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【第1部 カフェ・キノネ】14.ひとつめの雨の言葉

 それはたしかに偶然だったはずだ。  はじめて藤野谷と話をしたとき、俺は片手にスケッチブック、片手に屋台で買ったリンゴ飴を持っていた。アートキャンプの三日目だった。すぐ近くの神社が夏祭りをやっていて、自由時間にみんなで冷やかしに行ったのだ。みんなで、といっても俺は他の参加者になじんでいなかったから、少し離れてついていき、ひとりでぷらぷらと屋台を覗いて戻ってきたところだった。 「自由時間なのにそれ、持ってるんだ」  十四歳の藤野谷が眼の前に立って俺に聞いた。俺たちは踏み固められた土のうえにいて、すぐうしろに地下水をくみ上げるポンプがあった。スニーカーの踵がコンクリートの枠を踏む。  俺は急に視界を覆った慣れない光、あるいは色に困惑して、眼をばしばしと瞬かせる。藤野谷は俺より少し背が高いくらいだった。少年らしいひょろりとした体型だったが、足が長く、手首は太かった。 「あ……うん。持っていればいつでも描けるし」 「絵が好きなんだ」 「好きじゃないのにここに来てるのか?」  問い返すと眼の前の相手は困ったように笑った。 「そうでもないかも」という。  藤野谷は初日から目立っていた。外見も中身もだ。頭の回転が速くて注意深く、大人にも堂々と意見がいえる。何となく周囲が頼ればそれに応えてグループ行動を仕切る。見るからにアルファだった。  俺は彼がいきなり話しかけてきたのに困惑していた。とはいえ、もっと困惑することは他にあった。  この〈色〉だ。 「サエダってどんな字を書くんだ?」と藤野谷が聞く。どんな流れでたずねられたのか、今では覚えていない。  俺はねばつく飴で口の中をもごもごさせながら答え、礼儀として相手の名前をたずね返した。なのに視界を覆う邪魔な色に気を取られ、答えをはっきり聞きとれなかった。 「フジノヤっていいにくい名前だな」  そうぼやいて聞こえなかった部分をごまかそうとした。藤野谷は俺をまっすぐ見ていた。なぜか鼓動が速くなり、むしょうに落ちつかない気分だった。構わないでほしいのに、藤野谷は「じゃあ好きに呼んで」という。  仕方なく俺はもう一度たずねる。 「下の名前なんていったっけ?」 「|天藍《てんらん》」 「…てん…?」 「それでいいよ」  藤野谷は口元と眼元をゆるめて笑った。その表情はまぶしい色の真ん中にくっきりと浮かんで見え、俺はどきりとして思わず一歩、下がった。  十四歳の夏休みは猛暑と台風が交互にやってきて、天候は荒れ気味だった。アートキャンプの二週間も例外ではなかった。  思い出す風景は砂利の敷かれた広場を囲むように古民家が二棟ならぶものだ。その間からのびる小道をたどると、背の高いケヤキの木立の向こうにこぎれいな家屋が四棟。青空が白く見えるほど晴れていて、中天に太陽。  晴れた日は毎日セミがうるさかった。アートキャンプはサマースクールのプログラムのひとつで、十二歳から十四歳までの子供が参加する合宿だ。古民家の広い土間や囲炉裏のある板の間でミーティングや各種のワークショップが実施され、ケヤキの向こう側に建つ家が宿泊所だった。  学校の課外活動に何ひとつ参加していなかった俺にとっては新鮮な出来事ばかりだった。入れ代わり立ち代わり種々のアーティストや美大の学生たちがあらわれてはワークショップを開催し、合間に農業体験やバスに乗っての一日遠足などが挟まれた。俺はちょっとした農業体験を珍しいとは思わなかったが(佐枝家の周辺は田舎だったのだ)二週間ものあいだ、おなじ屋根の下で同世代と寝起きするのは初体験だった。数日の修学旅行やキャンプの経験はあったが、十四歳にとって二週間は長い。  宿泊棟の割り振りはアルファとベータの男子、アルファとベータの女子、そしてオメガ、という区別だった。オメガは人数が少ないので男女とも同じ棟になるのだという。  当時の俺にはこの区割りは奇妙に感じられた。もともと中学では、生徒を男女別で区分けはしても、三性で分けて扱うことはない。一部のアルファは別として、中学生くらいなら他の二性にはそれほどきわだった違いが見えないからだ。不要な差別意識――特にオメガへの――を育成しないためもあって、義務教育ではできるだけ三性を区別しないことになっている。  オメガの第三次性徴は早くても十五歳、遅い場合は十八歳ごろに現れる。|発情期《ヒート》に入ったオメガは匂いでわかるし、未成年でも〈ハウス〉の利用が――法の範囲で――認められるのもあって、高校へ進学する時は三性による区別がはっきりするが、中学ではそうでもないのだ。  俺はこの合宿にベータとして登録されていて、他のアルファとベータの男子と同じ家に割り振られた。宿舎は食堂とリビング、二段ベッドの四人部屋が三部屋あり、それぞれ、アルファがひとり、ベータが三人という組み合わせだ。  毎日飲んでいた薬やパッチは生まれつきの習慣のように身についていて、俺は違和感もなくベータとしてふるまっていた。もっとも当時、俺はこの薬が何をしているのかを本当はわかっていなかったのかもしれない。本来の自分が〈オメガ〉であると頭では理解していたが、その意味を体感していなかったのだ。  たぶんそのせいなのだろう。当時の俺はベータのふりをしていても何の罪悪感も持たなかった。藤野谷と出会ってオメガであることの「意味」を理解するまでは。  早場米の稲刈り体験で俺はなぜか藤野谷と組むことになった。アートキャンプのプログラムはたいてい面白かったが、都会の子供のために考えられたのがみえみえの農業体験はつまらなかった。機械であっという間に脱穀までできるのに、昔のやり方も試してみるとかで、わざわざ鎌で刈ったりするのだ。  口に出していったつもりはなかったのに藤野谷に気づかれてしまった。 「つまんない?」こっそりと囁いてくる。 「話聞けよ」俺はぼそっと答える。 「つまんないよね」 「……まあ」  藤野谷は落ちた稲の穂をひろい、俺をくすぐった。 「天! やめろって」  俺は小さく声をあげるが、藤野谷は満面の笑みをうかべている。 「楽しくなった?」 「落ち着けよ」と俺はいう。  ふたりでいるときの藤野谷は他の子供や大人と一緒にいる彼とは雰囲気がちがった。いたずら好きで、馬鹿みたいな冗談をいう。  あの妙な〈色〉がちらちらするのはじきに慣れたが、電話で叔父の峡に話すと、心配そうな声が返ってきた。 「他には何もないか?」 「何もって?」 「その……いや」  ないならいいんだ、と峡は歯切れ悪く答えた。 「薬、飲んでるな」 「うん。パッチも貼ってる」 「あと二、三年だからな」  アートキャンプへの参加はもともと母が勧めたのに、出発当日はひどく心配されたものだった。昔から過保護気味の家族だったから当時は不思議にも思わなかったが、二週間も他のアルファやベータと共同生活をするわけだから、何か起きたらと心配していたに違いない。    特段、何も起きなかった。他の連中には俺は無口で四六時中絵ばかり描いている変わり者と認識され、たいてい他の面子から離れた隅にいた。アートキャンプといっても、そっち方面への興味を持っていた参加者は三分の一程度だったと思う。  それでも期間の後半、テーマ別のコンテストが行われると発表されると、賞品が豪華だったのもあって、これまでやる気のなかった連中も盛り上がってきた。俺は突然人気者になった。絵が描けるというスキルがコンテストに有利だと大勢が判断したのだ。  周囲がひそひそ話をしているのを怪訝に思った晩、洗面所で同室のアルファが組もうともちかけてきた。俺は正直とまどった。何も決めていなかったが、ろくに話もしていないのに、そいつと組む理由はなかった。  その時いきなり背後から藤野谷が割って入った。 「遅いな。サエは俺と組むんだ。もう決まってる」 「え?」  俺は間の抜けた声を出したが、藤野谷は例の〈色〉をまとわりつかせながら俺の腕をとり、自分の方へ向かせて、微笑んだ。 「そうだろ?」 「――あ、うん…」 「それなら先にそういえよ」  同室のアルファは苛ついた表情をしたが、藤野谷を見て黙った。  猛暑が数日続いたあとに台風がやってきた。昼間兆しをつげる生ぬるい風が吹き、夜半からは土砂降りで、翌日はすべての予定が中止になった。大雨で近くの道路に土砂崩れがおき、加えて交通機関も麻痺したらしい。  雨は激しく降りつづき、大人からは外に出ないよう注意が出た。俺たちの大半は思いがけない自由な時間をもてあまし、宿舎でだらだらしていた。他の宿舎に行くなというお達しも出て、女子がいない空間では話はどんどん遠慮がなくなる。何しろ暇な中学生男子が集まっているのだ。 「知ってるか? オメガって男でも濡れるんだぜ」  リビングでベータのひとりがそういいはじめると、別のひとりが「おまえだってそうだろ」と股をしごくまねをする。 「ちがうんだ、後ろがさ」 「それってアレのときだけだろ」他のひとりが話に乗る。 「ヒートんとき」 「アレってどうなの」 「すごいらしいぜ。声とか」 「それ、キモくない?」 「でも俺、正直いってちょっと興味ある……」 「女の子ならな」 「え、男でもさ……」  俺は居心地の悪さを感じて壁際に下がった。畳に座ってスケッチブックをめくり、合宿中にたまった絵を眺める。ふと圧迫するような気配を感じ、見上げると藤野谷だった。棚に置かれたファイルを広げている。調べ物でもあるのだろうか。 「でもオメガって何がどう違うの? あいつ、ぼさっとしててむさいじゃん。女の子だって別に可愛くないし…」  他の連中の話はつづいていた。アートキャンプにはオメガの男子がひとりだけ参加していたが、今はオメガの女子と同じ宿舎にいるから、何の遠慮もなく話せるということらしい。 「オメガっていいよな。ひとりしかいないなら個室ってことだろ」  誰かが憎らしげにいって、俺はまたも居心地が悪くなった。察してはいたのだ。他の男子、とくにベータが、ひとりしかいないオメガの男子をつまはじきにする雰囲気に。 「オメガって高校行くとすっごい変わるってよ。つまりその――」 「アレがはじまったら、だろ」 「学校の先輩でオメガの女子いたんだけど、中学まではふつうだったのに高校ですごい美少女になってさ……」 「へえ。そうなの? じゃあさ」 「やめろよ」  突然鋭い声が響いた。俺の向かい側からだ。 「俺の姉貴オメガなんだよ。もちろんめっちゃ可愛いぜ。おまえらなんかぜんぜん相手にならねえよ」 「なにおまえ、姉貴好きなの? シスコン?」 「馬鹿いうなよ。姉貴、すっごいかっこいいアルファと付き合ってるんだぜ。つがいになるって。羨ましいだろうが」  そいつは不敵に笑い「おまえら、嫉妬してるだけだ」というと肩をそびやかして部屋を出て行った。  白けたような沈黙がおちる。 「あ……まあ、それにほら、オメガのひとって、キャンプのあの先生、いいよね」  ぼそりと誰かがいった。 「あ――大人の女って感じの――」 「憧れるぅ」 「でもおばさんじゃん。俺は同い年がいい」 「たしかになあ。でもそしたらあの、可愛くない子も何年かしたらああなんの? あの野郎も?」 「だとしてもおまえは無理だって。眼中にないよ」 「男でも濡れるってどんなだと思う?」 「オメガは男とか女とか関係ないんだろ、実際のところ」 「子供、できるしなー」 「避妊だ避妊!」  なぜか大きな笑い声が起きる。  俺はじっとスケッチブックをみつめていた。嫌な気持ちだった。自分がめずらしいモノのように扱われている気がした。  トイレに行くようなふりで廊下に出た。そのまま入口の扉をあけ、軒下に出る。  大きな雨粒が地面を叩いている。昼間なのに薄暗く、ケヤキの木がまるでぶれる影のようだ。水滴が飛んできても俺はかまわずスケッチブックをひらき、鉛筆を取り出した。入口の石段に座ってケヤキの木を描きはじめると、雨の響きに吸い込まれるように集中し、線を引く。 「何、描いてる?」  はっとして顔をあげると藤野谷がうしろに立っていた。  うしろめたいことなどないのに、俺は何となくスケッチブックを体で覆うようにして、藤野谷の眼から隠した。 「そこの木」 「雨降ってると涼しいよな」  向こうから聞いたのに、関係ない話をしながら藤野谷はずいっとつめてきて、俺の隣に座った。 「見せてよ」  俺は描きかけのスケッチをみた。水滴がいくつか飛んでにじんでいる。藤野谷に渡すと最初のページからめくって、じっくりと見ていた。途中でいちど手を止めた。 「これ、俺?」 「……あ」  俺は焦った。すっかり忘れていたのだ。それは広場のベンチに座っている藤野谷で、ごく真面目な表情をしているのだが、背景には鉛筆でもやっとした霧のようなものを描いていた。あの〈色〉の気配を同時に描こうとした痕跡で、結局うまくいかなかった。 「まあ、一応」 「俺ってこんな顔してるんだ」  藤野谷の声は愉快そうだった。俺はほっとした。彼に嫌な気分になってほしくなかったからだ。でも次に「俺のまわりのこれ、何?」と聞かれ、返事に窮した。 「その……なんか、おまえの……雰囲気……みたいなの…」  藤野谷は小さく声をあげて笑った。 「なにそれ、俺ってこういう黒いの、背負ってんの」 「あ、いや黒くないんだけど……」と俺は自分でも意味不明な弁解をする。 「鉛筆だから」 「鉛筆じゃなければいけるんだ」  俺は思案した。こいつが目の前にいるとき、俺に見える〈色〉を描くにはいったいどうしたらいいんだろう? 「わからない。考えてみる」  藤野谷は俺のいったことをどう取ったのか、またふっと笑った。雨は弱くなる気配をまったく見せなかった。  その日以来、俺は自分がほんとうは「オメガ」なのだと心のどこかで意識するようになった。そして自分でもよくわからない後ろめたさを抱いた。合宿に参加したオメガの男子と俺はほとんど接点がなかったし、彼は俺よりよほど社交的で友達も多かったのだが、俺は自分自身がとても卑怯な存在になったかのように感じていたのだ。加えて他のアルファやベータ、それに大人がオメガをどう見ているか、扱っているかも気になってたまらなくなった。  藤野谷は合宿が進むにつれ、全体をまとめるリーダーの役割をはっきり担うようになった。オメガについてこだわりはじめた俺にとって、彼は最初は見ていて安心できる存在だった。俺にしょっちゅう絡んでくる以外は誰も分けへだてしなかったし、アルファやベータだけの中で、オメガをからかった下ネタを喜んだりもしない。  だがしばらくすると、俺は藤野谷が同じアートキャンプの子供ではなく、むしろ大人のオメガによく話しかけられ、かつそれを冷たくあしらっているのに気づいてしまった。コンテスト用の作品を作るために一緒にいる時間が増えたからだ。そして分けへだてなく接するといっても、藤野谷はオメガには少し冷たいように思えた。本人の口から聞いたのはそれからまもなくのことだ。  コンテストの作品発表を明日に控え、俺たちは古民家にいた。途中で藤野谷は他の連中に頼まれごとをされて出ていき、なかなか戻ってこない。藤野谷がいないと進まない作業になって、ついに俺は自分でさがしに行った。 「天?」  建物の影になった木立の間で、藤野谷はオメガの女性アーティスト――ベータの連中が噂していたひとだ――といた。  何を話していたのかは聞き取れなかった。だが次の瞬間、俺は藤野谷が彼女の手を嫌悪のまなざしとともにふりはらうのを見た。  はっとしたが、ちょうどそのとき藤野谷は俺に気づいたらしい。 「サエ!」  俺はその場に立ち止まってぶっきらぼうにいう。 「……続きやりたいんだけど」 「今行く!」  藤野谷はうしろを一顧だにせず走ってくる。いつになくきつい表情だった。古民家に戻る時にオメガの男子とすれちがった。彼は明るく無邪気な性格で、実際のところ俺よりもアートキャンプになじんでいたと思う。  藤野谷はちらりと視線を走らせ、戻した。 「あいつもいずれああいう風になるんだ」  声にはまぎれもない嫌悪が含まれていて、俺はどきりとした。 「何が?」 「ヒートがはじまったら」  藤野谷はつぶやくようにいった。 「つきまとってくるようになる。俺がアルファだから。はっきりいって……気持ち悪い」  背中から刺されたような気がした。  俺たちはモニターを前に隣り合って座っていた。俺はどんな表情をしていたのだろう。  どういうわけか、藤野谷は急に焦ったようだった。俺をただのベータだと思っているくせに。 「その、ひとりひとりがどうとかじゃなくて……そうなってしまうのがさ。動物みたいに。それが嫌なんだ」  俺はキーボードを叩いた。俺たちは藤野谷が書いたシナリオと俺の絵を取りこんだ動画で、ゲームと小説と映画の要素が混ざったような映像を作ったのだ。もうほとんど完成していた。  映像を作るのははじめてだった。かなり興奮した記憶がある。自分が描いた絵が動く驚きと喜びを俺はこのとき初めて知ったのだ。 「昔――俺が生まれる前の話なんだけど、父の兄、つまり伯父さんがさ、オメガの男と婚約したんだけど……別のアルファのところに逃げたんだ。相手は『運命のつがい』だったらしい」  俺は黙ったまま聞いていた。藤野谷はモニターを見ながらつぶやくように話した。 「婚約していたからそのオメガは一度伯父さんのところに戻って結婚したけど、その後また駆け落ち事件を起こして、最後は結局病気で亡くなった。で、そのあと伯父さんも少し――おかしくなって、俺が小さい頃に行方不明になった」  俺は何気ない様子を保とうとした。カーソルを無意味に動かして、完成している部分を何度も再生する。同じ映像がくりかえし流れる。 「それで俺の父が代わりになったわけだけど、俺は父の唯一の息子で、アルファで、他に直系はいないから、俺もそのうちどこかのオメガと子供を作らなくちゃいけない。もちろんアルファのね。――っていうのが、俺の母の言い分」  藤野谷は小さな笑い声をもらす。 「犬の血統みたいだろ。そのくせ『運命のつがい』なんて現われたら、今度は逆らえないらしい」  俺は黙ってマウスをいじりつづけた。藤野谷が俺をベータだと信じているからこそ、この話をしているのがわかっていた。自分が本当にベータならよかったのにと思った。それともベータのふりなんてしなければよかったのか。  俺をオメガと知っていれば、藤野谷は俺と友達になろうなんて思わなかったかもしれない。  でも仮にそうだったら、俺はひとりでこれを作れただろうか。  マウスが震えて俺の手から落ち、あわてたように藤野谷が拾う。 「ごめん、重い話して」 「いいよ」と俺はいう。  翌日の発表はうまくいった。作品は大好評で俺はまぎれもない充実感を味わったし、藤野谷も得意げだった。彼の横で注目され、大人のアーティストにも褒められて、俺は鼻高々だった。  だがその夜、知らせがきた。  佐井家の祖父が倒れたというのだ。電話は未明に鳴り、早朝迎えにきた峡の車で俺はアートキャンプを離れた。誰に別れをいう時間もなかった。  車が走り出してから、藤野谷と連絡先の交換すらしなかったことに気がついた。

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