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【幕間1】蓮の花ひらく頃

 佐井葉月(さいはづき)藤野谷藍閃(ふじのやらんせん)と四歳違いで、幼馴染だった。  佐井家は〈オメガ系〉として、長年アルファの名族にオメガの男女を嫁がせていた歴史を持つ。しかし佐井葉月が生まれた頃、世界は変化しつつあった。アルファの子を得るためにオメガが意に反して婚姻を強制されるという物語は昔話になろうとしていた。  従って、藤野谷家の長男であるアルファの藍閃と葉月を子供の頃からの許嫁としていたのは、何世代ものあいだ藤野谷家のようなアルファの名族と佐井家が続けてきた慣習でしかなく、いつでも撤回できる口約束だったはずだ。  とはいえ幼い頃、葉月は藍閃を慕っていたので、葉月に異論がなければ藍閃とめあわせるのは自然なことだと、周囲が何となく信じていたのは否めない。  葉月が藍閃を避けるようになったのは、おそらく藍閃ではなく、彼の父で当時の藤野谷家当主、|藤野谷天青《ふじのやてんせい》に原因がある。天青は典型的な、前時代のアルファだった。今では一笑に付されるような時代錯誤なものの見方――アルファが頂点にいて世界を支配し、ベータは優れたアルファに従い、オメガはアルファを再生産するために存在する――を信じている人間だったのだ。  当時ですら、彼のような考え方は良識ある人々に眉をひそめられるものだったが、閉ざされた「家」の内部では、天青はすべてを支配していた。そんな天青からすると、オメガの葉月は自分の「家」が所有すべき財産でしかない。当然のように葉月は天青を嫌った。そして天青に従順な息子のアルファ、藍閃も避けるようになっていった。  葉月に婚姻の意思がなかったのなら、彼は藍閃との婚約を拒否することもできたはずだ。  しかし〈オメガ系〉に生まれるオメガは|発情期《ヒート》の間隔が他のオメガよりも短い。ひどい場合は男性のオメガであっても女性の月経周期と同程度の間隔でヒートが来るという。私のようなベータには想像もつかないが、ヒートの身体的・精神的負荷は大変なものだという。  葉月が藍閃との婚約を承知したのはこのためではないかと考える者は多い。彼は十八歳だった。最初のヒートはその一年前に始まっている。おまけに葉月は他のアルファと知り合う機会をめったに持てなかった。天青がつねに圧力をかけていたからである。当時の佐井家当主、|佐井星葉《さいせいよう》は天青に対して無力だった。  これらの事情は私が藤野谷家で働くようになってから知ったことである。私は大学四年のとき、同学年の藍閃と知り合った。就職難で卒業後の進路を決めあぐねていた私に仕事をくれたのが藍閃だった。  藤野谷藍閃は不思議な男だった。藤野谷家のような名門に生まれたアルファなのに、世間が持っている肉食獣のようなイメージからほど遠い、物静かで洞察力に富んだ人間だったと思う。  一方葉月は才気煥発で、主張をはっきり行う性格だった。オメガの柔らかな美貌と強気な性格のギャップは彼をよりいっそう魅力的にみせていたが、天青と一から十まで合わなかったのは疑いない。  私が知っていることをもう少し書いておこう。  不幸なことに、藍閃と婚約した翌年に、葉月は柳空良(やなぎそら)と出会った。湖で知り合ったのだ。葉月は写真を撮るのが好きだった。同行していた親族から離れ、満開の蓮をカメラにおさめていたとき、空良に出会ったという。  私の眼の前にいま、葉月が撮った蓮の写真がある。濃い緑の葉の上に薄紅の花びらが天を向いて開いているが、この蓮がそれなのかは不明だ。水面に青空が映っている。  ふたりが出会った時、柳空良は二十七歳。今の私にはただのひよっこにしか思えないが、大学進学すら許されなかった葉月にはキャリアを持つ大人の男に見えただろう。実際空良は家柄など特にないものの、きわめて優秀なアルファだった。誰もが知っている大企業で頭角を現していたところだ。  運命のつがいは出会った瞬間、たがいにそれとわかるのだという。空良と葉月も例外ではなかった。ふたりはごく短期間で接近し、葉月は藍閃に婚約解消を申し出ている。  ところが、婚約解消はすぐに葉月の方から取り下げられた。葉月と藍閃の間に何があったのか知る者はいないが、短い間に何かが起きたことはたしかだ。天青も絡んでいるのかもしれないが、三人とも故人となったいま、真相を知る者はいない。  さて、その後の数年間、葉月と空良と藍閃のあいだの展開は目まぐるしい。婚約解消を取り下げた葉月だが、結婚式の直前に失踪し、空良のもとへ走った。しかし藍閃はこれを予想していたかのように冷静に動き、即座に葉月を連れ戻した。婚約無効を訴える葉月に対抗して藤野谷家は佐井家に訴訟を起こすが、これは葉月の婚約と同時に佐井星葉が藤野谷天青に資金援助を求めていたからでもある。葉月が妊娠していたこともあって――子供は調査の結果、藍閃の子と認定された――藤野谷家は訴訟を取り下げ、葉月と藍閃は結婚した。また柳空良は勤務先から海外赴任を言い渡される。  半年後、葉月は流産した。子供はアルファだったという。  それから三年間、葉月と藍閃のあいだに子供は生まれなかった。一般の常識に反して、つがいの相手がいるにもかかわらず葉月のヒートが穏やかになることはなく、それは藤野谷家に良い評判を生まなかった。正式に結婚したオメガのつがいがいつまでもヒートの匂いをまき散らしているのは、アルファの方に欠陥があるのではないか、というわけだ。これが藍閃を深く傷つけたのは想像に難くない。彼は葉月を愛していたが、葉月は彼によって幸福になることがなく、ふたりはたがいに傷つけあっていた。  長子である藍閃に子が生まれないので、天青は次男の|藍晶《らんしょう》も結婚させることにした。相手の|水津紫《すいづゆかり》は庶民の出身で、藍晶の大学の先輩にあたる女性のオメガだった。  藤野谷家の現当主で、藍閃の弟である藤野谷藍晶(ふじのやらんしょう)を葉月がどう思っていたのかは、私にはわからない。藍晶は葉月と同い年だったから、兄の藍閃より親しくなってもおかしくないが、どうもそんな間柄ではなかったようだ。藍晶は天青という強圧的な父の元で、次期当主となる兄を立てるように育てられたから、兄の許嫁とされていた葉月には近づかないようにしていたのかもしれない。  私から見た藍閃と藍晶はとても仲の良い兄弟だった。特に弟の藍晶の方が藍閃を慕っていたようだ。藍閃が失踪した後の藍晶は、何年間もまるで生気が抜けたようだった。藍晶と年上の妻との関係も愛情に満ちたものには思えなかった。ふたりの間にアルファの息子|天藍《てんらん》が生まれたとき、天青は大喜びだったが、藍晶は明らかに白けていた。  葉月と空良、藍閃の物語に戻ろう。  ふたたび出会うことがなければ、このまま三人は何事もなく年をとっていったかもしれない。しかし三年後、空良が日本に戻ったとき、偶然葉月に再会する。  どんな風に再会したのかを私は知らない。藍閃は私に話したがらなかった。ともあれ、直後葉月は失踪し、藍閃は手をつくして彼の行方を探したが、藤野谷家のコネクションをもってしても探し出すのに約一年を要した。この間に藤野谷家と佐井家の関係は悪化した。葉月の行方が分からないのは佐井家が隠しているのだと天青は引かなかったし、一方このあいだに佐井星葉のあとを継いで当主となった佐井銀星(さいぎんせい)は、そんな天青に従順どころか、徹底的に対抗したからだ。  しかし藍閃は家など関係なく葉月を探しつづけ、発見すると問答無用で彼を連れ帰った。葉月が出産していたことはその後に判明した。藤野谷家は今度は子供の行方を探した。普通に考えれば子供は葉月と空良の子であるはずなのに、藍閃の子かもしれないと天青がしぶとく主張したせいだった。それならその子は藤野谷家に属する――というのだ。  しかし藍閃はその子供が空良の子だとわかっていたはずだ。空良と再会する前から藍閃と葉月の関係は奇妙だった。私はヒートで苦しんでいる葉月の部屋の外に藍閃が突っ立っているのを何度か見ている。見てはいけないものを見たような気がしてあわてて去ろうとした私に藍閃は微笑し、自分にはどうにもできない、といったことをつぶやいた。ヒートのオメガの苦痛を止められるのはアルファのつがいだけだというのに。  藤野谷家が必死で探しても、葉月と空良の子供(〈オメガ系〉の性質からいってアルファかオメガだと考えられた)はみつからなかった。  この間も、天青は空良を遠ざけようと暗躍していたが、やがて葉月の病気が判明した。オメガ性特有の腫瘍のためで、手術は間に合わなかった。葉月が亡くなった後の藍閃は哀れだった。他人を哀れむなどおこがましいことだとわかっているつもりだ。しかしそうとしかいえなかった。空良がひそかに弔問に来て、私はその時はじめてこの男と話をした。  そしてふと思った。  この物語は、ふたりのアルファの間を行き来したオメガの物語なのか、ひとりのオメガをめぐるふたりのアルファの物語だったのか。  というのもその後しばらくして、藍閃と空良は同時に失踪してしまったからだ。  天青が亡くなると、藤野谷家は弟の藍晶が継いだ。私は現在その息子、藤野谷天藍(ふじのやてんらん)のアドバイザーとして雇われている。天藍は父親の藍晶にも、伯父の藍閃にも、母親にも似ていない。  最近天藍の雰囲気が少し変わったように思う。私は生まれた時から彼を知っているが、大学を卒業した後、彼はひどく荒れていた。若くして起業してからも、世間的にはバイタリティ溢れるエリートに見えるものの、内部にはどこか冷たい、突き放したようなところがあって、私は内心危惧していた。それがここ数カ月、学生時代の明るさや温かさを取り戻したようだ。  今日長々とこんな日記を書いているのは、あの蓮の写真を発見したからである。葉月に関係するものは藤野谷家には一切残っていないはずだった。なのに書庫で古い辞書を整理していたとき、ページの間から落ちたのだ。  もし生きているのなら、この写真は葉月の子供に渡すべきなのかもしれない。

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