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【第1部 カフェ・キノネ】8.アフリカの雨(後編)

「いいギャラリーだ。隠れ家のようで、開かれてもいる」  ユリノキにもたれたまま藤野谷がいった。俺は横を向く。藤野谷の手は空だった。 「飲まないのか?」と俺はいった。 「サエは飲んでないだろ」 「俺は外では飲まない」 「だからさ。覚えてる、前もそうだった。飲めないわけじゃないだろう?」  俺はためらった。「多少はね。弱いんだ」と答える。 「だったら飲まなくて正解だ。それに今日も自転車で来ているんじゃないのか?」 「どうして知ってる?」  驚いて聞き返すと、藤野谷は「この前見たんだよ。サエのメット姿」とこともなげにいう。 「このあたり山だろう。国道、S字もなかったか? 夜は危なくないか?」  どうしてそんなに心配するんだ。俺は肩をすくめて正面に向き直り、ギャラリーから放たれる光をみつめる。 「慣れてるから大丈夫だ。それにな、俺は都会育ちじゃないんだ」という。 「そうだったな」藤野谷はふふっと笑った。 「アートキャンプで最初に会ったとき、サエは稲刈りの話をしてた。びっくりしたよ」 「そんな昔のこと忘れろよ」 「無理だな」  藤野谷は低い声でいった。 「サエに会ったのは俺が最初に――荒れていた時期だった。だから忘れない」  すこし冷えてきた。俺は体を守るように腕を組み、話を変えた。 「ご両親は息災?」 「ああ、父は相変わらずだし、母も元気だよ。早く身を固めろとうるさい」 「そう」 「実際、最近は彼女の気持ちも理解しなくてはと思っている。藤野谷家には子供が必要だ。伯父が消えて、俺の父があれで、俺まで独身ではまずいし、それに俺も子供は欲しい」 「ああ……そう」  思いもかけず、腹の底の方にガツンと殴られたような衝撃があった。  藤野谷の子供か、と俺は思う。ずいぶん遠くに来たような気がした。 「よかったな」と俺はいう。 「どうして?」いぶかしげな声が返ってきた。 「昔は子供なんていらないといっていただろう。義務になっているのはこりごりだって」 「よく覚えているな」  おまえの話したことなら。そう思ったが、口には出さなかった。 「相手は?」  俺は軽い調子でたずねる。深刻にとられたくなかった。数年ぶりに再会して、身辺について話している友人同士の、ただの世間話だ。  藤野谷はそわそわと腕を曲げ伸ばした。 「はっきり決めた相手は、まだ……ただ俺の立場上、時期を逃すと外野が勝手に決めようとするから、そのくらいなら俺が自分で選ぶ。それに自分の子供の親になる人間なら、少なくとも将来にわたって友人になれるような相手じゃないとだめだ。伯父に起きたようなことを繰り返すつもりはないし、だから親族に外堀を埋められる前に手を打つ」  俺はうなずいた。それ以外に何ができるだろう。 「アルファの名族も大変だな。でも家まで仕事場みたいにするなよ」 「家庭も会社経営みたいなもんだろう」 「おい、藤野谷――」 「いや、冗談だよ。それに会社は売ったりつぶしたりできるが、家族はそうはいかない」  藤野谷はちらりと俺をみた。さぐるような、奇妙な眼つきだった。 「サエ、そんな顔をするなよ」 「俺はどんな顔もしてない」 「そんなことない。打算で決めるなんてだめだとか、俺に説教したがってる顔だった」 「おまえに説教してどうすんの」 「今日、こんなことを話す気はなかった。俺の話なんてどうでもいいんだ、サエ」  ふと俺はむきになった。 「そんなことないだろう。聞かせろよ」 「何を?」 「えっと……どういう人と結婚したいのか、とか……」  ふっと藤野谷は唇の端をあげて笑った。ひどく色気のある笑みにみえて、俺はどきりとする。 「聞きたい?」 「ああ――まあ」 「候補は何人かいる。母や親族の兼ね合いもあるからな。ただそうだな――全力でなくていいから、俺をそこそこ好きになってくれて、藤野谷家の圧力にめげずにいてくれて、俺の子供を産んでくれる人。俺が友人として尊敬できて、欲をいえば仕事も多少一緒にできるといい、そんなオメガの誰か。運命とか、そういうのはあてにならないから、いい」  俺はどんな表情をしていたのだろう。藤野谷はまた笑った。今度は口元だけでなく、眼も笑っていた。目尻に細かく皺がよる。 「そんなに呆れないでくれ」 「呆れてない」 「そうか? ――なあ、サエ」 「なんだ?」 「本当に今日、こんな話をするつもりはなかったんだが……」  俺も藤野谷も並んでユリノキにもたれたままで、たがいの顔は見なかった。空は晴れていて、丸く太った月がちょうど芝生を照らし、木の影がそのうえに落ちている。 「サエが好きだ。ずっと前から」ぽつんと藤野谷がいった。 「でもサエは……俺が思ってるような意味で俺のことを好きじゃないのは知ってる」  俺は黙っていた。そんなことはないと答えることができれば楽だった。あるいはその通りだと答えることができれば、もっと楽だった。  いくつかのありえない可能性が頭のなかを横切った。十四歳の夏、俺がたまたま藤野谷と出会っただけの、ただのオメガだったらどうだったのか。俺が当時から今にいたるまで、ベータに偽装していなければどうだったのか。俺や俺の一族が藤野谷家となんの関わりもなければどうだったのか。俺がおまえの運命のつがいでなければ、どうだったのか……  藤野谷は俺の沈黙をどう受け取ったのだろうか。返事があると期待していなかったのかもしれないし、その声は明るかった。だいたい藤野谷は生来明るくて前向きな人間なのだと思う。だから俺はいつも藤野谷に惹きつけられて、藤野谷の持ちかける話に乗りたくなるのだろう。こいつの船に乗れば俺もどこかへたどりつけると、そんなふうに思えるからだ。 「でも俺はまたサエと会えたし、俺たちは一緒に何かをやれる」と藤野谷はつづけた。「俺たちは一緒に面白いものを作れる。学生のときみたいに。もうサエを追いまわしたりしない。だから信頼してくれ。一緒にやろう」  俺はまたも答えなかった。答えられなかったのだ。 「前にいったよな。俺たちはふたりなら天才になれる」藤野谷は断言する。 「だから今度のプロジェクト、成功させよう」 「ああ」  やっと安全な着地点がみえたような気がした。俺はうなずき、うなずきながらほっとして、なのにとてもさびしかった。体のどこかに穴があいたような気がした。ふいに晴れた夜をうらめしいと思った。雨が降ればよかったのだ。そうしたらこの庭で、藤野谷とこんな会話をすることもなかっただろう。 「俺も一緒の仕事ができてうれしいよ」と返す。少なくともこれは嘘ではない。 「サエがそう思ってくれて嬉しい」  俺はさっきから手のひらで飴を握りしめたままだ。途中まで剥いた包み紙が飴にぺったりくっついている。俺はうつむき、カサカサと音を立てて紙をはがす。藤野谷が俺をみる。 「サエ、何してるの」 「飴だ。口寂しいなと思って、ほんとうはおまえがここに来たとき、舐めようとしてたの」 「それはごめん」 「タイミングが悪いんだ」 「――サエ」 「ん?」 「半分くれない?」  あっと思う間もなかった。藤野谷は俺の手から粉を吹く黄色い飴をとりあげ、口に入れた。唇をふくらませるようにして舐めると、にやりとする。 「林檎味だ」 「藤野谷、おまえな――」 「返すよ」  藤野谷は俺の方へ向き直り、ユリノキの枝の間から射す月明りで、その顔がはっきりみえた。口に指をいれて飴を取り出す。藤野谷の濡れた指の先で飴はしずくの形をしていた。金色に光っている。宝石のようにみえる。 「サエ」  強い声で呼ばれた。抗えないアルファの声だった。金のしずくが俺の唇にさしだされ、押しつけられる。俺は催眠にかけられたように藤野谷の眸をみつめる。眸に金色の筋が一瞬きらめく。その上にあの〈色〉が降ってくる。まぶしい夜の藍色。まぶしくて何もみえない。  俺は思わず眼をとじる。感じられるのは林檎と藤野谷の匂いだけだ。樹皮の甘さに緑の草の爽やかさが調和する。俺の体はぴくりとも動かず、ただ唇だけが半開きになって、舌の上に飴のかたちを感じる。藤野谷の指が俺の唇から顎に触れ、一瞬でぱっと体が熱くなる。俺は飴を噛み砕く。唾液をのみこんだとき、化学反応でも起こしたようにたちまち頭の芯に熱がこもる。 「馬鹿、ふざけすぎだ」  手をあげて払おうとしたが、すでに藤野谷の指は遠のいていた。俺はすぐ前に立つ男の整った顔に、恐れとためらいが刷毛でひいたように流れるのを見た。 「ごめん、サエ」 「飴を半分なんて、小学生かよ」  俺は肩をすくめ、足元の土を蹴る。 「そうだな」藤野谷は薄く笑った。「まったくだ」 「中へ戻ろう。マスターにコーヒーを貰いたかったんだ」  俺はテラスの方へ歩き出す。藤野谷もそちらへ向かったのがわかる。俺の全身の細胞が藤野谷の動きに反応する。体の内側が熱い。何かの前兆のようだ。 「悪ガキみたいな真似する年じゃないくせに」  自分の変調をさとられたくなくて、テラスの明かりに顔を向けたまま俺はいった。いつものポーカーフェイスを保っているかどうか、自信はなかった。いつもの「よくいるベータ」の顔、それだけができればよかった。  藤野谷は俺の斜めうしろでぶつぶつ文句をいっていた。 「俺のことを悪ガキなんていうのはサエだけだぜ。若輩とはいえこれでも立派な経営者なんだ。もう中学生じゃない」 「そりゃよかったな」 「俺たちのプロジェクト、絶対いいものができるぞ」 「だといいな」 「いや、そうなるんだ。だって俺とサエでやるんだから。俺たちは無敵だ」  またも抗いがたい衝動がやってくる。藤野谷の顔がみたかった。ほんとうはいつも、いつまでも見ていたかったのだ。テラスのガラス戸を開けながら、俺はついに誘惑に負けた。ちらりと藤野谷の方へ視線を投げる。  思いがけず目と目が合った。藤野谷はまっすぐ俺をみていた。糸をひくように視線が絡みついてくる。  俺は首をふり、カフェの中へ入った。

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