にかざす。ゆがんでいるような気がする。この程度で曲がるのなら戻すのも難しくはないかもしれないと考え、いや、そうとも限らないぞと思い直した。もっとひどくなるかもしれない。  一度変わってしまった物事はもとの通りには戻らない。  俺はしばらく突っ立って水音を聞き、我にかえって栓をしめた。部屋は静かだ。俺しかいない。

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