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【第1部 カフェ・キノネ】9.紅葉の傘

 手がふるえ、ペンが落ちた。  体の内側で渦を巻くような気配を感じる。俺は滑った線をみつめ、指をもむ。首筋に手をあてる。熱がこもったように熱いのに、指先は冷えきっている。  作業中の紙を押しやり、あきらめて椅子を立った。頭が傾き、眼が回った。両足を広げて前にかがみ、息を吐く。肩から背中、腰にかけて、どくんと大きく何かが脈打つ。体内に別の生き物が棲んでいるかのように。  よく眠れないまま深夜に起きあがり、作業をはじめたのはいいが、結局ほとんど進んでいない。俺は首のうしろへ手をやった。いつもならまだ残っている中和剤が皮膚に吸収され、消えている。それなら体を洗って薬を飲むという毎朝の儀式にかかるべきだ。 「カレンダー出して」  ホームAIに声をかけて洗面所へ行くと、リストバンドをはめて血圧と心拍、体温を計った。叔父の(かい)には寝る時もつけろといわれている器械だが、俺は手首を圧迫されるので苦手だった。鏡のはしにグラフとカレンダーが浮かび上がる。前回のヒートは二カ月前だ。前兆が来るにも早すぎた。何年もの服薬のおかげで、ふだんは半年に一度あるかないかなのに。  もう一度カレンダーをみつめて、迷いながらリビングへ戻り、峡にメッセージを送った。すぐに着信があり、声だけが響く。 「零? 早いな」いつもの穏やかな声だった。 「昼頃そっちへ迎えに行くつもりだったが、どうかしたのか?」 「おはよう。薬の量をききたくて」  とたんに叔父の声が固くなった。 「どうした?」 「前兆がきてる」 「もう? おい、早すぎるな……何かあったか?」 「いや――いつもと同じ数でいいか? それとも増やすか、飲まない方が? こんなことはずっとなかった」 「きつそうか?」 「そんな気がする」  答えが来るまで間があいたが俺は黙って待った。こんな年になっても峡の声を聞くと安心した。子供のころから俺をみているから、いちいち説明をする必要がないのも助かる。それにどのみち今日は彼の車で出かける予定だったのだ。  スピーカーに声が戻ってくる。 「中和剤はなしにして、カプセルだけ飲むんだ。記録を送ってくれ。眠かったりだるいようなら横になっていなさい。これからそっちへ行く」 「ゆっくりでいい」 「どうせ|佐井《さい》へ行く日だ。関係ない。おやじとおふくろも|銀星《ぎんせい》と待ってるし、早くいけばむしろ喜ぶ」  俺のヒートはたいてい軽く、一日か二日であっさり過ぎるのがふつうだった。過去数回の例外をのぞいては。  その例外が起きる時にはどんな条件があるか――藤野谷の顔が頭に浮かぶが、俺は考えないことにした。どうせ峡が来れば白状させられることになるだろう。  やはり失敗だったと思う。後悔しても、もう遅い。俺はシャワーを浴びて着替え、リビングで待った。腕を上げて匂いを嗅ぐ。TEN-ZEROの香りはオーダーメイドだ。各人の体臭と同化して、香水だとわからないほどの匂いにまで調整できるのだが、中和剤のパッチを貼っていないせいか、今日の俺の匂いはいつもとすこしちがうようだ。ソファにだらしなく座っていると自然に眠くなる。  ふと懐かしい空気を嗅いだ気がした。 「社会が長らく抱えてきた問題の解決……アルファ、ベータ、オメガの三性すべてが幸福であってこそ真の発展がありうるという思想に到達するまでに途方もなく長い年月を要し……基本的人権というアイデアの誕生があって……」  階段教室はいつも煙った匂いがして、薄暗い。俺はあくびをかみ殺している。すり鉢状の講義室の底で教授が話すのをぼんやり眺める。眠いのはきっと昨夜おそくまで絵を描いていたせいだ。教授が話す内容やゆったりしたリズムも俺の眠気を増長させている。必須の教養科目なのにこのていたらくでいいものか。  とはいえ俺の視界に入る他の学生の後頭部もずっと揺れながら前に傾いている。この講義自体にも眠気をもよおす仕掛けがあるにちがいない。 「もちろん人間の幸福のありようはひとそれぞれで、一様に決められるものではない。しかし我々はみな最低限自分自身で所有しているものがある。それはなにかというと、つまり自分の身体だ」  学生の反応などおかまいなしに教師は話し続ける。メガネをかけた顔立ちは知的で誠実そうで、俺は好感を持っていたが、それでも眠くなる時は眠くなる。大学生というのはしょうもない生き物だ。 「個人の身体の所有はそのひと自身に属し、他の誰かのものにはならない……これが現在我々が人権と呼ぶ考えの根底にあり……アルファ、ベータ、オメガという三性すべての生活はこの思想を根拠に成立しているわけだが、現在ではきみたちがこれを意識することはめったにないだろう。たとえば……」  教授の声は右から左に素通りした。俺はなかば夢うつつになりながら昨晩描いた絵について思い出していた。  そのとき、いきなり氷を首筋に入れられたかのような衝撃が走った。  俺はそっと頭を起こした。扇形に広がった教室の上の方にまごうことない気配がある。  あいつだ。  無意識に首を縮めるような動作をしていたのに気づき、姿勢を正す。長年しみついた偽装というのはありがたい。うたたねから目覚めたようなていでノートをめくってみる。あいにくねじくれたような文字が走っているだけだ。  タイミングよく上から声が降ってくる。 「サエ、居眠りしてたな」  声はつぎに俺の横まで降りてきた。藤野谷が笑っている。失礼なくらい嬉しそうな表情だ。 「どうして笑ってるんだよ」と俺は小声でぼやく。 「優等生のサエが居眠りしているからだ。上から見て眼を疑ったよ」 「あまり寝てないんだ。おまえこそ遅れてるぞ」  にらみつけた俺の視線を藤野谷は受けながした。 「この教授、元ネタはいつも同じ本だからな」とタブレットをスワイプし、俺にネタ本らしき学術書の表紙を見せつける。 「もう読んだし、今日は最後だけ出て、感想書けばいいかと思って」 「要領のいいやつは頭に来るな」 「サエにも貸すよ」 「いらん。おまえの仲良し連中が面倒くさい」  俺は呆れたしるしに手を振るが、藤野谷はおかまいなしで、こんなことをいう。 「気にするなよ。俺のいちばんの仲良しはサエだから」  車が敷石を乗り越えた衝撃で俺は眼を覚ました。 「零、もう着くぞ」  峡の眼がミラーごしにのぞいていた。俺が生まれたときからすぐ近くにいる顔だ。見慣れてなんともおもわないが、俺とまったく似ていない。車は佐井家の門を通り抜けたところだった。道に沿って竹の生垣がのび、外の景色をさえぎっている。太陽はちょうど中天にあり、空は高く抜けるようだ。生垣を通り過ぎた先で、真紅の紅葉が白い砂利の上に枝をのばす。母屋がその先へあらわれる。  車寄せにすばやくいつもの世話係が寄ってきて、キーを預かった。祖父の家の使用人は何年も変わらない。顔はよく知っているが、俺は一度も名前を聞いたことがなかった。 「大丈夫か?」と峡がきく。  過保護だな、といつものように俺は思うが、峡に気遣われるとほっとした。家族の中で守られている安心感は何にも代えがたい。 「ああ。少しふらっとするだけだ」 「まったく、藤野谷に飴を舐めさせられたって? あとで話をきかせてもらうからな」 「じいちゃんに余計なことをいうなよ」  俺は峡と並んで母屋へ向かう。峡の背丈は俺とあまり変わらない。俺は峡を叔父と呼ぶが、これは書類の上の話にすぎない。戸籍上、俺はすでに物故者となった峡の兄の子供として生まれ、それから峡の両親、つまり佐枝家の養子になったことになっている。しかし実際は峡と俺に血のつながりはない。これらの書類の操作は俺の本当の出自――佐井銀星の実の孫――を世間から隠すため、生後間もなく行われた。  正直なところ、俺は峡を年の離れた兄のように思っている。佐枝の両親、つまり峡の実の親は俺を実子のように育てたからだ。  佐枝家は佐井家の家来筋で、何世代も佐井家の乳母や家令をつとめたベータの家系だ。俺はベータの家庭に久しぶりに生まれたベータの次男のようにごく当たり前に育てられた。定期的な通院や検査、服薬が欠かせないことをのぞけば、他の子供と変わりなかった。  すこし違っていたところといえば、鉛筆やクレヨンを持たせたら最後、ずっと絵を描きつづけていたことくらいだろうか。十四歳の夏休み、俺にサマースクールのアートキャンプへ参加しないかと勧めたのは母だった。  そしてその夏の出会いが、いろいろなことを変えてしまった。 「零、元気か?」  祖父の銀星はいつも碁盤の前に座っている。碁盤には石が並んでいるが、祖父の手はほとんど動かない。きちんとなでつけた髪は生糸のような艶のある白で、背筋がまっすぐ伸びている。痩せて眼がくぼんでいるが、まだかくしゃくとしてみえる。  銀星は佐井の現当主で、なおかつオメガだ。佐井は一応名族(クラン)のうちに入るのだろう。しかし佐井家のような家系があることをアルファクランの多くはずっと伏せている。  だが俺にとってはそんなことはどうでもよかった。銀星は俺の祖父で、これは変わらない。そして佐枝の両親と同様、子供のころから俺を可愛がってくれた。俺はみんなに守られているのだ。 「元気だよ」と俺はいう。  祖父は碁盤から視線をはずし、俺をみて、また碁盤に戻す。 「まだベータのふりをしているな。私はもういいといったのに」 「もとはじいちゃんの考えだろう」 「おまえが十六になるまでは。その先はおまえが決めただろう」  最近、銀星は高齢のせいか、何度も同じ話を繰り返すようになった。この会話はたぶん三度か四度目だ。祖父の言葉は正しい。佐井家がオメガの子供をベータに偽装したのはアルファクランから隠すためだったが、それも結婚可能年齢に達するまでのことだった。十六を過ぎた後もベータを偽装する処置を続けたのは、俺が望んだからだ。 「そろそろ、零も考えますよ。もういい歳だ」  俺の後ろで峡がさりげなく口をはさむ。俺は黙ってうなずく。自分でもどうしたらいいのかわからないものについては黙っておくに限る。本音のところでは、俺は絵を描いたり制作ができる環境にいられればそれでいいのだった。ベータにみせかけるためのホルモン剤や中和剤には俺にとって都合の良い副作用があった。ヒートの回数や影響が減るのだ。 「つい何日か前、藤野谷藍晶(ふじのやらんしょう)から連絡があった」  祖父がぽつりといった。  俺はどきりとする。藍晶は藤野谷の父親で、現当主だ。 「息子が結婚を考えているらしい、という話だ。和解のつもりかもしれん」 「息子というと、藤野谷天藍が?」峡が眉をひそめた。 「子供が生まれれば、過去は水に流そう、といいたいのかもしれないな」 「いつまでもこだわっているのはむしろあっちでしょうが」  祖父の前に峡が身を乗り出す。憤慨したような勢いだった。佐枝家は佐井家からは遠縁にあたるが、峡は俺と同様祖父の名づけ子だったから、俺よりも実の孫のようにみえるときがある。 「そうなれば零は完全に自由になれる。これをいいたかっただけだ」 「いや、零はもうとっくにそんな必要はないんです。ただ――」  峡はあわてたように言葉を切った。俺はちらりと視線を投げ、もどす。兄弟同然のこの男にしか教えていないことがある。祖父も知らないのだ。 「まあ、藤野谷が遺恨を忘れてくれるなら、文句はありませんけどね」  どうみても文句がないとは思えない口調で峡はいい、それでこの話は終わりになった。  母屋のキッチンは改装して近代的になっている。中から賑やかな声が聞こえる。のぞくと佐枝の両親が大騒ぎしながら餃子の皮を包んでいた。といっても、騒がしいのは母ひとりだったが。 「峡、零! 手伝いなさい、餃子よ」 「あー母さん。零の調子が悪いっていったろ…」 「え?」  母は眼を丸くした。父はその横で黙々と餃子を包んでいる。機械のような正確さだ。ふたりとも外見は峡によく似ている。俺に対して過保護なところもだ。 「零、そうなの?」 「あ、うん、ちょっと……峡に診てもらうから」 「じゃあ餃子はそのあとね。いいわ」  俺たちは廊下をへだてた向かいの洋間へ行った。ドアを締め切り、峡は「服を脱げ」とぶっきらぼうにいう。俺は椅子に腰をおろしてシャツを脱ぐ。峡は簡易診察キットを広げ、俺の手首や胸に器械をセットした。 「で、飴がなんだって?」という。  俺はしぶしぶ答えた。 「藤野谷が舐めたあとの飴を……食べた」  峡は舌打ちした。 「馬鹿か。そいつの唾液がついてるだろうが」 「逆らえなかった」  小さなためいきが聞こえた。 「アルファで、おまえの運――いや、適合者だからな。まあ、そうだろう」  ピピっと峡の手元から音が鳴る。峡は『運命のつがい』という言葉を使いたがらない。 「周期はまだ先なのにヒートの前兆が来たのはそのせいか?」俺はきく。 「たぶんな」峡は器械から伸びた白いテープを破った。 「気分に左右されるから一概にいえないが。にしても零、どうして藤野谷の息子と会ったりしているんだ」  俺は返事を渋った。これを聞けば峡はもっと怒りそうだ。 「偶然だよ。あいつの会社のプロジェクトに参加することになったんだ」 「なんだって?」 「たぶん春頃までかかる仕事だ」 「なんだって…」 「いや、今後はあいつと会うことはほとんどないと思うから、大丈夫だ。飴の件はたまたまなんだ。じいちゃんがいってたとおり、結婚する気があるようだったし」  と、峡はみょうな眼つきで俺をみつめた。 「いいのか?」 「何が」 「だから、そいつが誰かさんと結婚してもだよ」 「いいも悪いも、藤野谷の勝手だろう。俺は関係ない」 「いやこっちはそういうことを聞いてるのでなくて……」  峡はひたいに手をあて、また嘆息した。俺は肌にくっついたままの計器を指でいじる。 「これ取っていいか?」 「ん? ああ……」 「藤野谷もいろいろ大変なんだ。あいつの家がろくでもない話はむかし何度か話しただろう」  俺はシャツのボタンをはめた。指にほてりを感じ、すこし頭がぼんやりしているようだ。典型的なヒートの前兆だった。 「元当主だった伯父さんの相手が運命のつがいと出奔して、いざこざのあげく当主は最終的に行方不明、代わって当主の弟である藤野谷のおやじが継いだのはいいとしても、その、あまり……雰囲気のいい家じゃないんだ。うちとちがって」 「うちはとてもいい家だ。もちろん」  峡は誇らしげにうなずき、俺は先を続ける。 「……だから藤野谷が運命のつがいなんてものはゴミ以下だと思ってたのも無理はないし、長いことオメガ嫌いだったのもしかたない。後者は宗旨替えしたみたいだけどな。結婚するらしいから」 「零……身も蓋もないことを自分でいうなよ」  そんなつもりはなかった。 「身も蓋もなくても藤野谷はそうだった」と俺はダメ押しした。  峡は俺の顔をのぞきこむように体をかがめる。 「なのに、こともあろうにおまえがどうして藤野谷んとこの息子と――アレなんだ」 「俺に聞かないでくれよ。一生会わなければよかったんだ」 「あーでもそれ、元はといえば母さんのせいだからな……」  ロールの回る音がしてキットから処方箋が出力された。峡は器械をしまいこむ。 「帰りに薬をもらって帰ろう。今日は念のため零のところへ泊まる」という。 「過保護な叔父さんだよな。助かるけど」  峡はじろじろ俺をみつめた。 「うん。我ながらそう思う」 「藤野谷がいまだに俺をベータだと信じていられるのも、母さんや峡のおかげだよ」 「零」峡の眼つきがふと真剣になった。 「それがほんとうによかったのか、俺にはわからんよ」 「峡? 零は大丈夫なの?」  廊下に出ると母の明るい声が響いている。 「それに焼かれたいか蒸されたいか茹でられたいかを早く決めて。お父さんが待ちかねているわよ」 「餃子の話だろ? 俺が地獄行きみたいないい方よしてくれよ」  佐枝家は明るい家庭なのだ。暖かい傘に守られるように、実の両親がいなくても、俺はまったく寂しい思いをしないで育った。一方、藤野谷の家は……  一度だけ彼の家へ行ったことがある。高校のときだった。新しい大きな家で、広いガレージが手前にあった。階段や廊下は白を基調にしたデザインで、封を切ったばかりの品物のようなプラスチックの匂いが薄く漂っていた。外では陽気だった藤野谷は家に入ると固い表情になり、黙ってすたすたと歩いていった。そして奥の白い扉を開けて、俺を中に入れた。  とたんに俺は色の奔流に息をとめた。部屋の壁じゅうびっしり、天井に届くまで、ポスターや雑誌の切り抜きやシルクスクリーンといったアートワークが貼られていたのだ。壁だけでなく、部屋はパソコンやビデオカメラをはじめ、様々なガジェットでいっぱいだった。まるで息苦しく感じるほどだ。  なのに藤野谷は色と線の洪水に埋もれながら、やっと肩の力を抜いたようにみえた。とまどって部屋じゅうを見回している俺に、嬉しそうに笑った。 「なあ、サエ」と彼はいった。 「何か描いてくれよ」

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