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【第1部 カフェ・キノネ】15.影たちの審判(前編)
「ツリー、飾ったままなのか」
野菜を刻みながら峡がたずねた。
「ん?」
俺はリビングの方をふりむく。午後の日差しに流木のツリーに下げたオーナメントが反射し、きらきらと光っている。床に透明な影が揺れる。
「いいだろ、別に。なんならみかんとウラジロでも吊るそうか。正月仕様で」
「サンタとトナカイくらい休暇に出してやれよ。働きすぎだ」
「それ自分のことだろ」
峡から返事はなかった。何事もなくクリスマスが過ぎ、明日は大晦日だ。年越しは例によって峡の車で佐枝の実家へ帰り、正月は向こうで過ごす。いつもと同じだった。
ふりむくと峡は鍋に向かい、刻んだ野菜とベーコンを炒めている。十五歳離れた叔父はいまだに独り身で、俺の世話にかまけているが、これまでつきあった相手がいないわけではない。一度は恋人を俺や佐枝の両親に紹介したこともあったのに、家庭を持つには至っていない。
自分のせいかもしれないという疑いを俺はひそかに持っていたが、直接たずねるのもおかしな話だった。でも昔から峡は俺に何かあるとすぐに飛んでくるようなありさまだったし、血のつながりもない名目上の甥にかまけすぎていれば、恋人に愛想をつかされることだって十分ありうるだろう。
「零、ワイン入れて」
催促されて俺は赤ワインの栓を抜いた。峡はともかく、俺はほとんど飲めないのに何を考えてマグナムボトルを持ってきたのかと思ったら、コック・オ・ヴァンを作るのだという。俺はワインをどぼどぼ鍋に注ぎ、底からかき混ぜて火から降ろした。峡の方はフライパンで骨付きのトリモモを焼いている。
「クリスマスもなしでこんなことしてて、いいの」
真剣な顔でトリの焼き加減をみている峡に俺はいった。
「こんなことって」
「年の瀬にこんなところでトリの赤ワイン煮込みなんか作ってるってこと」
「何か問題あるか? ああ、たしかにあるな……おまえもいいかげん――」
「俺じゃなくて峡の話だよ」
「俺か?」峡はきょとんとした表情になった。
「俺は楽しいぞ」
「あ、そう」
峡はトングでトリ肉をひっくりかえした。クリスマスの余り物で半額になっていたらしい。皮にきれいな焦げ目がつき、いい匂いがする。
「たしかに零が年の瀬に俺とふたりで料理なんかしてるのは良くない」
「またその話」俺はぶつぶついった。やぶへびだ。
「ほっとけよ」
「なあ、零。時々は〈ハウス〉へ行けって。誰かと付き合えとかそういうのでなくて、この先どうするにせよ、その方が安定するし――」
「この前みたいなのはめったにないんだ」
俺はややきつい口調でさえぎったが、峡は気にした様子もなかった。
「研究職でも医者は医者だからな。情報も入ってくるんだ。紹介制で、定期的にカーニバル・デイを開催してるハウスもある。顔を出したくないならそういう時に行くのもいいかもしれん――おっと、どいてろ」
峡は焼き目のついたトリを鍋に移した。大きな肉とニンニク、塩、ハーブの束が赤ワインに沈んでいくさまは、童話に登場する魔女の鍋のようだ。さらにレードルをかまえ、アクをすくう準備万端で、まだ煮立ってもいない鍋をみつめながらいった。
「ちょうどいい、今日はあるハウスの紹介状を持ってる。あとで渡すよ。最後はいつだ?」
俺はちょっと考え、しぶしぶ答えた。
「二年? いや、三年前かな……?」
「神父じゃあるまいし、どうしてそんなにストイックなんだ」
「悪かったな」
ワインと肉の濃厚な匂いを嗅ぎながら椅子をひいて座った。ワインの瓶を透かすと、まだ三分の一は残っている。
「少し飲もうかな」
「飲め飲め。潰れたら寝かせてやる」
「過保護だって」
「年末だからな、零が飲んだ分だけ俺の肝臓が休める」
ガラスのコップに無造作に注ぐと、見た目はワインというよりぶどうジュースだった。ちびちび啜っているだけなのに体が暖かくなり、気持ちが軽くなる。
「零、例の会社の仕事はどうなんだ」
峡はコンロの前に立ったままワインのコップを傾けていた。ワンカップで色付きジュースを飲んでいるようで、雰囲気も何もない。
「ん? 順調だよ」
「その――何事もないか?」
藤野谷の話だというのはお互いわかっていた。
「直接顔を合わせるわけじゃないからな」と俺は答える。
「最初に彼と会った時、どうだったんだ?」
俺はふと眉をあげる。学生時代、藤野谷について峡とは何度も話をした。だが、今のような質問をされたことはなかった。
「どうって」
「何かその――感じたりとか」
「何度もいっただろ。色だよ。色がみえて――おかしな感じで……」
「俺がその時点で気づいていればな」
「今さらだろう。それにまだヒートも始まらないのに、わかるもんか。藤野谷家と佐井家のいざこざはまた別の話だし」
「正論だ。だがな――零」
「なんだよ」
俺の頭は熱が上ってぼうっとしはじめていた。鍋からはいい匂いがするし、たまに飲む酒は回りが早い。
「これは銀星には面と向かっていえないんだが――実際のところ俺は、おまえたちがその……運命のつがいで――うまくいくのなら、たとえ佐井と藤野谷のこれまでの因縁を含めたとしてもだな、いいことじゃないかと……思うんだが……」
俺は黙っていた。胸のうちにもやもやしたものが渦を巻いた。俺の最初のヒートは十六歳の三月に起きた。桜もまだ咲かない頃だった。当時はあと二年程度、猶予があると思われていた。何しろ俺は生まれた時からホルモンの分泌量をモニターされていたのだ。
峡が俺と藤野谷が〈適合型〉関係にある、つまり運命のつがいだと確信したのは、予想外に早く訪れたヒートのせいだ。一般的に成熟したアルファの|発情《ラット》はオメガのヒートに触発されるが、運命のつがいには例外があるという。たびたび報告されているのは、双方が若年で接触した場合「同時に成熟する」現象だ。
そして運命のつがい同士は――特にオメガ男性の場合――妊娠率が高い。
これはほぼ常識とされていて、よくある恋愛映画では、運命のアルファと出会ったオメガは艱難辛苦をのりこえたあげく子供を授かって一件落着する――あるいは、子供を授かってから艱難辛苦をのりこえて、一件落着する。
あれとこれを組み合わせてみよう。きれいに嵌まりそうだ。だからきっとうまくいく――というのは大人の論理だ。
十四歳の、十六歳の、そして二十二歳の感情にはそぐわなかった。俺も藤野谷もそうだったし――たぶん俺の実の父もそうだったのだろう。
ではあれから八年も経とうとする今はどうなのか。
「零? 眠いのか?」
はっとしてコップを置くと、峡の眼が気づかわしげにみていた。
「ん? ああ」
「リビングに行ってろよ。俺はまだこの鍋を見張る」
俺はソファに座って床にツリーが落とす影をぼんやり眺めた。流木の曲線のあいだで、オーナメントが暖められた空気にかすかに揺れている。
藤野谷と同じクラスだったあの年、一年間だけ通った校舎は都心の最新式のビルディングだった。窓ガラスは紫外線カットで空調は完璧。誰もいない教室は静かで、ノートをめくる音もはっきり聴こえるくらいだった。
「サエ、休講だって」
藤野谷が呼ぶ声を俺は聞く。
「それで誰もいないんだ」
「みんな自習室だ」
藤野谷は俺の前の椅子に座り、ノートを見る。
「なに、パラパラマンガ?」
「うん」
「犬だ。へえ――なにこれ、花咲かじじい?」
「そうだね」
「なんでこんなの描いてんの?」
「なんでだろう。花を描きたかったから、かも」
藤野谷は勢いよくノートの端をめくる。良いおじいさんが桜の根元に灰を撒くと、たちまち枯れ木に蕾がつき、花が咲く。
「意味ないよな」俺はぼんやりとつぶやく。
「なんで?」と藤野谷がきく。
「だって犬はもう死んでるんだぜ。宝のありかを教えなかったからって隣のじじいに殺されてる。その灰を撒いたら桜に花が咲くって、つまり灰が肥料になったってだけだろう」
「サエ」
藤野谷がささやく。吐息が顔のすぐ近くで感じられる。
「これの改変小話しってる?」
「何」
「良いおじいさんがポチが吠えた場所を掘ると金銀財宝が出てきました。悪いおじいさんがポチが吠えた場所を掘るとカエルやゲジゲジがたくさん出てきました。怒ったおじいさんはポチの足をつかんで振り回しました。するとポチがいいました。ハナサンカジジイ」
「……おまえいつも、そんなこと考えてるの?」
「まさか」
俺が顔をあげると藤野谷の笑顔がすぐそこにある。
目尻があがって、真っ白の歯がきれいに並ぶ。
「零、……零」
肩を叩かれて俺は眼を覚ました。峡が俺の上にかがみこんでいた。
「ソースの味見をしてくれ」
俺は顔をこすった。「もう?」
「一時間半は煮込んだぞ。さあ、コック・オ・ヴァン年末ヴァージョンだ」
「年末ヴァージョンて……」
「今回はこれを持ってきた」
峡はなぜか得意げに調味料の箱を掲げている。
「グラスドビアンドだ。持ってないだろう? 最近知ったんだが、これを煮込み料理に入れるとすごく美味くなるんだ」
俺はもう一度顔をこすった。
「えーと、西洋版味の素みたいなの?」
「何いってる、もっと高級だ」
峡のテンションが高いのはきっと残りのワインをひとりで片づけたせいだ。俺は呆れていいかけた。
「峡、料理に凝るのはいいけど、俺にばっかり食わせてないでさ――」
「いいから味見しろ」峡は俺をさえぎり、そして「これだ。忘れないうちにな」と真珠色のカードを俺の手に押しこんだ。
日光を反射してプラスチックに刻まれた文字がきらっと光った。カワセミのような色合いだった。俺は優美な筆記体を解読しようと眼を細める。
「ハウス・デュマー」そう読みとれた。
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