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【第1部 カフェ・キノネ】16.影たちの審判(後編)
年が明けた。
元旦は穏やかな気候だったが、その後急に寒くなって、一月の終わりには雪が積もった。俺の住まいは住所だけ見れば首都である。だが都内と違って地面に残った雪はなかなか溶けず、早朝は軒から垂れたしずくが氷柱になっている。
国道の雪は三日も経てば消えたが、カフェ・キノネの庭はまだ白く、中央に立つユリノキが美しかった。俺は写真を撮りながら駅まで歩いた。顎をマフラーにうずめるようにして電車に乗る。久しぶりの人混みにすこし怖れをおぼえた。武装するかのようにジャケットとコートを重ねているのに、すぐ隣に立つ他人の匂いが気になった。
TEN-ZEROの本社は中央省庁の異動した跡地を再開発した、広大なオフィス/ショッピングゾーンの一角にあった。ここで、ふだんは別々の場所を拠点とするチームが集まる中間発表の場を設けるという。部外秘だが、俺は藤野谷直属のチームの一員として特別に招かれたので、はるばる出かけたのだ。
春に発売予定のTEN-ZEROの新製品は第三者機関のテストにも通り、極秘のモニターテストを完了したところだった。これまでのTEN-ZEROの製品同様、完全オーダーメイドだが、顧客から採集した皮膚ガスを定量分析した結果と、AIによる質疑応答から顧客がおかれた生活・社会環境を解析した結果を統合してオリジナル香を合成する、という手のこんだ製品で、しかも廉価で提供するのだという。
カンファレンスルームで行われた中間発表会は、情報流出防止のために徹底した管理が敷かれていた。情報端末はすべて持ち込み禁止で、その場でひとりひとりに顔写真つきのIDが発行される。外部への流出を防ぐためロゴとブランド名はまだ社内ですら伏せられていた。知っているのは数名らしい。部外者の俺は当然知らされていなかった。俺の作業もまだ終わっていないが、この発表会で見せられる程度のものはできあがっていた。
開発チームの報告のあと、鷹尾が壇に立つ。場内が暗くなる。
スクリーンの白い面がざわっと波うつ。まとまりのない線がうごめいて、形になる。
影があらわれる。
三波が俺のすぐ横に座っていた。ニヤッといたずら小僧のような笑顔を向ける。俺もニヤッとする。三波の能力がなければこの時期に間に合わせることはできなかったに違いない。
影が歩き出す。影なのにちらちらと移りかわる光の粒をまとっている。影が増殖する。それぞれの影がまとう粒のパターンはすべて異なって、有機的に動き、影同士が交差するたびに光の粒も一部融合し、離れ、またもとの影に戻る。
突然、それがリアルな現実の――実際は3CG処理によるものだが――映像に移りかわる。先ほどまでの映像に対比するせいか色と形は妙に生々しい。そこへもう一度光と影がかぶったとき、スクリーンはいい表しがたい輝きに覆われる。
鷹尾の手元に明かりがついた。観衆の緊張がゆるむ。グラフを描いたスライドが表示され、具体的な発表――マーケティングリサーチからアーティストプログラムの意義まで――がはじまる。
なめらかな声を聞きながら、俺は背中から力が抜けるのを感じていた。緊張しているのにだるかった。カンファレンスルームは隔離された空間で、藤野谷は少し離れた場所に座っている。隣にいるわけではないのだ。なのに俺の体はみえないものに支配されているようだ。
絡めとられてしまう。
こんな風に閉じた空間にあいつとふたりでいたことがある。俺の心はぼんやりと記憶をさまよった。今と同じように一年でいちばん寒く乾燥した季節だった。二月。卒業式のリハーサル。藤野谷は生徒会役員で、俺はなぜか彼の助手をさせられていた。俺たちは十六歳だった。講堂の袖からオペルームへの狭い通路。暗がりに浮かぶあいつの〈色〉と――匂い……
その高校は一年しか通わない予定だった。もともと俺は、他の事情が許せば都心を離れた別の学校を受験する予定だったのだ。だが峡の任期が延長になり(彼は当時、都心の総合大学に在籍していた)俺は急遽、峡のマンションに同居して近くの高校へ通うことになった。
同じクラスで藤野谷をみたとき、背筋に震えが走ったのを覚えている。俺はその時すでに藤野谷と佐井の関係を知っていたから、きっと恐れのせいだろう。でも何を恐れたのだろう。今となってはよくわからなかった。俺も藤野谷もただの子供で、しかも家と家との因縁なんて大時代なことは笑い飛ばしてよかったはずだ。
それにあの震えにはべつの要素も混じっていた。いうなれば期待や希望、だっただろうか。かすかに甘い香りのする何か。
藤野谷の反応はもっと単純だった。十四歳の時にくらべると彼は背がずっと伸び、肩幅も広くなって、顔つきもすこし鋭角に変わっていた。俺をみて彼は笑った。本当に嬉しそうな、心からの笑顔で。
「佐枝零――サエ!」
ここで会えると思わなかったといわれたがそれは俺も同様だ。藤野谷から声をかけてきたので俺はクラスで一気に目立ってしまい、内心焦った。隅でおとなしくしている予定だったのがぶち壊しだ。
高校の藤野谷はアートキャンプの時と同様、すぐにリーダー格のアルファとして人気者になった。入学早々から周囲に人が集まったが、俺はその中に入りたくなかった。どうせ一年で消えるのだ。それに俺の出自を知ったら藤野谷が何を思うか見当もつかない。佐井の祖父から実の両親や、藤野谷家に関わる事情をすべて教えてもらったのは、アートキャンプから戻ってまもなくのことだった。
ともあれ、クラブ活動に参加しない生徒にとって、高校は勉強、テスト、あとは退屈な学校行事のくりかえしでしかない。藤野谷が介入してこなければ俺は無口で目立たないベータのひとりで終わったはずだ。教室の隅でノートに落書きをして、休み時間の話し相手は同じく目立たないベータの男子になっただろう。
だが藤野谷はそこに強引に割り込んだ。入学早々から俺をひっぱりまわし、教師に頼まれた雑用の片棒を俺にかつがせ、放課後に誘いをかけ、ペアを組む実験や調査学習では俺を指名した。俺が周囲に何となく、藤野谷の子分もしくは影として扱われるようになったのは仕方ないことだろう。俺を引っ張り出そうとしたのは藤野谷の方なのに、あいつの方が光が強いから、俺はあいつにつきまとう影にみえたのだ。
今にして思えば、どうせ影でいるなら教室の柱の影の方が楽だった。藤野谷に接近したがる生徒に俺はやっかまれたし、嫌がらせこそなかったが他に友達はできなかった。
でもあの一年、藤野谷と一緒にいてよかったと思ったことは何度もある。藤野谷は俺の絵が好きだったのだ。そして俺も藤野谷が話す突拍子もないアイデアやくだらない冗談が好きだった。
「寒い」と俺はぼやく。教室は暖房が効いているが、誰もいない講堂の空気は冷えきっている。
「あそこだ、フロントサイドライト」藤野谷が指さす。
二月の校舎はひとの気配も薄かった。受験真っ最中の三年生がほとんど学校へ来ないからだろう。講堂二階の袖通路に至っては誰もいないどころか、普通は生徒が出入りできない場所だ。つきあたりに照明機材が二基置かれ、ステージを見下ろしている。
「生徒会ってつまり雑用係だよな」と俺はいう。
「その通り」
「天は進んで雑用係になったけど、俺は何なの」
藤野谷はしらっと答えた。「サエは俺の片腕」
「勝手に決めるなよ」
「みんなそう思ってる。文化祭でさ」
「そんなことない」
秋の文化祭で藤野谷が主導したクラスの出し物(定番の迷路仕立てのお化け屋敷)は、シナリオの秀逸さと手のこんだセットが評価されて学校賞をとったが、このとき俺が絵を描くことが周囲にバレた。美術部やイラスト部や漫研にアニ研、はては陶芸研究会まで勧誘にやってきて、俺はすべて断ったが、藤野谷は生徒会にスカウトされ、冬休み前の選挙を経て役員になった。
生徒会一年生の最初の晴れ舞台は卒業式のステージングだという。とはいえ新生徒会役員だけでは人手が足りない。各委員会メンバーのほかにも助手を使っていいといわれた藤野谷は、当然のように俺を指名した。
「学校賞は俺が仕切らないとダメだったし、サエがいないと獲れなかった。みんな驚いていたよな、サエの下絵。神っていわれてただろ」
「なんで天が自慢してんの」
「嬉しいから。俺はみんなにサエのすごさを知ってほしかったし」
「すごくないよ」
俺はつぶやくが、頰がぽっと熱くなる。
「美術部とか先生の勧誘、どうして断った?」と藤野谷が聞く。
もうすぐいなくなるから――俺は言葉を飲みこんだ。
誰にも転校することを教えていなかった。大きな理由は転校先で俺は「ベータ」でなくなるはずだったからだ。そのころ俺はすでに、ベータに偽装する一連の処置が、家庭に複雑な事情があるオメガの保護プログラムに則っていることを知っていた。つまりうしろめたいところは何もないのだ。それでも俺をベータと信じている人々を裏切っている気分はぬぐえなかった。
藤野谷の場合はとくに。
俺は黙っていなくなるつもりだった。
「あの時は面倒くさかったから。二年になったら考えてもいいかも」
そう答えると藤野谷はニヤっとして「そしたら生徒会から正式に協力を頼んで、サエを貸してもらう」という。俺は肩をすくめて「勝手にしろよ」とつぶやく。
「でもサエも嬉しいよね」と藤野谷はたたみかける。
「俺と一緒にやるの」
俺は首を振ってあきれた視線を送る。
通路は狭く、藤野谷はすぐ横に立っている。こいつはまだ背が伸びていて、眼を合わせるには俺は少し顎を上げなければならない。
だがうっかりそんなことにならないよう、この頃俺は注意していた。藤野谷と視線が合ったり、はずみに指が触れたりすると、なぜか体の奥がどくどくと脈打って、熱が上がるような気がするのだ。どうやら俺にしか見えないらしい、藤野谷につきまとう〈色〉のような輝きも最近妙に強く、しかも俺はその状態に慣れつつあった。磁場のようなものがあって、吸いよせられるような気がする。正体のしれない衝動で、俺はそれが怖かった。
ステージ照明は何種類もあり、藤野谷は前年の記録とつきあわせながら照明プランを作っていた。舞台照明器具の使い方については講習を受けたが、何しろ素人の高校生だ。俺たちはオペルームとサイド、ステージを行ったり来たりして機材の配置を確認した。下校時間の前に終わらせなければならない。オペルームは講堂二階の背部にあり、ガラス窓からステージを見下ろせる。操作卓でいっぱいの小さな部屋で、外部の音もいっさい聞こえない。
何度目かの往復の途中、突然すうっと、何の前触れもなくあたりが暗くなった。
「停電?」
上部の窓は夜の薄青に変わっていて、屋内はほぼ真っ暗だ。少し先に藤野谷がいる。暗いのにまとわりつく輝きではっきりわかる。
「照明のせいでブレーカーが落ちたとか」と藤野谷が笑う。
「まさか」と俺。
通路をたどって講堂の出口へ行く。学生証を兼ねたICカードの鍵をかざしても、思いがけないことに扉が開かない。
「まさか、本当に停電?」藤野谷がつぶやいた。
「停電だと鍵も開かない?」
さあ、と藤野谷が首をふる。俺たちは他の出口も回ったが、どれも反応しなかった。藤野谷はモバイルを取り出して電話をかけたがつながらない。講堂は電波が弱いし、ネットがつながらないのは校内Wifiの電源が落ちているためらしい。
講堂内を二周したあとで俺たちはあきらめて復旧を待つことにした。この停電が校内だけでなく広い地域に及ぶもの(いわゆる「首都圏大停電事件」)だと知ったのは翌朝のことだ。
「寒い」と俺はつぶやく。
「オペルームにいよう。あそこの方がましだ」
狭いオペルームには椅子がひとつしかなかった。幸い電池式のLEDライトがあった。俺はバックステージで拾った暗幕を床に敷き、操作卓のうしろの壁にもたれて座った。足をのばせる程度の幅しかない。藤野谷はしばらくモバイルで外部と連絡をとろうとがんばっていたが、やがて電池がもったいない、といって切り、俺の横に座った。
LEDの白い光と藤野谷がまとっている色が俺の視界で混ざる。突然、隣にいる藤野谷の熱を肌に直接感じたように思った。俺はみじろぎした。
「これ、飲んでいいかも。未開封だ。チョコレートもある」
藤野谷は誰かの忘れものらしい缶コーヒーをライトにかざし、プルタブをあけた。少し飲んで俺にまわす。
「半分ずつ」
喉が渇いていたにちがいない。甘い缶コーヒーはこれまで感じたこともないくらい美味しかった。俺は飲みかけの缶を藤野谷に返して暗幕の上に座りなおした。突然体の奥がぽうっと、はっきりと熱くなった。まるで火がついたように。次にぶるっと震えが走った。
「サエ?」藤野谷が缶の残りをあおる。「寒い?」
「あ……よくわからない」
「くっつこう」
藤野谷が暗幕の端をひきよせる。「一緒にくるまろうぜ」
腕が俺の肩にまわされた。それを拒否することなど思い浮かばず、俺はされるがままだった。暗幕にすっぽり包まれ、制服ごしに触れる藤野谷は暖かかった。あたりは暗く、閉じこめられて外と連絡がとれない状況なのに、途方もない安心感を覚えた。
「チョコレートもいただいてしまおう。俺たちのためにこれを忘れてくれた誰かさん、ありがとう」
そう藤野谷がいう。こんな状況でもその声は明るかったし、楽しんでいるようにも思えた。
「チョコレートなんて、遭難してるみたいだ」俺はつぶやく。
「そう――」藤野谷がいいかけたが、即座に俺は指を立てる。
「天、おやじギャグ禁止」
LEDの小さな明かりでも藤野谷の口元はよくみえた。ニヤッとして「俺がいおうとしたこと、わかった?」という。
「わかる」
「さすがサエ」
「馬鹿」
突然口にチョコレートが押しこまれた。不意打ちに俺は口をもぐもぐさせて抗議する。
「いきなり入れるな」
「口封じ。サエはすぐ俺を責めるからな」
チョコレートのかけらは大きすぎる。俺は半分を噛み割って、やっという。
「馬鹿、口封じってこんなのじゃないだろ」
「そうだっけ」
「ある種の比喩だよ比喩。金を渡すとか……」
「それチョコじゃ足りない? じゃあ比喩じゃない口封じで」
「何いって――」
ふいに唇がやわらかいものでふさがれた。
暗幕の中で藤野谷の腕が俺の肩を押さえていた。まるで抱きしめられているように。俺の唇を熱いものがなぞる。チョコレートが濃厚に香る。それとはべつの匂いもする。ひどく甘い匂いだ。俺の口の中にある溶けたチョコレートを熱い舌が覆う。
腰に強烈な甘いしびれが走り、頭のてっぺんを貫いて溶けた。力が抜けそうになった俺の腰を藤野谷の手がささえ、そのときやっと俺の頭は藤野谷とキスしていることを理解した。
「――馬鹿っ……何やってんだ!」
俺は体をよじって腰にまわされた腕を振りはらった。藤野谷の手を突き放すようにして立ちあがる。その拍子に壁に頭をぶつけそうになった。暗くてろくに見えないのが幸いだった。足が震え、震えながらも腰の奥でうごめく熱さと堅くなった股間を意識する。
睨みつけた藤野谷の顔には余裕がなかった。
「サエ。俺は――」
「こんなときにふざけるなって」
「俺は……」
藤野谷は床に座りこんだままのようだが、暗がりにぼんやりみえる影以外何もわからなかった。俺が突き飛ばしたはずみにLEDライトが床におちたからだ。
「ごめん。――どうかしてたみたいだ」
藤野谷がそっという。
俺の体の奥はまだどくどくと音を立て、股間が張りつめて苦しかった。俺のなかでいっせいに走り出し、行く場所もわからないままやみくもに出口を探して流れるものがある。藤野谷をみつめたとたん一直線にそちらへ向かっていく。息があがり、苦しくなった。
あのキスを続けてほしかったのに、と心の片隅がささやいた。あのキス――あの匂いに飲みこまれてそのまま……
俺はよたよたと体を曲げ、くしゃくしゃになった暗幕を拾い、たたみ直した。
「落ち着こう。待っていれば誰か見に来てくれる」
藤野谷にというより、自分にいい聞かせるつもりで声を出す。
「サエ。ほんとうにごめん」
藤野谷がまたいった。
「天は俺よりデカいんだ。あんなの卑怯だぜ」
「ああ…そうだな……」
「他のやつにやってやれよ。モテるんだから」
まだ体じゅうが熱く、この熱をどうしたらいいのかわからないのに、俺の口は勝手に喋っていた。ぜんぶ他愛ない冗談にしたかった。
たぶん本能的に知っていたのだ。知られてはならない、隠さなくてはならない、と。
「モテないよ、俺は」小さく藤野谷がいった。
俺は暗幕の上にまた座りなおし、壁によりかかる。床におちたチョコレートのかけらを拾う。
「嘘つけ。B組の子とか、C組の話とか、噂で聞いたよ。告られてるの」
「オメガの子とは付き合わないから」
刺すような痛みをおぼえた。俺は眼を閉じる。
「他にもいるだろ。おまえに告ってるの」
「いいよ……付き合うとか」ため息のような音が聞こえた。
「俺はサエと一緒がいい」
どのくらいのあいだ暗闇にじっとしていたのだろう。
今度は離れて座って、俺たちはあまりしゃべらなかった。体のほてりは次第におさまり、俺はだるさと眠気を感じていた。やっと非常電源が回復し、藤野谷のモバイルがつながるまで、数時間かかったと思う。
たとえ数時間のことでも、その日起きた首都圏大停電はあちこちで種々のパニックと事故を引き起こした。俺と藤野谷のあいだで起きたのもきっと同じような出来事だ。
俺はそう考えようとしたが、動揺は抑えられなかった。迎えにきた峡はすぐに異常に気づいたらしい。
それから三日後、俺に最初のヒートがはじまった。
「それではもう一度、最初の映像をご覧いただくと説明の意味をより理解していただけるかと思います。この映像はアーティストの佐枝零氏によって可能となりました」
鷹尾が俺の名前を出し、俺は我にかえる。このビルはあの校舎と同じような建材の匂いがする。鷹尾がしきりとこちらにジェスチャーするので俺はぎこちなく立って軽く礼をする。
もう一度スクリーンに映像が流れる。影たちが動く。
俺の作品に何度もあらわれるあの「影」は高校を転校してから、俺のスケッチブックに出現した。もう描くのをやめようと思っても描いてしまう像だ。何度も描くうちに形が変わって、いまでは誰にもわからないが、あれは藤野谷のイメージだった。俺自身にはごまかしようもなく、はっきりとわかっていた。
だからこそ破ったのだ。ある晩、うんざりして、破ってくしゃくしゃにして――なのに捨てきれず、その皺をなぞった。そして数年後、ただの線の交差とからまりになったそれを動く映像にしてみたら、そこから現れたのはまた同じ「影」だった。
俺は藤野谷が座る方向をみた。場内は暗いが俺には見えていた。スクリーンにあらわれる光と影の輝きと、藤野谷のまとう〈色〉が重なり、踊るように動く。俺の視界で〈色〉がにじむ。スクリーンの動きと〈色〉は不思議なくらい同期していた。
ひょっとして、俺はあの〈色〉を多少は再現できたのだろうか。
ふとそんなことを思ったが、まばたきすると幻想は消え去った。
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