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【第1部 カフェ・キノネ】7.アフリカの雨(前編)

「佐枝さん、何か飲みませんか?」  手持ち無沙汰に壁際に立っていた俺に鷹尾(たかお)がたずねた。  隣で三波(みなみ)がスパークリングワインのグラスを片手に軽く目礼する。ふたりとも今日紹介されたTEN-ZEROの社員だ。鷹尾はシンプルなタイトスカートにブラウス姿、三波はカジュアルな細いストライプのジャケットスタイル。どちらもオメガ特有の柔らかい雰囲気をまとっている。 「アルコールが飲めないので」と俺は短く答えた。 「マスターの手が空いたらコーヒーでも貰おうかと」 「僕も飲んでみたいな」と三波がいう。「ここのコーヒーは美味しいとボスがいってましたよ」 「私は夕方いただきました。とても美味しかった。香りがすばらしくて」  鷹尾が返す。おっとりした印象を受ける女性で、とりたてて美人ではないが、とても雰囲気がいい。一方で三波は整った鋭い美貌の男だった。どちらも俺より何歳か年下だろう。  ふたりとも藤野谷が連れてきた「チーム」の一員だ。夕方の打ち合わせのときにいたのは鷹尾の方で、三波はレセプションから加わり、さっき紹介されたばかりだ。今回のプロジェクトチームにはこのほかに男女ふたりずつのベータがいるが、三波と入れ替わるように帰っていった。  ギャラリーは賑わっている。奥に切り株のような台座が据えられ、赤みがかった金とクロームの銀、そして白銀の、三色の金属を象嵌した巨大な球体が鎮座している。他にもなめらかにからみあい、融合する金属のオブジェやレリーフ。手前のコーナーにはスプーンや盃、銘々皿などが並び、いくつかの作品にはすでに買い手がついた印があった。  キノネではあまりないくらい盛大なオープニングレセプションだった。カフェでみかけたことのある常連客もいるが、見慣れない顔がほとんどで俺は居心地が悪かった。来場者はアルファとオメガのカップルが多く、そのせいもあったかもしれない。作家は小柄なアルファの女性で、夫であるオメガの男性と一緒だった。きっとふたりの共通の友人が招待されているのだろう。 「賑やかなのはいいけど、カップルばかりで、独り身は肩身がせまいですよ。ギャラリーオープニングっていつもこうなんですか?」  三波がワインを飲み干して俺に聞く。 「いや、そんなこともないですが……」 「チームで来るんじゃなかったら僕は苦手だな。鷹尾がいてよかった」 「あらあら、私に頼ってばかりじゃない」 「いいだろ? オメガ同士、役割を分け合わないと」  口調は気安く、このふたりの間でよく交わされているじゃれあいのように見えた。鷹尾が俺にあきれたでしょう、といった眼つきを送ってくる。  昨今はビジネスの現場で「オメガの宥和力」を使ってチームをまとめるのは常識だ。アルファの積極性や攻撃性をオメガは緩和して全体をまとめる働きをするから、オメガが適切な比率で加わる組織は成功する、という学説もある。しかしオメガは一定期間、仕事から離れざるをえない時期がある。 「だからふたりなんですよ、僕ら」  最初にレセプションで紹介されたとき、さわやかな笑顔で三波がそういった。 「幸い、鷹尾とはヒートの時期が同期しないらしくて」 「私たち気が合わないんです」鷹尾はいたずらっぽく笑った。 「休みがかぶらなくてちょうどいいですね」 「おかげで〈ハウス〉で顔を合わせるなんて気まずいこともないしね」 「あら、やめなさいよ」  困ったような顔をして、鷹尾は三波に肘を当てるふりをする。 「下品ね。佐枝さんに聞かせるような冗談じゃない」  三波は鷹尾に向かって親指を立てるとドリンクカウンターへと歩いていった。  〈ハウス〉は発情期(ヒート)のオメガと許可を受けたアルファだけが使える社交場だが、おなじ言葉が過去に持っていた暗いニュアンスとは無縁になっている。いわゆる「性解放」後の現代では、〈ハウス〉は昔のように隠された淫靡な施設でも、悲劇の現場でもないし、口に出すのがはばかられる場所でもない。  とはいえ、穏やかな性衝動しかないベータの前でそんな話をするのはあけすけにすぎるかもしれなかった。 「まったく」  同僚のすらりとしたうしろ姿へ向けた鷹尾の口調に、俺も思わず笑ってしまう。 「仲がいいですね。いいチームのようだ」  と、鷹尾は一転して真顔になった。 「ええ。以前の会社ではオメガ同士で同じ配属になることがなかったので、新鮮は新鮮です。それから三波は軽そうですけど、ああみえて繊細なんですよ。今日初めてお会いしたのに、すみません。佐枝さんがあの動画の作者だと知って変な感じに緊張してるんです」 「いや――」俺は不思議に思った。 「どうして?」 「ファンなんですよ。彼、あなたの動画を冗談抜きで何百回も見てますから」 「あ……そう……」 「だから今回、一番喜んでいるのは三波です。私もですけど、ボスとも古くからのお知り合いだと伺いましたし――あ、私がこれを話したのはオフレコで」  俺は了解のしるしにうなずき、三波が新しい飲み物をもって戻ってくるのをみつめた。給仕のように片手に新しいグラス、もう片手にビュッフェの皿を持っている。歩調はリズミカルで優雅で、まるでダンサーのようにみえる。彼のような男は〈ハウス〉でも引く手あまただろう。  一族に生まれなければ三波のようになれたのだろうか、という思いが一瞬よぎり、俺はまばたきしてその考えを払い落とした。  ここ何十年かで世界はずいぶん変わった。  ひと昔前ならいざ知らず、今ではパートナーのいないオメガでもヒートを怖れることはないのだ。強いヒートの衝動を無理に抑制したり、自分だけで処理するものでもないとされている。相手がいないオメガは〈ハウス〉へ行けばいい。よほどの田舎でないかぎり、〈ハウス〉はダンスフロアやバー、レストランやミニカジノがある歓楽場になっていて、そこにホテルが付属している。  オメガならどこのハウスも自動診断を受ければ格安で使えるし、名乗る必要もない。望むなら顔を隠すことだってできる。一方、アルファはハウスごとの登録と証明書が必要で、避妊の責任もアルファにある。ヒートのオメガがアルファと一時的な関係を持つのは後ろめたいことでもなんでもないし、仮にハウスでオメガが傷つくような事故や事件が起きれば、評判を落とすのはアルファの方だ。  それにオメガはヒートの時期以外、性的には淡泊で、極端に奥手な者も多かった。〈ハウス〉の出会いからカップルになるケースは多いし、中には「運命のつがい」と出会う者もいるかもしれない。カップルでハウスを使う者もかなりの数いる。年に三回~四回到来するヒートの時期、オメガはどんな仕事も免除され、結婚していればパートナーのアルファも一緒に休暇がとれた。 「オメガが生きやすい社会はすべてが生きやすい社会」そんなスローガンが掲げられるようになったのはもう半世紀以上昔のことだ。アルファの名族が主導して、世界はゆっくり変わっていった。三性をめぐる問題がなくなったわけではないが、少なくともオメガがアルファの所有物として公然と奴隷化されたり、売買されるようなことは、もう誰も正当だと認めていない。 「佐枝さん、コーヒー、お好きなんですよね」  三波に話を振られて俺はあわてて注意を戻した。 「ああ」 「特に銘柄の好みがあるんですか? 僕はまったく詳しくありませんよ。ボスもコーヒーが好きで、キリマンジャロがどうとかアラビカが何とかいうんですけど、呪文みたいですよね?」 「キリマンジャロはタンザニアのコーヒーのブランドだよ。アラビカは品種名だ」 「タンザニアって南米でしたっけ?」 「いや、アフリカだな」  三波の口調には邪気がない。俺はほほえましく思った。藤野谷が無能な人間を身近に置くとは考えられないから、頭は切れるにちがいないが、関心がない事柄には余計な知識を持とうとしないタイプのようだ。そうはいっても関心の幅はかなり広いように見えるし、そうわかっていれば、同じ仕事をするときにつきあいやすい。  とはいえ、初対面の人たちと話をするだけでは時間がゆっくり流れすぎるレセプションで、俺は手持ち無沙汰のまま来なくても良かったと考える。その次に、藤野谷のおかげで来ないという選択肢は消えていたことを思い出す。何気なく部屋を見回して出席者を観察していると、反対側の壁の前にいる男たちがこちらを見た。  俺ではない。アルファのふたり連れが三波と鷹尾、オメガのふたりを見ているのだ。  俺はそっとその場を離れた。ベータのふりをすることの利点はこの手のわずらわしさを逃れられることだろう。もっとも俺が――ふつうにオメガとして生きていれば、そもそもわずらわしいとすら、思わないのかもしれない。  たまにあることだが、空虚でさびしい気持ちになった。  マスターのコーヒーを飲みたかった。でもみるからに忙しそうで、頼むのもはばかれる。明るいギャラリースペースで所在なくしているのも嫌で、俺はカフェの空いたテーブルに座り、ガラスに顔をよせて庭を眺めた。芝生の一部がライトアップされ、テラスに並んだ丸テーブルを照らしているが、人影はみえない。  透明な壁の向こう側では、夜の暗がりにユリノキが静かに立っている。  外へ出ると風がひやりとした。上着をもってくればよかったと思ったが、ひといきれがこもる室内に戻る気にはなれなかった。ユリノキのそばまで行って、幹にもたれて明るい窓の方をみる。暗い夜のなか、きらきら光る窓の内側で、談笑する人々は楽しそうだ。俺も外からはそう見えていただろう。  口にいれるものが欲しくなってポケットを探した。アルコールを断るのは抑制剤や中和剤といった薬との相性が悪いせいだが、飲めないわけではないので、こんな場所に来ると口寂しくなることが多い。取り出した飴の包み紙を剥こうとしたとき、気配を感じた。  あの〈色〉が視界に降ってくる。  俺は反射的に逃げようとして思いとどまった。今回はそんな形でなく、うまくやると決めたのだ。 「人気者がこんなところへ出てきたら、追っかけがくるぞ」  ふりむかずに、ふざけたような口調でいった。 「サエ」  藤野谷の足音はほとんど聞こえなかった。だが俺にはどこにいるのかはっきりとわかっている。あと五歩。あと三歩。そして俺のとなりに立つ。  軽い笑いの気配がした。 「気づかれないように近づこうとしたのに、そんなに俺ってわかりやすい?」 「おまえの雰囲気、図々しいから」 「サエ、言葉の使い方おかしくない?」 「おまえがおかしくさせてるんだろう」  俺は横をみなかった。藤野谷もユリノキにもたれたのがわかる。うっかりすると肩が触れそうだ。身じろぎして体をずらした。ふいにむきだしになった土と枯れた木の葉の匂いが鼻をつき、それにからみあうように、甘さと爽やかさの混ざった香りがたつ。  藤野谷の匂いだ。

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