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【第2部 ハウス・デュマー】1.フリージング・レイン
バーの片隅に座っているとジャスミンの匂いがした。
生花特有の、甘いが爽やかな香りだ。首をめぐらすとバーカウンターの端に小さな鉢植えがあった。蔓にびっしりとつぼみがつき、淡いピンクの花がいくつか開いている。真冬のこの時期に花が咲くのかと俺は少し驚く。
「ひとり?」
声の方へ向くと男が立っていた。背が高いスーツ姿のアルファだ。眼から鼻の上までを覆う仮面をつけているから造作はよくわからないが、自信ありげな立ち居振る舞いや口調は俺よりかなり年上のように感じる。手に持ったグラスからはウイスキーの匂いがした。
「そうだけど」
「いいかな」
俺は一瞬ためらい、そんな自分に自分でうんざりした。
「どうぞ」と答えたが、必要以上にぶっきらぼうになっていないか気になった。男はそんな俺の様子に気づいたのかどうか。ふっと仮面の中で眼が笑ったようだ。
「少しだけ飲もうと思って寄ったのでね。つきあってもらえるとありがたいんだが」
みるからに高級なスーツの袖口から銀色のカフスがのぞいた。男はなめらかに俺の前に腰をおろし、一段低くなったダンスフロアを見渡す。バーもダンスフロアも仮面をつけた人々で賑わっているが、ここより上の階のレストランはまだ閑散としているようだ。
「カーニバル・デイは盛況だね」
「そうなんですか」
俺は適当にこたえ、水割りをすする。俺も仮面をつけている。柔らかい素材なので特に視界や動きがさえぎられている感じもない。
「ひょっとしてはじめて来たの?」
「ええ。紹介されて」
男はうなずいた。
「そうなのか。それならびっくりしたんじゃないかな。このハウスは少し変わっているからね」
「そうですね。驚きました」
「初回だったら、サムと話した?」
「ええ」
「AIエージェントが案内をするハウスもここだけのはずだよ。サムはそのタグからいつでも呼び出せる」
男は手首につけたタグを指さし、反射的に俺も自分の手首をなぞった。来場者の管理タグだが、銀色の薄いパッチにチップが仕込んであるらしい。皮膚に貼るとたちまちなじみ、曲げ伸ばししても剥がれない。
「最先端のテクノロジーはたいしたものだ。本当はあのバーカウンターまで行かなくても、飲み物の注文だってサムがしてくれる。僕が何者かなんてことも、サムに聞けばいつでも教えてくれるはずだ。便利になったものじゃないか?」
男はまた笑った。口元がゆるむと張った顎の厳しさがとれ、優しくみえる。
「もっともAIエージェントに聞くまでもないけれどね。僕は加賀美 だ」
「ゼロ」
そう俺は名乗った。ひさしぶりに使う通称だった。
「ハウス・デュマーのカーニバル・デイへようこそ。といっても僕は時々飲みに来る、一介の客にすぎないが」
俺たちはグラスをあげてカチンと鳴らした。音楽が変わり、バンドの生演奏がはじまった。バンドマンもみな仮面をつけている。ゆったりした曲が流れ、抱きあうように体をぴったりくっつけて踊る人々がみえた。すでに仮面を外しているカップルもいる。
みなアルファかオメガだ。ベータはスタッフのみ。ひとが出入りするとき、一瞬だけヒートのオメガの匂いが漂うこともあるが、空調がきちんと働いているのだろう、すぐに消えた。
今日はカーニバル・デイだった。みな俺や加賀美と同様に仮面をつけている。俺は最初に仮面を渡された時、AIエージェントから受けた説明を思い出す。深いバリトンの声で話すAIはサムと名乗った。
仮面は黒いベルベット張りでしなやかに曲がる素材だ。つけると後頭部の留め金にロックがかかる。オメガはロックを外す言葉を自分で決めることができた。声認証で外れるのだ。
『オメガの方はずっと仮面をつけていてもかまいませんし、好きなときに解除することもできます。鍵にした言葉のあとに「解除」と続けるだけです。アルファの方の仮面は入場後二時間たつとロックが強制解除されます。鍵の言葉は何になさいますか?』
ハウス・デュマーはぜいたくな施設だった。単にバーやレストラン、ダンスフロアと個室がある娯楽施設ではなく、図書室やオーディオルーム、ミニシアターまで設置された会員制クラブといった趣だ。上階には個室があり、空いていれば好きに使うことができる。
外見も都会に潜む小さなシャトーといったところで、他のハウスと違って誰でも出入りできるわけではない。厳格な紹介制で、叔父の峡に渡されたカードに刻まれた認識番号なしにはネットで登録サイトに入ることさえできない。加えて事前に細かい個人情報の登録も求められた。
もちろんどこのハウスに行ってもIDは登録されるし、情報管理はきちんとしているものだが、声紋登録までするハウスなど俺は初耳だった。とはいえオメガはハウスの内部ではずっと通称で通すことができるし、個人情報は徹底的に秘匿される。一方アルファの方は、もしオメガが望むならハウスにIDを照会できる。
入場すると声紋を登録したタグで、施設内のAIエージェントとリンクする。俺にアクセスした男性の声のエージェント、サム以外に女性のAIエージェントもいて、名はキャサリン、というらしい。
サムの話し声はなめらかでほとんど生身の人間のようだった。俺のホームAIとはくらべものにならない。
『このタグで私にいつでも連絡が取れます。必要なことは何でもおっしゃってください。緊急事態や問題が起きた場合、私から連絡をさしあげることもございます。タグはお帰りになる時に外してください。外すのを忘れても、ハウスの外では無効になりますので問題はございません。それではどうぞ、快適な時間をお過ごしください』
「ここは初めてかもしれないけど、ハウスにはよく行くの?」
加賀美がたずねた。フロアのバンド演奏のおかげで聞こえにくいから、俺も少し声を張る。
「いえ、めったに行かないので、数年ぶりですね」
仮面というのは便利だな、と俺はぼんやり思った。相手の顔も自分の顔もはっきり見えないせいか気が楽だ。それにここ数日は抑制剤の量を減らし、中和剤をつけずに過ごしているせいで、いつもよりアルコールを飲めるから、その解放感もあったかもしれない。
気がつくと俺はふだんなら――ベータとしての俺ならけっして口にしないことを話している。理由はわからないが、自然に「オメガ」として扱われていることもまるで気にならなかった。
「苦手なんです。誰もが誰かを探しているような……雰囲気になじめなくて」
「そうだね」加賀美の口元がゆるむ。
「気が合うな。でもひとりで飲むのも寂しいから、僕はここに来るんだ」
また曲が変わった。俺は作曲家の名前をつぶやき、珍しいなとひとりごちた。加賀美が何かいったが、よく聞こえない。
「知ってるの?」
「何を?」
「この曲」
ええ、と俺は答える。
「この作曲家の音楽が好きで、彼が曲をつけた映画のサウンドトラックを学生時代によく聞いていましたよ」
加賀美の唇の端が嬉しそうに上がり、俺たちは突然、映画と音楽の趣味が一致することを発見した。
話が盛り上がるのと息を合わせるようにバーもフロアも騒がしくなる。バンドや他の話し声に邪魔されないように俺の声は大きくなった。曲が変わっても、しばらくのあいだ俺は加賀美とこの作曲家について話しつづけていた。こんなふうに誰かと――藤野谷以外と話すのはずいぶん久しぶりのような気がした。
と、俺の手元の飲み物がなくなっているのに加賀美が気づいたらしい。
「オーディオルームにはもう行ったかな?」
「いえ」
「よかったら案内しよう。静かだし、さっき話したコレクションもライブラリにあったはずだ」
並んで立つと加賀美は相当な長身だった。抑制的ではあるもののアルファの威圧が伝わって、俺はまた藤野谷を思い浮かべ、なぜかかすかな後悔のようなものを感じた。加賀美は俺に歩調をあわせているのか、ゆったりと歩いてバーのガラス戸をあける。回廊がめぐらされた中庭には冬の冷気がこもっている。反対側のガラス戸をあけると間接照明で照らされた廊下には厚い絨毯が敷かれていた。歩くと靴の踵が沈み、足音が吸いこまれる。
オーディオルームには誰もいなかった。ミニバーのカウンターで加賀美はウイスキーを二杯つくり、ひとつを俺に渡す。
「サム、僕がライブラリに登録したプレイリスト、流してくれ。ライナーノーツもタブレットに送って」
『かしこまりました』
AIエージェントのバリトンが響き、音楽が流れはじめた。いい音だった。俺はウイスキーのグラスを持ち、ソファに座った。知り合ったばかりの他人と同じ空間にいるのにくつろいでいた。すぐ隣に加賀美が座り、肩が触れあうのも気にならない。
俺たちはそのまま音楽と映画の話をしつづけた。加賀美はどちらもただの道楽だといったが、だとすると相当な趣味人だろう。一方俺はここしばらく、TEN-ZEROのプロモーションに使う映像にふさわしい音源についてスタッフや担当の音楽家と相談していたところだったから、映画にも音楽にも詳しい加賀美の話はちょうど俺の興味の中心にあった。
『加賀美さん、時間ですよ』
突然サムの声がオーディオルームに流れた。カチャっと小さな音が聞こえる。と、加賀美の仮面から留め金が落ちた。
「もう二時間か。忘れていた」
加賀美が小さく声をあげ、仮面に手をかけた。
「デュマーに二時間もいたなんて、ひさしぶりだよ」
『シンデレラはいつも長居されませんからね』
「サム、嫌味をいうなよ。だいたい僕はシンデレラにしてはとうがたちすぎている」
仮面をはずした加賀美の顔は彫りが深く、日本人離れした顔立ちだった。峡と同じくらいの年齢だろうか。思わず凝視してしまい、俺はあわてて眼をそらしたが、加賀美は逆に俺の顔をのぞきこんだ。仮面ごしにじっとみつめてくる。加賀美の指が俺の顎に触れた。
「|加賀美光央《かがみみつお》」
顔を近づけて彼はささやいた。ウイスキーの香りがする。俺もきっと酒の匂いをさせているだろう。酔っているのは自覚していた。加賀美と話しながら杯を重ねてしまったからだ。
「きみは……若い木のような匂いがするね、ゼロ」
「――どういうことです?」
俺は加賀美の眼をみつめる。今日は何も香水を、いつもの匂いをつけていないのに、どういうわけだろう。
「なにかな……控えめなのに、内側に力が隠れているような?」
加賀美は俺の顎に指をかけたままだ。
「ゼロ、きみの仮面の下もみてみたい」
唇がおりてきたとき、俺はじっとして動けなかった。心臓がばくばくと鳴っていた。ほんの軽い接触で、すぐに唇は離れていく。さらりとした麻布のような感触だった。
「本当に、いつもなら少し飲んで帰るだけなんだ。楽しかったよ。また会えるかな?」
加賀美は俺の肩を軽く抱いてささやく。
「……ええ」俺はあいまいにうなずいた。
「だいたいカーニバル・デイに来るんだ。――サム、僕は帰るよ」
『靴をお忘れにならないようになさってください』
「忘れてもゼロが預かってくれるさ」
加賀美はオーディオルームを出ていきながらもう一度振り返った。俺は自分の顔が火照るのを感じ、思わず頬に手をあてた。
ハウス・デュマーの外では頼んでいた車が待っていた。俺は車中でコートの雫をはらったが、みぞれが降っているわけでもないのに、指には水ではなく小さな氷の粒がついた。
「|雨氷《うひょう》ですね。めずらしい」と運転手がいう。
「みぞれじゃなくて?」
「空中では水なのに、地面に落ちたとたん氷になるんです。フロントガラスに氷がついているでしょう? 送り先はご登録のご自宅でよろしいですか?」
「ありがとう。頼む」
シートに背中を預けているとさらに酔いが回ってきた。頭の奥がくらくらして、加賀美の唇の感触を俺はひそかに反芻していた。体の奥がぞくりと震えた。
『新しい抑制剤は処方箋をきっちり守ること。中和剤は不要なときは使わずに減らしていきなさい。ヒートの間隔はどうなってる?』
ビデオ越しの峡の声に俺は素直に返事をする。
「不安定だ。いつ前兆がくるかと思うと怖い」
『世間にベータだと見せているから、ますます怖くなるんだろう。おまえの本来の姿でいられる場所を作っていれば気持ちも安定するはずだ。今さらではあるが……。前兆が来たらハウスへ行って個室へこもるのも手だ。前に渡したカードのハウスならそれもできるだろうし……行ってみたか?』
「ああ。峡、あの――」
『なんだ?』
峡の声はあっけらかんとしている。この叔父には昔からときどき、つかみかねるところがあると俺は思う。兄弟も同然に信頼している人なのに、そう感じるのも不思議なものだった。
「あのハウスはずいぶん……高級だなと思って」
『そうだな。セキュリティがしっかりしてるからアルファの有名人もお忍びで使ってるらしい。レストランも評判がいいらしいぞ。俺が再現できそうなメニューをみつけたらレシピを聞いておいてくれ』
峡らしい発言に俺は笑った。
「レシピなんて簡単に教えてくれるものじゃないだろう」
『わかるか。聞いてみろよ』
「いいけど、誰かとデートでもしないかぎりレストランになんて行きそうにない」
『だったら早くデート相手をみつけろ。料理好きの叔父の恩に報いてくれ』
峡は冗談とも本気ともつかない声でそういった。
もう二月だが、俺はあいかわらずひきこもって仕事をする毎日だった。TEN-ZEROのチームとのやりとりは定期的に行われていたが、一月の中間発表のあとは藤野谷から個人的な連絡が入ることは減った。
俺はそれを残念に思ったわけではない。けっしてそうじゃない。なのに空虚な気分が自分の内側を侵食しているような、そんな感じがなぜかいつもついて回った。TEN-ZEROのチーム、とくに三波や鷹尾とビデオで話した後はその気分が強くなった。
彼らはいつも自分たちのボスの話をする。ボス、つまり藤野谷のことだ。最近、以前にくらべて「丸くなった」と鷹尾がいう。
『うーん、アルファの雰囲気が変わる時って、私の経験則では誰かと付き合いはじめたときなんですが、うちのボスはどうでしょう。何しろ一時期ひどかったという話も聞きますし……』
「ひどかったって?」
『あ――』鷹尾はしまったという顔をした。
『佐枝さんは知らなかったんですね? じゃあオフレコで。私がTEN-ZEROに就職を決めた時、ボスについては良くない噂が流れていて、オメガは用心しろといわれたんです』
「用心って?」
『つまみ食いして捨てるからって。実際はそんなこと全然なかったんですけどね。単にめちゃくちゃ厳しいだけでした。だから根も葉もない噂だったんですけど』
俺はまばたきする。大学時代の藤野谷からは想像もつかなかった。藤野谷はモテたし、大学のころはベータの女性や、時々はオメガとも付き合っていたのを俺はなんとなく知っていた。俺が知りたいと思わなくても風の噂に聞こえてくるのだ。藤野谷の方も俺にそんな話をいっさいしなかったが、誰とも長続きはしないかわり、すべて学生同士のごく普通のつきあいだったはずだ。
当時は藤野谷と自分が何の関係もないのだと思っても、ざわざわと体の奥が湧くようになるのを止められなかった。そんなときは決まってひどいヒートがやってきたから、迷惑な話だった。
『あ、ごめんなさい、変な話して。とにかく最近ボスが明るいし優しいので私は助かってます。きっと佐枝さんとのプロジェクトがうまくいってるからですよ』
「プロジェクトがうまくいってるのは俺よりもきみや三波のおかげだろう」
そう俺は鷹尾に答えた。
「そういえば三波は藤野谷とよく出かけてるんだろう? 十二月に一度キノネで会ったよ。三波は靴をオーダーしたといっていた」
『え、何ですかそれ。聞いてませんよ』
今度は鷹尾が眼を丸くした。
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