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【第1部 カフェ・キノネ】13.柔らかな骨
『佐枝さん、年末ってこちらに出てくる機会、ありませんか?』
ビデオチャットに鷹尾が書きこんでいる。
『ないよ』と俺は返事を打ちこむ。
『もしよければ忘年会にお誘いしたいんですけど』
『俺はいいよ。そういう席が得意じゃないんだ』
『予想はしていましたけど』
即座に返事が書きこまれる。TEN-ZEROのチームと一緒にやってわかったのは、彼らは全員呆れるほどチャットの返事が速いということだ。頭の動きと指の動きが完全一致するタイプがそろっているらしい。
『だろ?』
と俺は返す。鷹尾はチームの中でいちばん察しがいいから、俺が断るのをわかっていたにちがいない。たぶん直接確認するようにせっついたやつがいるのだ。
『俺は飲めないしね。チームのみんなにもそう伝えてもらえるかな。わざわざありがとう』
『了解です』
あっという間にそんな季節になっていた。
ほとんど外出しない俺にも世間がクリスマスで賑やかなのはわかる。クリスマスセールの広告が毎日のように届き、昨日は佐枝の実家からも大きな荷物が到着した。中身は野菜、根菜、冷凍肉のほかに、父手製のシュトーレン(クリスマス前日までねかせるようにとの但書き)、母が毎年手作りするクリスマスオーナメント。
俺は納戸から流木を組んだツリーオブジェをひっぱりだし、リビングの隅に立てた。白い骨のような磨かれた木の影が長く床に落ちる。今年のオーナメントは雪の結晶をとじこめたレジンで、不揃いな氷のような形だった。ツリーと一緒に保管してある去年までの母の労作も合わせて枝につるす。金銀の星、木彫りのトナカイ、靴下が刻まれた白い貝殻、ビーズ細工のサンタクロース……。
オーナメントの箱もツリーも、この家に引っ越した最初の冬に峡がわざわざ運んできたのだった。飾るのを忘れるなよ、と念を押して。
この木をみるたび、俺は自分が守られているのだと思う。佐枝の家族も佐井の祖父も俺を守っているのだった。いい歳なのに、俺はいまだに彼らの傘のなかにいる。
仕事は順調だった。三波が作った支援ツールのおかげで俺の苦手としていたデジタル処理が驚くほど楽になった。自分が得意な作業に集中できるのはありがたかった。
藤野谷もときどき連絡をよこした。今度はいつも夜の十時を過ぎた頃だった。ビデオ通話の背景はいつも同じオフィスで、そんな時間でもまだ会社にいるようだった。
藤野谷との会話は仕事の話でも個人的な事柄でもなく、気楽な雑談に終始した。大ヒットした映画や音楽の話や、今年流行したファッションの背景分析、世界的な資金調達傾向がどうなっているとか、ライバル企業の広告やキャッチコピーが退屈だとか……。
さすがに大学の頃と話の内容は変わって、それぞれ、企業経営者と個人事業主らしい話題になりはしたが、盛り上がるポイントは学生時代と変わっていなかった。そして当時と同様に、俺は藤野谷の話からよくインスピレーションを受けた。話している間に思いついたことを即座に制作に生かしてみるのも同じだ。
楽しかった。
それに藤野谷に直接会わなければ、あの〈色〉に悩まされることもなかった。つかず離れずの友人でいられるなら悪くない。俺はそう思いはじめていた。
「サエ、年末年始はどうするんだ?」
ある日の雑談のとき、画面の向こうで藤野谷がたずねた。この日はオフィスではなく、彼の背後にはポスターが貼られた壁や雑誌の山が見えた。こいつはいまだに自室の壁をポスターで埋め尽くしているのだろうか、と俺は思う。彼の実家の部屋がそうだったし、大学の頃はマンションの壁には貼れないからといって、大きなパネルを何枚も立てかけて置いていた。
「実家に帰る」と俺はこたえる。
「クリスマスは?」
「特に決めてない」
「佐枝さん、クリスマス会はどうです」
いきなり三波の声が聞こえ、藤野谷の横に彼の顔がのぞいた。
「本社の社食でやるんですが、気楽な会です。社員はみんな家族を連れてくるし、犬や子供も」
「いや、俺は……」
俺は思わず口ごもった。これまで藤野谷との通話のとき、他の誰かがいたことはなかった。
藤野谷はかすかに困惑した表情を浮かべた。
「そういう会は苦手なんだ」と俺が答えるのと「無理に誘うな」と藤野谷が制したのがほぼ同時で、画面越しに藤野谷と視線が合う。
いつもは俺を圧倒するようにぶれない彼の視線が、今夜は奇妙に揺れているような気がした。そして珍しく、藤野谷の方から眼をそらした。
「でも――」と三波が藤野谷へ顔を向けてさらに何かいいかける。
「いいんだ」
藤野谷は三波の腕をとり、彼を画面の外へ押しやった。些細なしぐさがなぜか気になって俺は何度かまばたきをした。藤野谷がどこにいるのか知らないが、オフィスではないとしたら、プライベートでも三波と一緒なのか。そう考えた途端、なぜか胸の底を殴られたような気分になった。
「悪いな。じゃあまた」と俺はいう。
「ごめん、サエ」
藤野谷は眼を伏せるようにして通話を切った。
ある朝カフェ・キノネに寄ると、運送屋のトラックが店の前に止まっていた。
店内は針葉樹の青い香りでいっぱいだ。カフェの中央、サンルーム近くの天窓の下に大きな常緑樹が据えられていた。
「やあゼロ、いらっしゃい」
マスターが腕を組んで設置の様子を眺めている。もう少しこっちへずらしてくれ、などと作業員に指示しているのはマスターのパートナーである黒崎さんだ。
「トースト? コーヒー?」
「いつもので。今年はツリー、入れるんですね」
「うん。去年のユリノキ・ライトアップ作戦は下品だからダメだって」
先端が天窓ちかくまでのびた、堂々とした木だった。大柄な黒崎さんの背も軽々と超えている。飾りつけはこれかららしい。
「黒崎が面倒をみるっていうからいいけどね。僕としてはこれ以上木を増やすのはどうかと思ったけど……でも少し大きすぎるんじゃないか?」
「いいだろう、デカい方が」
いきなり黒崎さんがふりむいた。目礼してくるので、俺も礼を返してカウンターに座る。するとマスターが「悪いんだけど、昔のよしみで飾りつけ、手伝ってくれないかな? 今日のトーストは奢るから」という。
「黒崎は僕のライトアップのセンスをどうこういうけど、あいつの飾りつけセンスだってあてになるもんか」
ギャラリーオーナーに何をいっているのか。俺は吹き出しそうになりながら、二つ返事で引き受けた。
銀と青の色調でまとめられた上品なオーナメントをツリーに飾っているうちに時間がたち、昼になった。
昼も奢るからといわれ、用意してもらったランチをサンルームの奥の席で食べていると、扉がひらく音がする。強烈な気配を感じた。嫌な予感がした。
俺は反射的に体を引いて庭の方を向いたが、あまり意味はなかった。
「サエ」と呼ぶ声が聞こえた。
向こうは驚いた声だったが、顔を向けるまでもなかった。藤野谷だ。だが彼ひとりでもなかった。すぐそばに三波が立っていたからだ。俺はまばたきしていつもの〈色〉を追い払った。針葉樹の強い香りが役に立った。
ツリーの前にいる藤野谷と三波はカジュアルだが洒落た服装だった。長身で肩幅の広い藤野谷の横で、細身の三波のダンサーめいた姿勢の良さがきわだつ。ふたりとも雑誌のモデルのようだ。
――よく似合っている。
ふとそんなことを思った。
「ここで昼食を?」
俺は三波に笑いかける。藤野谷を見たくなかった。でなければ、まっすぐ見ることができなかった。
「ええ。前に佐枝さんと一緒したランチが美味しかったと呪文を唱え続けたおかげで、二度目が叶いました」
三波はいつものようにさっぱりして饒舌だった。
「駅前の靴のアトリエにも行ってみたかったんで」
「気に入ったのがあった?」
「オーダーしましたよ。他にも買い物を少し。やはりこの辺、穴場ですね」
隣に行っても? という三波の視線にうなずく。まだ食事中だったし、あわてて席を立つのも変だ。俺はテーブルの食器をずらしてふたりの場所を作った。藤野谷は俺の向かいに座ったが、姿勢は三波を向いていて、俺に視線を合わせてはこなかった。ほっとしたが、同時に肩透かしをくらったような、寂しいような気分がかすめた。
「それでわざわざここまで?」
ややからかいまじりに三波にいうと、彼は細い眉を大袈裟にあげる。
「前に食べたポトフが本当においしかったんですよ。佐枝さんいつもここでランチなんですか? うらやましい」
「毎日じゃない。今日はたまたまだ」
「じゃあすごい偶然ですね」
三波はまたじっくりとメニューを吟味し、対して藤野谷は一瞬で決めたようだった。三波の方に体をむけて、その先に置かれたツリーを眺めている。
「ツリー、置くんだな」ぽつりといった。
「今朝届いたんだ。さっき飾りつけた」
藤野谷がふりむく。「サエが?」
「マスターに頼まれてね。ランチはその労賃」
「なるほど。すっきりしてきれいだ」
「慣れてるからな」と俺はいう。
「慣れてるんですか?」三波が聞いた。
「子供のころから実家のツリーを毎年飾っていたんだよ」
そう俺は答える。
「しかもいまだに忘れずに飾れといわれるんだ。うちの実家じゃ、ツリーはお守り、門松みたいな扱いだ」
「常緑樹は生命や永遠、再生の象徴だからな」
藤野谷が口をはさんだ。三波はへえ、とうなずく。
「いい伝統じゃないですか。僕の家はそんなのなかったですよ。せいぜいプラスチックのを買って電飾をつけるくらいです」
三波の答えにふと思いつき、俺は藤野谷にたずねる。
「おまえの家は飾っていたんじゃないのか?」
「ああ。毎年業者が持ってきて飾りつけるんだ。そういうものだと思っていた」
ふたりのランチが運ばれてきて、俺の方はもう食後のコーヒーだった。三波は今日はボルシチを選んでいる。ビーツの赤が白い皿に映えて美しい。健啖家のわりにガツガツ食べているように見えないのは、オメガの柔らかな雰囲気のせいだろうか。しかし三波には同時に鋭角的な側面もあって、こうして藤野谷と並んでも見劣りしない。
そんな考えが浮かぶと、また少し嫌な気分になった。三波から眼をそらして何気ないふりでツリーを眺め、我ながらきれいな飾りつけじゃないか、などと考える。
「小さい頃はひとりで――使用人はいるんだが、もう寝ろといわれた遅い時間に、ひとりでこっそり部屋を出て、玄関ホールに飾ったクリスマスツリーを見に行ったよ」と藤野谷がいった。
「親はあまり家にいなかったからな。暗い中で、赤とか青とか、電飾が光るのをみるんだ。点滅するのがよくてね。ずっと見ていた。そのうち出てきた使用人にみつかりそうになって、あわてて戻るんだ」
「それってずいぶん寂しい子供時代に聞こえますよ」
三波がずけずけといった。俺は思わず笑った。
「おい、藤野谷。寂しい子供だってさ」
「ああ。俺は寂しい子供だったとも!」藤野谷は茶化すようにいった。「実際、両親は仕事だ社交だと家をあけてばかりだったから、学校が休みの時期はしょっちゅう課外活動に行かされてた。サエと会ったのもそのときだ」
「そうなんですね」
三波が相槌をうつ。前のときと同様、ボルシチを素晴らしい勢いで口に運んでいる。
「夏のアートキャンプ。あれは楽しかった。古い農家に合宿して、必要な道具を作ったりしながら生活して、最後はペアを組んだ相手と作品を仕上げるんだ。行く前は完全に馬鹿にしていたんだが、あそこでサエにあって考えを変えたよ」
「へえ。運命の出会いだ」
スープを飲み干して三波がいった。何の含みもない、ただの言葉だった。
「ああ。そうだな」と藤野谷がいう。
「ハイスクールで再会した時は真面目にそう思ったよ」
「高校も一緒だったんですか?」
「一年間だけだ」
藤野谷は短く答える。その口調が気になって俺は思わずコーヒーカップから顔をあげる。藤野谷の眼は暗かった。後悔でもしているかのように。
でも何を?
「俺の実家の都合で、たまたま一年間だけ同じ学校、クラスになったんだ」
頭のすみに記憶を追い返すようにして、俺は明るい調子で口を挟む。
「大学でまた会った時はびっくりしたよ」
「そんなに偶然が続くと、もう偶然とは思えないですけどね」
さらりと三波がいった。
唐突に沈黙がおちた。藤野谷の視線が絡みつくように俺に流れたのがわかった。視界をあの色が覆う。俺は眩しさに耐えられず眼を閉じた。一瞬のことだ。
眼をひらくと藤野谷は三波の方を見ていた。
「それでも偶然だったのさ」
俺はそういって自分の伝票を取り上げた。
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