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【第1部 カフェ・キノネ】12.背中に花
まだ冬とはいえない時期なのに、急に寒くなった。
都心と違ってこのあたりは、冬場はぐっと気温が下がり、天気も変わる。都内では小雪が舞っているだけなのにここは立派に雪が積もる場合もある。とはいえ田舎ともいえない。最寄り駅周辺はマンションとこぎれいな新興住宅地がつらなり、駅から直結するのはしゃれたショッピングモールだ。
生活の必需品がすべて揃うだけでなく、ゆったりしたカフェやセレクトショップ、新進ファッションメーカーのアトリエが並ぶ雰囲気のよい路地もあって、TVドラマや映画のロケも頻繁に入る。大学や研究機関が集まっているから毎年町に新しい顔ぶれが加わるし、公立学校や学習塾のレベルが高いという理由で引っ越してくる家族もいる。
しかし駅を離れれば、風景は畑と里山のあいだに農家の赤い屋根が点在するだけの単調なものに変わり、整備不良気味の国道がその間を縫うように走るのだった。カフェ・キノネは駅前の建物群から離れた国道沿いにあるので、駅からここまでやってくると景色の移り変わりがはっきりとわかる。
都内の一等地に居をかまえるTEN-ZEROの社員にしてみると、こんな風景は新鮮なのかもしれない。
三波がキノネのメニューを吟味しながら「この辺、ぜんぜん知らなかったんですけど、いいですね」という。
「視界がひらけて空気もいいし、駅前はチャラいなと思ったんですけど少し離れると牧歌的だし、アカデミックな雰囲気もあるし、絶妙じゃないですか」
「だってさ。良かったね、マスター」
「ありがとうございます」
まだ午後も早かったが、カフェ・キノネのサンルームにはオレンジ色の明かりが灯っている。メニューが冬の仕様に変わっていた。表紙の写真は雪景色のなかに立つユリノキで、俺が撮ったものだ。
三波は神妙な面持ちでメニューを眺めている。真剣な表情だが、ランチに何を食べるかなどそれほど悩むこととも思えず、そのギャップが可笑しい。愛嬌のある男だと思う。といっても最近のチャットのやり取りを通して、俺は三波が見た目から予想するよりずっと辛辣で、容赦がないのにも気づいていた。
「この塩漬け豚のポトフのランチ、ください」
三波は意を決したようにいい、明るい色をした前髪をかきあげる。
「俺はジャガイモのミルク煮で。あとはコーヒー」
メニューの写真とちがい、サンルームからみえるカフェの庭は単なる冬枯れの景色だ。ユリノキの葉が黄色く枯れて落ち、ぶあつい雲がかかった光の下で、風景はうすら寒くみえる。
TEN-ZEROの仕事は順調だった。ネットでのスタッフミーティングやチャットを何度か続けて全体の方向性も固まり、俺も作業を進めているところだ。藤野谷が連絡してくることはめったになくなり、三波とチャットすることの方が多かった。
三波は最初に紹介されたときに直観した通り、能力が高く裏表のない性格で、興味があることだけにのめりこむタイプだった。フットワークも軽い。つい数日前、俺が辟易していたアナログな手作業を効率化できるはずだとチャットで話していたかと思うと、テストプログラムを作ったからデモを見せるといって、わざわざここまで来たのだ。
三波の説明を聞いているうちにランチが運ばれ、俺たちはひとまず食べる方に専念した。カフェ・キノネのランチメニューは基本的に煮込み料理しかない。ミルクで煮たジャガイモはニンニクとバターの香りがした。小さく刻んだ細ネギが散らしてある。このレシピは昔バイトしていたときに教わったが、俺は自分ではめったに作らなかった。
三波は料理に手をつける前に写真を撮っている。俺がその様子をみていると「鷹尾に報告しろっていわれてるんで」といって照れくさそうに笑った。
「ああ、ボスにも報告します」
俺も笑った。「ランチに自分が何を食べたかって?」
「僕じゃなくて佐枝さんが何を食べたかですよ。ボス、佐枝さんの話ばかりですよ。親友なんでしょう?」
俺は今度は苦笑した。
「いや、そんなのじゃない」
いつの間にそんな話になっているのだろう。
「普通に友達だったけどな。藤野谷は人気者で、いつも自分のグループの中心にいたしね。あいつはモテたし、だいたい取り巻きがいて」
「へー」
三波は透明なスープをすくった。豚肉のかたまりに大きめの野菜がごろごろ入っているシンプルなポトフで、肉はフォークでつつくだけで崩れそうにみえる。
「それは意外だな。ボスは厳しいですよ。気の弱い新人だと怖くて近寄れないし、リアル会議じゃびびって喋れないのもいるし。僕が思うに、モテるにはもう少しその……近づきやすくないとダメじゃないですか」
ボスと呼んでいても、三波の物言いはかなり辛辣だ。
「あいつが怖い? そんなことないだろう」と俺はいう。
「何いってるんですか。ほんとですって。たしかに戦略とか、思いつき――いや、発想はすごいなあと思いますけどね……周囲に人をはべらすには怖すぎます」
「ここでのオープニングのときは人気者に見えたけどな」
「あれはパーティ仕様ですよ」
そんなものか。じゃあ大学での藤野谷はつねにパーティ仕様だったのか。
それにしても三波の弁は容赦なく、これなら藤野谷は彼を気に入るだろうな、と俺は思った。
「大学じゃ、俺の知るかぎり、藤野谷はいつも両手に花って感じだった。どうかすると両手どころか背中にまで花を背負ってるような」
「背中に花なんて、昔の少女漫画みたいですね」
「へえ、少女漫画を読むんだ」
「姉が好きなんですよ。僕だったら背負うなら花より羽根がいいですけどね」
「辛辣な天使だな」
「そうですかね?」
三波はたちまちポトフを完食した。細身なのに旺盛な食欲だった。
「佐枝さんが昔ボスと一緒にやったの、見ましたよ。大学のときのコンペ受賞作」
「え?」
不意打ちに俺の手が止まる。
「あれはもう――どこに残ってた?」
三波はあっさり答えた。「もちろんボスが持ってました」
そうか――それはそうだろう。藤野谷も制作者なのだから。
「佐枝さんのファンだと告白したら見せてくれたんです。いやあ、あの作品凄いじゃないですか。興奮しましたよ。どうして非公開なんです?」
胸の底をちりりとかすかな苦さがよぎった。
「藤野谷に聞かなかったか? 受賞後にちょっと……トラブルが起きてね」
「トラブル?」
「俺が作った部分が盗作だとか、デタラメが流れたんだ。受賞は取消にならなかったが、企業プロモーションのコンペなだけにイメージに影響するかもしれないといって、結局使われなかった。つまらない話だよ」
三波はじっと俺をみつめた。
「馬鹿なやつが嫉妬したんじゃないですか?」
「どうでもいいよ」と俺はいう。「昔の話だし」
本当にどうでもいいのかというと、自分でもよくわからなかった。
藤野谷とコンペに出したのはあの作品が三度目で、それで最後となった。製薬会社の企業理念を伝えるための映像や平面作品をシリーズで提出するコンペだった。藤野谷と組んでから、俺が一番熱中した作品でもあった。
しかしふたりで制作している最中はともかく、合間に入ってくる周囲の雑音にはうんざりした。藤野谷は名門のアルファで、いずれは何らかの会社経営に関わるとみられていた。藤野谷と組んでいる間ずっと、俺が彼に取り入っているのだと陰口を叩く連中が絶えなかった。
俺が大学ではこれといって目立つところのない「ベータ」だったせいもあるのかもしれない。パーティ仕様だかどうだかしらないが、俺が知っている学生時代の藤野谷は基本的にそつなくふるまっていて、来る者は拒まず、という感じだった。
とはいえ俺には藤野谷の方からいつもなれなれしく構ってきて、俺はというとむしろ藤野谷を邪険にあつかっていたから、あいつの周辺に俺はよく思われていなかったはずだ。
そうはいっても学生時代の藤野谷の個人的なつきあいについて俺は何も知らなかったし、あまり関わらないようにしたつもりだった。それなのに雑音が絶えなかったのは、結局あいつが「藤野谷家」だったからだろう。
大学は都心にキャンパスを構える国立だった。俺がそこを選んだ理由のひとつは伝統的に藤野谷家の子弟が通っていた古い私学から離れているというもので、わざわざ同じ大学を選んだ藤野谷と再会したときには皮肉しか感じなかった。
藤野谷は藤野谷で、家柄ばかり取りざたされるのが嫌で国立を選んだらしいのだが、結局彼がどこに行こうが、家名についてくる人間はたくさんいたというわけだ。
三波はそんな俺の内心など知ったことではないだろう。俺からするとその方がありがたかった。
「でも今回でリベンジですよ」コーヒーを飲み干して彼はいった。
「馬鹿なやつらはぶっとばしましょう。じゃ、続きですけど……」
落ち着いた環境で作業が進められるのはいいものだ。
俺はエージェントAIが持ってくる小さな仕事はしばらく断ることにした。一日おきくらいにカフェ・キノネへ行き、他に客がいない時間ならマスターと世間話をする。キノネの往復のあいだに写真を撮る。写真は素材として使う場合もあったし、ただの趣味でもあった。
いまにして思うのは、大学で藤野谷とやったことは、結果的に卒業後の俺の方向性を決めたということだ。最後のコンペの受賞はマスコミにも取り上げられ大きく喧伝されたから、一度は華やかな人気クリエイターの世界に俺も入れるのかと想像したこともある。
もちろん現実はそうはならなかった。それに、どこの誰だかは知らないが、あの騒動がただの嫉妬から出たものではなく、藤野谷から俺を遠ざけようとする意図があったのなら功を奏したことになるだろう。藤野谷の周囲にはいつも彼の歓心を買いたい者が集まっていた。アルファの名門に生まれるとはそういうことらしい。
俺はというと、藤野谷に近づきたがる人間に興味を惹かれたためしがなかった。種族がちがうと直感的に知っていたのだが、たぶんそれも俺が煙たがられていた理由なのだろう。
だいたい、大学のころだって俺は人づきあいをできるだけ避けていたのだ。サークルにも入らず、講義に出て黙々と勉強をし、レポートを書き、発表をすることの繰り返しで日々は終わった。夜はひとりで絵を描いた。人とつきあわなければ、ヒートの時期に姿を見せなくても誰も不審に思ったりしない。
とはいえ例のコンペ作品には手間がかかり、あれを作っていた二カ月かそこらは、俺と藤野谷はよく一緒にいた。締切前の最後の二日間、俺は藤野谷のマンションに泊まり込みで作業していた。徹夜明けでデータを送った日のことはよく覚えている。朝四時になってもう一度、ややこしい修正をしたいという藤野谷にうんざりして、俺たちはほとんど喧嘩になった。
藤野谷は黙りこくった俺をそっとのぞきこむと、こともあろうに顔のすぐ近くで笑った。心臓に悪い笑顔だった。こいつが笑うと比喩でなく、俺の視界には闇色をした光のかけらが飛ぶ。矛盾しているが、そうなのだ。
「サエ、もう少しだからさ……もう少しで完璧になるから」
藤野谷の声はなだめるというより、もっと強制力のあるもので、俺は内心ムカついていた。逆らうのが難しいのだ。
「オニ」俺はモニターの前につっぷしてぼやく。
「キビ団子あげるから」
「何いってんだよ……オニがどうしてキビ団子くれるんだよ。黙って桃太郎に退治されてろ」
「そういえばサエ、桃太郎の改変小話、知ってる?」
「何」
「おばあさんが川へ洗濯に行くと、大きな桃がどんぶらこどんぶらこと流れてきました。それをみておばあさんはいいました。モモダロウ」
「……馬鹿か」
俺は怒る気もなくして起き上がり、また作業を続ける。午前七時すぎ、ふたりで最後のチェックをして、仕上がったデータを送った。締切は九時。ほぼぎりぎり。
作品を完成させた達成感に酔ったような気分だったが、俺は藤野谷のソファでそのまま寝落ちしそうになっていきなり現実にもどった。藤野谷も床の上で寝落ちている。
マンションは学生のひとり暮らしには贅沢な広さだ。俺は慌ててバスルームで顔を洗い、薬を飲み、パッチを貼った。高揚感がゆるりと醒めてきた。早く帰って体を洗わなければならない。
タッチの差で藤野谷がやってきて「祝おうぜ」という。
「サエ、完成祝い」
「俺は帰る。午後に講義あるし」
「それならここで少し寝て行けよ」
「着替えたいんだ。帰る」
そのまま出て行こうとしたのに藤野谷はずいっと俺の前に出て、ドア枠に手をついて行く手をふさぐ。藤野谷の方が頭半分以上背が高いので、見下ろされる俺は居心地が悪い。眼がくらみ、藤野谷から漂う匂いに首筋の毛が立つ。作業に熱中していた間は気にならなかったのに。
こんなに近くに立って俺の前を塞がないでほしかった。視界にちらつく色も、俺を窒息させそうな匂いも、吸いこまれそうな気配も、いい加減にしろといいたかった。
「少しだけ」藤野谷は引こうとしない。
「帰るっていっただろう。打ち上げたいなら他のを誘えよ。こんな時間でもおまえなら誰かつきあってくれるさ」
俺はそういい捨て、かまわずに横をすり抜けようとした。いきなり背後から腕が回され、がっしりとつかまえられた。背中に感じる藤野谷の体は温かかった。俺たちはふたりとも寝不足だった。
「なんかいい匂いがする」
俺の首筋のすぐ上で、藤野谷がいう。
「――放せって!!」
俺は思わず大声を出して振りはらった。次の瞬間に後悔した。
――とてもとても、後悔した。
ぎこちなく振り向く。藤野谷はぼそりといった。
「悪い。サエが触られるの嫌いなの、忘れていた」
「いや……こっちもごめん」
ついさっきまで感じていた、幸福に満たされた気分はどこかへ行ってしまった。気まずい空気がただよう中、俺は藤野谷のマンションを出た。
コンペの結果が出るまでの二カ月、俺は藤野谷を意識的に避けていた。ヒートが辛かったのをのぞけば、藤野谷が絡んでこない俺の大学生活は平和で、単調で、地味なものだった。俺が藤野谷にタダ乗り しているとか、自分の手柄でもないのに調子にのっているとか、そんな噂が聞こえてきたり、意味不明の嫌がらせがはじまったのはコンペの結果が出てからで、極めつけがあの盗作騒動だ。
藤野谷は噂を流した連中に純粋に怒り、躍起になって否定したが、俺が感じたのは恐怖と危機感だった。大学卒業と同時に俺は今の家へ引っ越し、藤野谷との関わりをすべて断った。
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