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【第2部 ハウス・デュマー】4.天使の梯子

「サエって飴が好きだよな」  藤野谷が俺の横で小さな声でいう。  俺はレモン味のキャンディを噛みくだく。 「そうでもないけど」 「でもよく舐めてるだろ」 「飲めないから間をもたすのに便利なんだよ」 「飲み会なんてめったに行かないくせに」  藤野谷が物欲しそうな眼つきでこちらをみる。俺は飴を彼の指のあいだに置く。 「やるよ」 「サンキュ」  そう藤野谷はいうが、舐めようとはしない。  俺は資料を広げてノートパソコンを叩く。藤野谷はタブレットで検索をかけている。俺の意識の一部は他人事のように遠くからその様子を眺めて、夢をみていると思う。大学生ふたりがカフェにいる、それだけの夢だ。とっくにコーヒーはなくなって、水と飴でねばっている。ガラス窓の向こうにみえる空は、午後の太陽の光が雲の上から射して、スポットライトのように薄い光線が落ちる。 「もうすぐバレンタインだ」と藤野谷がいう。  俺は何もいわない。バレンタインといえば、男も女もアルファもベータもオメガも、チョコレートを渡して告白だとか、なんとなくつきあっていたのがつがいになるとか、いろいろとかしましい。  俺はもらったこともなければ渡したこともない。 「サエは興味ないよね」 「チョコは好きじゃない」  俺は何年か前の事故のようなキスを記憶からしめだそうとする。藤野谷が一度もこれに触れず、冗談にもしないのはありがたい。もしかしたら彼にとってはたいしたことではなかったのかもしれない。 「飴が欲しいな」藤野谷が唐突にいう。 「いま渡さなかった?」 「それじゃなくて」 「なんだよ」  頭の右上で断続的な音が鳴っている。コーヒーマシンの調子が悪いらしく、警報が鳴り響く。かなりの騒音だ。店員は止めないのか。  うるさい――と思った瞬間、眼が覚めた。チャットの着信を知らせるチャイムが続けて鳴っている。モニターに加賀美の写真がならんでいる。  眠くて能率のあがらない日で、思い立って加賀美の名前を検索したのだった。今日のハウス・デュマーはカーニバル・デイのはずだ。  本名を名乗っているとは限らないと思ったが、表示された検索結果の画像はそのまま加賀美本人だった。ネットの写真はいまより少し若いかもしれない。加賀美光央。三文字の苗字から想像していた通り、名族の加賀美家の一員だった。大学教授で専門は美学、社会学。  着信チャイムがまだ鳴っている。エージェントの暁からの打診。叔父の峡からのメッセージが何件も到着している。ラボへ検査に来る日程を候補から選べという連絡で、返事を催促されている。次のヒートの後がいいから少し待ってくれと返しながらも、俺の頭はたった今までみていた夢を反芻していた。そういえば今日はバレンタインデーだった。もう何年も、これに絡んだ仕事でもなければすっかり忘れている日だ。  以前広告デザインを請け負ったとある結婚式場とのTV会議で、バレンタインにつがいになって初夏や秋に結婚するアルファとオメガの「モデルケース」を解説されたことがある。バレンタインを契機に結婚を考えはじめたターゲットに向けた戦略について、アルファの担当者が熱心に話していた。  俺は途中からいいかげんに聞き流していたので「佐枝さんはバレンタインってどうでしたか?」と話を振られたときは焦った。 「別に何もなかったですね」 「そうですか? 意外だな」と担当者は俺の顔を不躾に感じるほどじろじろ見ていたが、俺には意味がわからなかった。 「なんといっても名前が『零』ですからね」と俺は返したはずだ。 「ゼロってことです」  もっとも〈ハウス〉のような場所での通称を「ゼロ」で通したきっかけは、もとはといえばカフェ・キノネで短期間アルバイトをしていた頃、マスターが冗談で俺をそう呼んでいたせいだ。マスターの距離の取り方は近づきすぎず遠すぎずで心地よいのだが、彼の物の見方は時々謎だった。 「ゼロ点と零点だったら、断然ゼロ点の方がいいでしょ」などと唐突にいいだすのだ。 「……何のことだかわからないんですが」 「だからゼロにしよう」  こんな謎の会話のあと、俺は「ゼロ」になったのだった。「だからゼロにしようって、どこが『だから』なんだよ……」と、マスターの隣で黒崎さんが頭を抱えていたのを覚えている。 「ゼロ」は大学を出た後、しばらくネットでも使っていた。今のような動画作品を作る前のことだ。しかしすぐに他人とつながるのが面倒になり、結局毎日スケッチをSNSに流すだけの無言アカウントと化した。それなのに続けるうちにフォロワーがついてきて、絵が拡散されるようになった。すると俺は不安でたまらなくなり、固定名でSNSを使うのをやめた。  もちろんハウス・デュマーの情報は外に出ないように守られているはずだ。しかし加賀美の立ち居振る舞いには圧倒的な自信が感じられる。きっと彼は世の中に何を偽ることもないのだろうし、素顔をさらしても平気なのだ。  羨ましいというより憧れの域だった。少なくとも今の俺には不可能なことだった。  作業を早めに切り上げると、夕方のまだ早い時間に車を呼んだ。  混雑しないうちにデュマーへ行って、バーで加賀美を待とうと思っていた。なのに到着すると思いのほか人が多い。入口で仮面は渡されたが、今日は解除キーを設定しなくていいとAIのサムがいう。 『バレンタインですから。今夜はパーティです。お好きなタイミングで外されて構いませんし、つけたままでも大丈夫』  それでもバーはまだ閑散としている。照明が前よりも明るく感じられた。ダンスフロアには大型のディスコボールが吊られ、音楽もポップな選曲だ。落ちついた雰囲気の加賀美には似合わないと思いながら俺は飲み物を頼みに行く。バーカウンターには赤い薔薇が飾られていた。 「今日限定のカクテルがありますよ」  バーテンダーがグラスを磨きながらいう。 「コンフェッション。告白、というカクテルです。いかがです?」  俺は首を振った。 「いや――」 「今日はパーティですから、いつもと違うものにされては。ブラックベルベットは? 黒ビールとシャンパンのカクテルです」  俺はうなずき、きめ細やかな白い泡がのったフルートグラスを受け取った。隅のソファに移って一段下がったダンスフロアを眺める。今日はDJブースが用意されていた。ドレスアップしているカップルが多く、特に女性は華やかだった。ドレスの裾がひるがえり、ラインストーンがちらちらと光る。  突然、気配を感じた。  いやというほど知っている気配だ。なのに完全に不意打ちだったのは、ここで遭遇すると思ってもいなかったからだ。俺の視界があの〈色〉で埋めつくされる。まぶしく光りながら堕ちてくる影の色。  グラスを持つ指がふるえ、俺はこぼす寸前でなんとかテーブルに着地させた。頭の片隅で、眼を離せ、動けと叫んでいる声がするのに、身じろぎもできない。強引に〈色〉の中心に惹きつけられる。  そして藤野谷を見た。  仮面をつけていても明らかだった。長身がフロアできわだち、俺でなくても自然に眼を惹かれるだろう。隣にすらりとした影が立ち、音楽に合わせてリズミカルに体を揺らしている。スポットがその上をなめて一瞬照らした。やはり仮面をつけているが、その姿勢には見覚えがあった。と、手があがって仮面をはずした。  三波だ。  うっとうしそうに仮面を床に投げるのがいかにも彼らしかった。藤野谷が腕をとるのをさらりとひねってほどき、ひとりで踊りはじめる。しなやかできれいな動きだった。肩をすくめて藤野谷も仮面を外す。三波の肩へ手をのばそうとして、ふと彼の視線がこちらを向いた。  時間が止まったような気がした。  心臓が脈打つ音が聞こえる。こんなに離れているのだから藤野谷に俺が見えるはずはない。しかも仮面をつけているのだ。  なのに視線は俺をそのまま串刺しにした。体の内側から熱が湧き、背筋をふるえが駆けおりる。唾を飲みこんだ拍子にシャツの襟が首筋をかすめ、その感触に皮膚がざわめく。  俺はひきはがすように頭を振って眼を閉じた。手首のタグに向かって「サム」と呼ぶ。 「ひとりになれる場所は空いてる?」 『お部屋をお使いになりますか?』  サムの深いバリトンが仮面の横から伝わってきた。骨伝導のイヤホンが仕込まれているのだ。まったく、このハウスの設備はよくできている。 「ひとが周りにいなくて静かな場所ならどこでもいいんだ」 『シアタールームの三番が空いています。お取りしました。バーの横からお通りください』 「ありがとう。もし加賀美さんが――加賀美光央さんが来たら、そこにいると伝えてくれないかな」  シアタールームはオーディオルームの向かいにあった。大きめのカウチの前に大画面の液晶ディスプレイが置かれている。ここまで歩いてくるのは問題がなかったが、カウチに腰をおろしたとたん、体の内側でどくどくとうねる熱に息が荒くなった。リモコンを叩いて見慣れた番組を探し、半世紀近く前に作られたSF映画を流す。  カウチの背にもたれて眼を閉じた。仮面の感触が気になってたまらない。いっそ外そうかと思った時、声が聞こえた。 「ゼロ?」  クッションに重みがかかり、腕が温かさに包まれる。 「どうした?」  こたえる前に肩が抱き寄せられ、加賀美の腕に抱きしめられた。ひたいにそっと唇が押しつけられる。 「ヒートか」  俺は眼をあけた。加賀美は仮面をつけていなかった。 「急に……はじまって……」 「部屋をとろう。連れていく」  加賀美がサムに指示をしているのを俺は遠くで聞いていた。ぼうっとした頭の中では何もかもが熱を帯びているようで、それが下半身に集まってくる。ふらつきながら立ち、加賀美が伸ばす腕に腕を絡めた。加賀美は何のためらいもみせなかった。ダンスフロアで踊った時のように廊下をエレベーターへと導かれたとき、俺の視界にまたあの〈色〉がみえ、向こうから来る人の話し声が聞こえる。 「こっちにオーディオルームがあるんでしょう? ミニバーも」 「まだ飲むのか?」 「こんな贅沢なハウス、僕みたいな庶民はそう入れるものじゃないですからね」  よく知っている口調に膝がふるえた。 「ゼロ」  加賀美は俺の異変を感じ取ったようだった。耳元でささやく。 「大丈夫だから。ここは〈ハウス〉だよ」  あの〈色〉の気配が俺のすぐそばまで近づいてくる。エレベーターを待ちながら俺は加賀美の背中に腕を回した。足がふるえ、図らずもしがみつくような恰好になった。顎に手がかけられ、唇が押しあてられた。熱い舌が俺の下唇をなぞり、俺は熱に浮かされるまま口を半開きにしてそれを受け入れる。粘膜が触れあう音がくちゃりと響く。  甘いうずきが腰の奥に走って、うしろが濡れるのがわかった。はりつめた股間も熱く、耐えがたいほどだ。  いつエレベーターを下りたのだろう。ドアの向こう、間接照明と小さなライトで照らされた部屋は思いがけない広さで、ベッドはふたつあった。  加賀美は奥のベッドに俺を横たえ、仮面の上を手のひらで覆う。強制的にもたらされた暗闇のなか、波立つ熱がほんのわずかだけ穏やかになった。 「ゼロ」  すぐ上で加賀美がささやいた。目をあけると、柔らかな照明に照らされて彫りの深い顔立ちがきわだっている。 「もしきみが望んでいないなら、僕は……」  俺はもたつきながら腕をあげ、仮面の留め金をはずした。加賀美がそっと仮面をとった。言葉をみつけられないまま、一瞬俺は彼が失望するのを恐れた。  加賀美の吐息が眼元に触れ、背筋に甘いしびれが走る。 「ゼロ」  唇が俺のまぶたのした、頬、顎をなぞって、首筋を舌がたどった。 「隠さない方が、きみは素敵だ」

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