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【第2部 ハウス・デュマー】3.フラクタスの波
空の低い部分に層になった雲がある。天気は下り坂なのだろうか。それでも俺はペダルを踏んだ。ロードバイクはアシストのおかげで上り坂もらくらくと発進し、木立のあいだを走っていく。カーブを曲がるとゆるやかな下りになって、ハンドルのあいだの液晶ディスプレイに表示されたスピードは自動車も顔負けだ。
ときたま横を走り抜ける車に注意を向けながら、俺はゴーグルごしの風景をみつめつづける。手や足は防寒しているが顔を叩く風がひたすら冷たい。おかげで徹夜の眠気が冷め、沸騰したようだった頭の中も落ちついてきた。
駅の方向には行かない。午前中あんな風に怒鳴っておいて、もし藤野谷に遭遇でもしたら眼も当てられない。徹夜したとはいえ、昼間から眠るという選択肢もなしだ。夜ぐっすり眠りたければ体を動かすのがいちばんだ。
コンビニやカー用品のチェーン店がならぶ国道の手前で県道にそれる。畑のあいだに農家が点在し、風景は冬枯れた茶色とグレーだ。畑を区切る畦道のところどころで、すこし前に降った雪の融け残りが白く固まる。
下っていく道の先はひらけて、前方に見えていた雲の上側が波のような形に変わっていた。コーヒーチェーン店の駐車場にロードバイクをとめたときもガラス窓にその形が映っている。俺は雲の写真を何枚も撮り、撮りながら形が変わっていくのを眺めた。
休憩にと思って立ち寄ったのだが、ありきたりの郊外チェーン店だった。コーヒーを飲みながら撮った写真を確認するが、ディスプレイの上の波の形とは関係のない連想ばかり浮かぶ。藤野谷と三波。彼らはいまごろ何をしているだろう。
十二月にキノネで会った時にうすうす察していたのだと、そう思い返した。並ぶと雑誌のモデルのようなふたりだった。三波はオーダーした靴を受け取っただろうか。
ふいに体がふるえ、首のうしろにぞくりと走りぬける感覚が背中をつたって腰まで降りる。体が熱くなる。それと呼応するように、真昼間なのにろくでもない空想が頭に浮かぶ。
俺は肘をあげて自分の匂い――いつもの香水を嗅いで気分を落ちつかせようとした。これが俺だ、と思う。たまに自分が何なのか、よくわからなくなる。
ヒートの予兆に似ていたが、気のせいだと思いたかった。ヒートは十一月にイレギュラーで起きたあと、何もなかったように通常の周期で一月はじめに軽いものが一回あり、不安定だからと峡は薬の処方を変えた。一度ラボへ詳しい検査に来るようにともいわれていたが、俺は先延ばしにしていた。
峡の狙いは見当がついていた。健康上の理由や、子供のころのように俺を世間から隠すための方便もなくなったいま、峡は俺が抑制剤の服用をこの先も続けるのはよくないと思っている。本来なら十代のうちに止めるはずだった処置は俺の希望で伸ばされた。
昔、オメガが社会的に不利益をこうむるのが普通だった時代は、今よりもっと副作用のひどい抑制剤をつかって性周期を調整し、オメガ性を隠すのはよくあることだったらしい。しかし俺が生まれた頃はすでにそんな風に抑制剤が使われることはめったになく、抑制剤そのものも、オメガ性特有の病気の治療の一環や、ヒートの作用が強烈すぎる場合の副効果を期待して処方されるようになっていた。一方でオメガ性特有の匂いを緩和する中和剤のパッチが開発されたのは俺が小学校に上がったころだった。
これらの薬は、俺に保護プログラムが適用されていた間は保険が効いたが、今は自費購入だ。金銭的な負担はそれなりに大きい。臨床試験に協力していたから多少の取り返しはつくものの、とっくにやめたっていいのだ。そして何食わぬ顔でオメガとして生きてみるのは悪くないはずだった。家族以外のリアルな交友関係はほとんどないのだし、ネットがあれば仕事はできるのだから、引っ越してもいい。
実際TEN−ZEROの案件が終わればそれもありだろう。それは何度も考えた。なのに踏ん切りがつかないのは、十一月のようなヒートを思い出すからだ。峡が強くいわないのも、あれが俺にとって耐えがたいのを知っているからだろう。そう、峡はずっと知っているのだ。最初のヒートの時から、俺のあの……
また首筋が逆立つような感触があった。俺は手のひらでごしごしこする。オメガは首のうしろに受容体を備えている。アルファとオメガがつがいになるには、アルファがオメガに挿入した状態でここを噛む。アルファの体液でオメガの受容体が変化し、このペアはつがいとなる。何度かくりかえせばヒート期の匂いも薄れてくる……
無味乾燥な記述を頭の中で唱えているのに、なぜか藤野谷の吐息が首のうしろにあたるような錯覚をおぼえた。あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いたくなった。俺はコーヒーを一気に飲み干し、店を出た。波の形をした雲はとっくに消え失せ、風だけが冷たかった。
ハウス・デュマーのバーカウンターにはユリの花が飾ってある。
大きな白いユリで、ジャスミン同様強い香りがする。花が飾られるのはカーニバル・デイのしるしなのだと、たずねる前からバーテンダーが教えてくれた。
ウイスキーを頼もうとしたとき、肩に軽く手が触れた。長身をかがめて耳元でささやかれる。
「ゼロ」
「加賀美さん」
相手は仮面をつけていたが、声も、スーツからほのかにただよう匂いも、まぎれもなく加賀美だった。そばに仮面をつけた細身の男が立っているが、加賀美は無視して俺の隣のスツールに腰をおろす。
「何を飲む?」
「あ……水割りで」
「それ以外は飲まない?」
「そんなわけではありませんけど」
「僕におごらせてくれないか」
バーテンダーを呼ぶと加賀美は軽い手振りをまじえてオーダーしたが、天井に反響する話し声と音楽のためによく聞こえない。先週より遅い時間だ。フロアはすでに出来上がっている様子だった。バーテンダーはシェイカーを振りはじめ、加賀美はスマートにカウンターへ向かっている。俺はスツールに座りなおしたが、落ちつかない。
「連れがいたんですか」と、加賀美のそばに立つ男が彼の腕に手を触れる。
加賀美はさりげない仕草でそれをはずした。
「人を待ってるといっただろう?」
平静な声でそう返された男は俺の方を向き、ついで黙って離れていく。細身の背中はあきらかにオメガだ。
「――いいんですか? 俺は……」
「今日はきみに会えるかもしれないと思ったから来た」
バーテンダーが銀色のシェイカーをあけ、丸みをおびたカクテルグラスに真っ白の泡立つカクテルを注いだ。カウンターのユリと同じ色だ。
「マウンテン。卵白を使っています」
加賀美のグラスは先週同様のウイスキーらしかった。俺はグラスをあげてひと口飲んだ。やわらかい口当たりだが、甘過ぎず、すっきりした味だ。
「どう?」
「美味しい」
「よかった」
加賀美が微笑むと頬にかすかなえくぼが浮かんだ。自信ありげな、圧倒的なアルファの雰囲気が漂った。スツールからダンスフロアの方へ向きを変えると、彼の肘が俺の脇腹に軽く触れ、離れた。
「今週の演奏は先週よりいいよ」低めの声がすぐ耳元で聞こえる。
「弦がいますね。バンドには珍しい」
「あのヴァイオリンは悪くない。僕はこういう場所で聞くヴァイオリン、けっこう好きでね。クラシックもいいが…」
加賀美は有名なジャズバイオリンの奏者の名をあげた。数年前に故人になったその演奏家は俺も知っていたから、先週のようにまたしばらくのあいだ、音楽の話をする。
カクテルは飲みやすく、やがて俺はリラックスして落ちついてきた。抑制剤を控え、中和剤のパッチも貼らないままハウス・デュマーへ入る最初の一歩はやはり緊張するのだった。ベータの偽装は俺にとって鎧か、盾のようなものになっていると思い知る一瞬だった。薄暗い中、他人の視線と匂いが品定めするように俺をかすめ、去っていくのを感じるのは居心地が悪かった。
それもあって、加賀美がいることをひそかに期待したから、彼の方から声をかけてくれたのは嬉しかった。誰かと会ってこんなふうに感じたのはひさしぶりだった。
「次のリクエストはある?」
空になったグラスの脚を撫でながら音楽に合わせてリズムをとっていると、加賀美の指も俺のグラスのふちに触れる。
「ウイスキーを。シングルで」
俺は加賀美が手をあげるのを慌ててとめた。
「――今度は俺からおごらせてください」
「だったら酒じゃない方がいいが」と加賀美は微笑む。
「ゼロ、ダンスフロアへ行こう」
「――踊れないんです」
「大丈夫だ。僕がリードするから」
俺はあいまいに首を振った。今日は――というか今日も、俺はありきたりのシャツにブラックジーンズ、ジャケットというスタイルで、フロアにいる、いかにもこのハウスに慣れた華やかな男女――とくにオメガ――に混ざるのは気が引けた。だが、クラシックのソリストについて加賀美と話しながらウイスキーを飲み終えた頃、曲の雰囲気が変わって静かになった。
かちりと音がして、加賀美の仮面の留め金がはずれる。
「今日は早く来たから」そういって加賀美は黒い仮面をバーカウンターに置いた。「降りないか」
酔いも回ってきたせいだろうか。俺は素顔をさらした加賀美に手をひかれるままダンスフロアへ降りていった。仮面の人々でフロアは混んでいる。薄暗い照明にときおりスポットの明かりが混ざる。加賀美は俺の眼を正面からのぞきこんだ。両手が俺の肩へ、そして背中へ回り、俺は無言でうながされるまま、自分の手を加賀美の背中にそっと回す。自然に体をひきよせられた。
加賀美にリードされるまま、俺はゆるやかにリズムに乗った。不思議なことにまわりの眼も気にならず、とても楽だった。フロアの片隅をゆっくりと動きながら、薄暗いなかで聞こえてくるのは音楽と加賀美の吐息だけだ。加賀美の手が俺の腰を抱くように支え、接触した服ごしに体温と彼の匂いを感じる。
「ゼロは……不思議な雰囲気だ」
耳のすぐ横でささやかれて、背中がぞくっとした。
「どうして?」
「こんなにいい匂いがするのに……オメガらしくなくて」
加賀美は突然言葉を切り、仮面の上から俺の眼をのぞきこんだ。弁解するようにいう。
「すまない。貶すつもりじゃないんだ。中性的な魅力があるといいたかった」
腰に回された腕の力が強くなり、髪に加賀美の唇を感じた。
「もしかして、ずっと誰かとつがいだった?」
「え?」俺は驚いて立ち止まった。
「まさか。――なぜ?」
加賀美は俺の腰を抱いたまま音楽に合わせて動きはじめる。いつのまにか壁際にいて、柱の影で俺は加賀美の腕に囲われるように立っている。
「若いうちに誰かとつがいになれば、ハウスにひとりで来るなんてめったにない。慣れないのはそういうわけかと。ゼロのその……気配も……」
加賀美は俺を見下ろしてささやく。
「あなたは?」
俺はたずねかえした。加賀美の指が俺の唇に触れる。彫りの深い顔がおりてきて、吐息に声がかぶさってくる。
「今の僕がひとりでなければ、きみとこうしていない」
今夜のキスは長く、でも優しかった。俺の頭の中でここ数日響いていたみじめな喧騒がやみ、寄せられた体の温度に全身の緊張が解ける。だが背中にまわされた手のひらがさらに下へおり、ジーンズの太腿を撫ではじめると、俺は躊躇した。
加賀美はそんな俺の反応を敏感に感じ取ったようだった。唇が離れ、俺の顎をやわらかく指がなぞる。彼は顔をさらしているのに俺は仮面をつけたままだ。ふと、うしろめたいような気持ちになる。
「きみは謎めいているからいいんだ、ゼロ」
そんな俺を見透かしたように加賀美はささやいた。ダンスフロアの片隅でその腕のなかに囲われているだけなのに、腰の奥がひそかにうごめくのがわかる。捕らえられてしまった動物の緊張感と、守られている安心感が同時にやってくる。
「僕は若くない。急ぐ必要もない」
「……加賀美さん」
加賀美は俺の仮面に触れる。優しい手つきだった。
「また会えるかな。次の仮面の日にでも」
俺はうなずいた。また唇が触れた。羽根のように軽いキスだった。
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